大聖寺城(だいしょうじじょう)
●所在地 石川県加賀市大聖寺錦町
●指定 加賀市指定文化財(昭和35年10月7日)
●高さ 67~70m
●築城期 鎌倉時代
●築城者 狩野氏
●城主 狩野氏、一向一揆、溝口秀勝、山口玄蕃頭宗永、前田氏等
●形態 連郭式
●遺構 郭・土塁・空堀
●登城日 2014年6月18日
◆解説(参考文献『大聖寺城跡発掘調査現地説明会資料』加賀市教育委員会H24・6・3、「雲州松江の歴史をひもとく」松江歴史館編集等)
【写真左】大聖寺城遠望
南東の大聖寺駅側から見たもので、左側には津葉城が隣接する。
【写真左】大聖寺城要図
大聖寺城跡縄張調査図を参考に主だった遺構を作図した。
なお、この大聖寺城の西側(同図左上)の谷は、「骨が谷」と呼ばれているが、この谷を介して隣接する丘陵地は、「津葉城」があったとされる。
現地の説明板より
“大聖寺城址錦城山の由来
標高67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正11年(1583)大聖寺領主となって4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。
【写真左】錦城山(大聖寺城址)公園案内図
登城口に当たる東麓部に設置されているもので、この位置には忠霊塔・芝生広場を含め駐車場が完備されている。
本丸をはじめ、二ノ丸・鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防御を固めていた。
慶長3年(1598)溝口秀勝が越後新発田に転封したのち、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が7万石の領主として入城した。
慶長5年、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年8月3日早朝、山口軍1,200に対して、前田軍は25,000の圧倒的兵力で攻めたて、山口父子をはじめ多くの将兵が討死した。
【写真左】登城道
東側の駐車場から歩いて向かう。
登城したのが、梅雨時であったため雑草の丈が伸びて遺構の様子を見るのにはあまりいい時期でなく、藪蚊に大分咬まれた。
殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長は、すぐに修築し城代を置いたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となり、以後再建されなかった。
藩政時代はお止め山として、一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。現在でも貴重な動植物が多く、秋の黄葉の美しさから明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。
なお、大聖寺という地名は、古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名からといわれている。
平成14年12月 加賀市”
【写真左】贋金造りの洞穴
説明板より
“贋金造りの洞穴
明治元年明治新政府より越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は、この洞穴の中で贋金を製造した。
銀製品をとかし、弐歩金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く通用し政府の命を果たした後に露見に及び、製造責任者市橋波江に切腹を命じた。
然し子息には倍の禄を与えて功に報いた。この事件をパトロン事件という。(註 パトロンとは弾薬の意)”
大聖寺城(錦城山)の歴史
大聖寺城及び、津葉城が所在するこの小丘陵地は、錦城山と呼ばれている。大聖寺というのは、この錦城山に白山寺の末寺白山五院の一つ大聖寺があったことに由来している。
現地の説明板には主に天正11年以後のことが記されているが、ここではそれ以前の主だった動きを少し紹介しておきたい。
【写真左】東丸
大聖寺城には大小の郭が大変多く残るが、そのうちこの東丸の郭はもっとも眺望の効く箇所で、特に大聖寺の街並みがよく見える(下の写真参照)。
【写真左】大聖寺の街並み
左側奥には加賀市役所や大聖寺駅が見える。
築城期は鎌倉時代、狩野氏が築いたとされているが、詳細は不明である。その後南北朝時代の建武2年(1335)、『大聖寺城」の初見が『太平記』に見られる。
加賀の鳥越城・その1(石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町)でも述べたように、同国では一向一揆による支配が強くなっていくが、戦国時代の弘治元年(1555)、越前の朝倉教景が大聖寺城に籠る一揆勢を攻撃し、落城させたとある(『朝倉始末記』)。
【写真左】下馬屋敷跡
東丸を抜けてさらに西に進むと、途中で谷間に配置された下馬屋敷跡がある。
また、この谷の上段には番所屋敷跡が造られている。
このあと、再び南側の尾根筋伝いを進み、鐘ヶ丸に向かう。
信長が足利義昭を奉じて入京する前年の永禄10年(1567)、一揆勢が居城としていた加賀・松山城及び、朝倉氏が拠っていた大聖寺城が、義昭の仲介によって焼却された。
いずれも信長の支配がこのころから次第に強くなっていったことを物語るものだが、天正年間に至るとその勢いは増していき、同3年(1575)柴田勝家が改めて朝倉氏の拠る大聖寺城を奪回し、信長が佐久間盛政を城番として置いた。5年後の天正8年(1580)、信長は新たに大聖寺城主として勝家家臣の拝郷五左衛門を置いた。そして、本能寺の変において信長が亡くなると、秀吉がその跡を継いていくことになる。
【写真左】鐘ヶ丸・その1
当城の中では二の丸と同じく最も規模が大きい。
【写真左】鐘ヶ丸・その2
西側(左)には土塁が配置され、その外側は切崖となって、下段に腰郭が配置されている。
【写真左】鐘ヶ丸・その3
鐘ヶ丸の北側にはそれぞれ1~2m程度の比高差を持つ腰郭が2段附属されており、一旦この鞍部で本丸側と区画されている。
【写真左】土塁
鐘ヶ丸側のもので、当城にはこうした規模の大きな土塁が多くみられる。
【写真左】鐘ヶ丸から下の道に降りる。
鐘ヶ丸の北西端を過ぎると、本丸の西側にある谷沿いに下る道がある。
写真手前が鐘ヶ丸側で、左に向かうと西の丸になる。上部は本丸側の切崖に当たり、ここから直接登ることはできない。
このあと、西の丸に向かう。
【写真左】西の丸
日当たりもよくなく、湿気がかなりある。植物関係には全く疎いが、これまであまり見たこともないような草が多い。
【写真左】馬洗い池
西の丸の東側にある池で、現在は殆ど水が溜っていない。
【写真左】発掘調査跡か
記憶が定かでないが、三の丸の脇を踏査しているとき、右側斜面にあった箇所で、法面の崩落修理にも見えるが、発掘調査後復旧のために積まれた土嚢にも見える。
また、付近にはこの箇所以外にも調査跡とみられる箇所があった。なお、この斜面の上部に二の丸がある。
【写真左】三の丸・西の丸・戸次丸分岐点
三の丸の長軸は長いものの、幅が狭いせいか、良好な写真は撮っていなかった。
このあと、先ず東端部の戸次丸に向かう。
戸次丸(べっきまる)
大聖寺城には多くの郭が残るが、その中で東端部に伸びる尾根筋には、戸次丸(べっきまる)という名の郭がある。
この名前の由来については、二つのことが挙げられる。一つは、元織田信長の家臣で天正4年(1576)に当城の城主となった戸次広正の名前から命名されたもの。戸次広正の元の名前は、梁田広正とされ、後に朝廷から秀吉、光秀らとともに右近太夫に任ぜられ、豊後の名族戸次(別喜・大友)の姓を下賜されたといわれる。
もう一つは、後段で紹介するように、慶長5年に行われた大聖寺城における戦いで敗れた山口玄蕃充が、秀吉に仕えたとき、豊後大友義統の改易に伴って豊後国に入り、太閤検地を行っているが、その時の経験から本人が名付けた可能性もある。
【写真左】戸次丸
上記分岐点から東の尾根伝いに進んで行くが、それまでに4ヵ所の郭段が連続していく。先端部の戸次丸は南北に長い三角形をなしており、その下段にはさらに2段の腰郭が配置されている。
写真は戸次丸の入り口付近で、この日は次第に雑草の草丈が長くなってきたため、この辺で引き返す。
そのあと、改めて分岐点に戻り、二ノ丸を目指す。
【写真左】二の丸
鐘ヶ丸とほぼ同規模の大きな郭で、北面の周囲には土塁が囲繞する。
このあと、更に西に向かい本丸を目指す。
【写真左】本丸下段の郭付近
北側の土塁箇所にブルーシートが掛けられているが、発掘調査箇所と思われる。
山口玄蕃頭宗永
説明板にもあるように、城主宗永は関ヶ原の戦い前、西軍(石田三成方)に与し、東軍方の前田利長と戦った武将である。
大聖寺城における戦いは、宗永らは、1000騎にも満たず、一方前田方は2万以上の大軍である。衆寡敵せず、宗永・修弘父子は自害した。ときに、慶長5年(1600)8月3日、関ヶ原の戦い1か月前のことである。
なお、宗永父子は自害し、修弘の弟、弘定もこののち、大坂の陣において豊臣勢に与するが、戦死している。しかし、修弘または弘定の子であろうか、子孫はその後出雲・松江藩に仕えている。
【写真左】山口玄蕃頭宗永公之碑
二の丸を西に進み、少し坂を上っていくと、やがて南北に伸びた本丸が見えてくる。
その一角には、慶長年間に当城で討死した城主・山口宗永の慰霊碑が祀られている。
松江歴史館編集による「雲州松江の歴史をひもとく」という本の中に「松江藩士のルーツ」というのがある。これを見ると、加賀国からは2人が仕えている。
二人とも山口宗永の子孫かどうか不明だが、禄高では、一人が100~499石、もう一人が10~99石と小禄である。しかし、明治維新後になると、この系譜の中から、日銀の理事となった山口宗義や、明治時代を代表する建築家・山口半六などが輩出している。
【写真左】本丸・その1
西側(写真右)は長い土塁があり、その土塁の一角には櫓台となった高まりがある。
【写真左】本丸・その2 土塁
右側の郭底面からおよそ4m前後の比高を持つ土塁で、左側は急傾斜の切崖となっている。
当城は全般にいえることだが、標高100mにも満たない平山城ながら、要所の切崖はかなり鋭角に削ぎ落とした要害を持つ。
宗永らが、少数精鋭で果敢に前田勢と戦った様子がこれらの遺構からも想像される。
このあと、中央の谷に向かって下山する。
【写真左】郭段
すべての郭に名称がついてはいないが、いずれも施工精度が高く、雑草は繁茂しているものの、登城時期がよいともっと見ごたえがあると思われる。
深田久弥
帰宅してから知ったのだが、大聖寺(町)は、小説家・登山家の深田久弥の生誕地らしい。
彼が登山にのめり込むきっかけとなったのが、中学生のとき(大正7年)、友人と登頂した白山だったという。地元の山ということもあるが、この山は往古から人を引き付ける山のようだ。
もっとも、ほとんど標高1,000mにも満たない山城登城で息が切れている管理人には別世界だが……。
●所在地 石川県加賀市大聖寺錦町
●指定 加賀市指定文化財(昭和35年10月7日)
●高さ 67~70m
●築城期 鎌倉時代
●築城者 狩野氏
●城主 狩野氏、一向一揆、溝口秀勝、山口玄蕃頭宗永、前田氏等
●形態 連郭式
●遺構 郭・土塁・空堀
●登城日 2014年6月18日
◆解説(参考文献『大聖寺城跡発掘調査現地説明会資料』加賀市教育委員会H24・6・3、「雲州松江の歴史をひもとく」松江歴史館編集等)
【写真左】大聖寺城遠望
南東の大聖寺駅側から見たもので、左側には津葉城が隣接する。
大聖寺城跡縄張調査図を参考に主だった遺構を作図した。
なお、この大聖寺城の西側(同図左上)の谷は、「骨が谷」と呼ばれているが、この谷を介して隣接する丘陵地は、「津葉城」があったとされる。
現地の説明板より
“大聖寺城址錦城山の由来
標高67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正11年(1583)大聖寺領主となって4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。
【写真左】錦城山(大聖寺城址)公園案内図
登城口に当たる東麓部に設置されているもので、この位置には忠霊塔・芝生広場を含め駐車場が完備されている。
本丸をはじめ、二ノ丸・鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防御を固めていた。
慶長3年(1598)溝口秀勝が越後新発田に転封したのち、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が7万石の領主として入城した。
慶長5年、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年8月3日早朝、山口軍1,200に対して、前田軍は25,000の圧倒的兵力で攻めたて、山口父子をはじめ多くの将兵が討死した。
【写真左】登城道
東側の駐車場から歩いて向かう。
登城したのが、梅雨時であったため雑草の丈が伸びて遺構の様子を見るのにはあまりいい時期でなく、藪蚊に大分咬まれた。
殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長は、すぐに修築し城代を置いたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となり、以後再建されなかった。
藩政時代はお止め山として、一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。現在でも貴重な動植物が多く、秋の黄葉の美しさから明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。
なお、大聖寺という地名は、古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名からといわれている。
平成14年12月 加賀市”
【写真左】贋金造りの洞穴
説明板より
“贋金造りの洞穴
明治元年明治新政府より越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は、この洞穴の中で贋金を製造した。
銀製品をとかし、弐歩金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く通用し政府の命を果たした後に露見に及び、製造責任者市橋波江に切腹を命じた。
然し子息には倍の禄を与えて功に報いた。この事件をパトロン事件という。(註 パトロンとは弾薬の意)”
大聖寺城(錦城山)の歴史
大聖寺城及び、津葉城が所在するこの小丘陵地は、錦城山と呼ばれている。大聖寺というのは、この錦城山に白山寺の末寺白山五院の一つ大聖寺があったことに由来している。
現地の説明板には主に天正11年以後のことが記されているが、ここではそれ以前の主だった動きを少し紹介しておきたい。
【写真左】東丸
大聖寺城には大小の郭が大変多く残るが、そのうちこの東丸の郭はもっとも眺望の効く箇所で、特に大聖寺の街並みがよく見える(下の写真参照)。
【写真左】大聖寺の街並み
左側奥には加賀市役所や大聖寺駅が見える。
築城期は鎌倉時代、狩野氏が築いたとされているが、詳細は不明である。その後南北朝時代の建武2年(1335)、『大聖寺城」の初見が『太平記』に見られる。
加賀の鳥越城・その1(石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町)でも述べたように、同国では一向一揆による支配が強くなっていくが、戦国時代の弘治元年(1555)、越前の朝倉教景が大聖寺城に籠る一揆勢を攻撃し、落城させたとある(『朝倉始末記』)。
【写真左】下馬屋敷跡
東丸を抜けてさらに西に進むと、途中で谷間に配置された下馬屋敷跡がある。
また、この谷の上段には番所屋敷跡が造られている。
このあと、再び南側の尾根筋伝いを進み、鐘ヶ丸に向かう。
信長が足利義昭を奉じて入京する前年の永禄10年(1567)、一揆勢が居城としていた加賀・松山城及び、朝倉氏が拠っていた大聖寺城が、義昭の仲介によって焼却された。
いずれも信長の支配がこのころから次第に強くなっていったことを物語るものだが、天正年間に至るとその勢いは増していき、同3年(1575)柴田勝家が改めて朝倉氏の拠る大聖寺城を奪回し、信長が佐久間盛政を城番として置いた。5年後の天正8年(1580)、信長は新たに大聖寺城主として勝家家臣の拝郷五左衛門を置いた。そして、本能寺の変において信長が亡くなると、秀吉がその跡を継いていくことになる。
【写真左】鐘ヶ丸・その1
当城の中では二の丸と同じく最も規模が大きい。
【写真左】鐘ヶ丸・その2
西側(左)には土塁が配置され、その外側は切崖となって、下段に腰郭が配置されている。
【写真左】鐘ヶ丸・その3
鐘ヶ丸の北側にはそれぞれ1~2m程度の比高差を持つ腰郭が2段附属されており、一旦この鞍部で本丸側と区画されている。
【写真左】土塁
鐘ヶ丸側のもので、当城にはこうした規模の大きな土塁が多くみられる。
【写真左】鐘ヶ丸から下の道に降りる。
鐘ヶ丸の北西端を過ぎると、本丸の西側にある谷沿いに下る道がある。
写真手前が鐘ヶ丸側で、左に向かうと西の丸になる。上部は本丸側の切崖に当たり、ここから直接登ることはできない。
このあと、西の丸に向かう。
【写真左】西の丸
日当たりもよくなく、湿気がかなりある。植物関係には全く疎いが、これまであまり見たこともないような草が多い。
【写真左】馬洗い池
西の丸の東側にある池で、現在は殆ど水が溜っていない。
【写真左】発掘調査跡か
記憶が定かでないが、三の丸の脇を踏査しているとき、右側斜面にあった箇所で、法面の崩落修理にも見えるが、発掘調査後復旧のために積まれた土嚢にも見える。
また、付近にはこの箇所以外にも調査跡とみられる箇所があった。なお、この斜面の上部に二の丸がある。
【写真左】三の丸・西の丸・戸次丸分岐点
三の丸の長軸は長いものの、幅が狭いせいか、良好な写真は撮っていなかった。
このあと、先ず東端部の戸次丸に向かう。
戸次丸(べっきまる)
大聖寺城には多くの郭が残るが、その中で東端部に伸びる尾根筋には、戸次丸(べっきまる)という名の郭がある。
この名前の由来については、二つのことが挙げられる。一つは、元織田信長の家臣で天正4年(1576)に当城の城主となった戸次広正の名前から命名されたもの。戸次広正の元の名前は、梁田広正とされ、後に朝廷から秀吉、光秀らとともに右近太夫に任ぜられ、豊後の名族戸次(別喜・大友)の姓を下賜されたといわれる。
もう一つは、後段で紹介するように、慶長5年に行われた大聖寺城における戦いで敗れた山口玄蕃充が、秀吉に仕えたとき、豊後大友義統の改易に伴って豊後国に入り、太閤検地を行っているが、その時の経験から本人が名付けた可能性もある。
【写真左】戸次丸
上記分岐点から東の尾根伝いに進んで行くが、それまでに4ヵ所の郭段が連続していく。先端部の戸次丸は南北に長い三角形をなしており、その下段にはさらに2段の腰郭が配置されている。
写真は戸次丸の入り口付近で、この日は次第に雑草の草丈が長くなってきたため、この辺で引き返す。
そのあと、改めて分岐点に戻り、二ノ丸を目指す。
【写真左】二の丸
鐘ヶ丸とほぼ同規模の大きな郭で、北面の周囲には土塁が囲繞する。
このあと、更に西に向かい本丸を目指す。
【写真左】本丸下段の郭付近
北側の土塁箇所にブルーシートが掛けられているが、発掘調査箇所と思われる。
山口玄蕃頭宗永
説明板にもあるように、城主宗永は関ヶ原の戦い前、西軍(石田三成方)に与し、東軍方の前田利長と戦った武将である。
大聖寺城における戦いは、宗永らは、1000騎にも満たず、一方前田方は2万以上の大軍である。衆寡敵せず、宗永・修弘父子は自害した。ときに、慶長5年(1600)8月3日、関ヶ原の戦い1か月前のことである。
なお、宗永父子は自害し、修弘の弟、弘定もこののち、大坂の陣において豊臣勢に与するが、戦死している。しかし、修弘または弘定の子であろうか、子孫はその後出雲・松江藩に仕えている。
【写真左】山口玄蕃頭宗永公之碑
二の丸を西に進み、少し坂を上っていくと、やがて南北に伸びた本丸が見えてくる。
その一角には、慶長年間に当城で討死した城主・山口宗永の慰霊碑が祀られている。
松江歴史館編集による「雲州松江の歴史をひもとく」という本の中に「松江藩士のルーツ」というのがある。これを見ると、加賀国からは2人が仕えている。
二人とも山口宗永の子孫かどうか不明だが、禄高では、一人が100~499石、もう一人が10~99石と小禄である。しかし、明治維新後になると、この系譜の中から、日銀の理事となった山口宗義や、明治時代を代表する建築家・山口半六などが輩出している。
【写真左】本丸・その1
西側(写真右)は長い土塁があり、その土塁の一角には櫓台となった高まりがある。
【写真左】本丸・その2 土塁
右側の郭底面からおよそ4m前後の比高を持つ土塁で、左側は急傾斜の切崖となっている。
当城は全般にいえることだが、標高100mにも満たない平山城ながら、要所の切崖はかなり鋭角に削ぎ落とした要害を持つ。
宗永らが、少数精鋭で果敢に前田勢と戦った様子がこれらの遺構からも想像される。
このあと、中央の谷に向かって下山する。
【写真左】郭段
すべての郭に名称がついてはいないが、いずれも施工精度が高く、雑草は繁茂しているものの、登城時期がよいともっと見ごたえがあると思われる。
深田久弥
帰宅してから知ったのだが、大聖寺(町)は、小説家・登山家の深田久弥の生誕地らしい。
彼が登山にのめり込むきっかけとなったのが、中学生のとき(大正7年)、友人と登頂した白山だったという。地元の山ということもあるが、この山は往古から人を引き付ける山のようだ。
もっとも、ほとんど標高1,000mにも満たない山城登城で息が切れている管理人には別世界だが……。
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