2015年10月13日火曜日

城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)

城井ノ上城(きいのこじょう)

●所在地 福岡県築上郡築上町大字寒田
●別名 萱切城・茅切城・城井郷城
●築城期 鎌倉時代~南北朝期
●築城者 宇都宮(城井)氏
●城主 宇都宮氏
●高さ 標高500~700m前後
●遺構 表門・裏門・三丁弓ノ岩等
●登城日 2014年11月18~19日

◆解説(参考資料 築上町歴史散歩HP、サイト『城郭放浪記』等)
 城井ノ上城を訪れたのは昨年の11月である。きっかけはこの年大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映され、当城の紹介があったことからだが、その後当城をアップする時宜を失い、気が付いたら約1年近くも経ってしまった。
【写真左】城井ノ上城遠望
 北麓を走る犀川豊前線から見たもの。

 







現地の説明板より

“宇都宮氏城井ノ上城址

 天正15年(1587)、宇都宮(城井)鎮房と嫡男朝房は、豊臣秀吉の九州統一(島津氏攻め)に協力した。しかし九州国分けでは鎌倉時代より豊前の国を治めた宇都宮氏一族の領地の豊前6郡は、黒田官兵衛孝高の所領となり、鎮房は転封を命ぜられた。
【写真左】城井ノ上城案内図
 城井川中流域には、宇都宮氏菩提寺とされる天徳寺があるが、この場所に「築上町観光散策マップ」が掲示されている。

 城井ノ上城は同町最南端の位置にあって、東西に連なる1000m級の切り立つ山並みを超えると、景勝地・耶馬渓(大分県中津市)や、日本三大修験山の一つ「英彦山(ひこさん)」に繋がる。


 これを不服とした鎮房と下毛郡の野仲鎮兼を筆頭とした宇都宮氏一族は、各地で黒田氏に蜂起したが、次々と鎮圧されていった。鎮房は寒田(さわだ)大平城(ここから北東3kmの山頂)を拠点とし、ここ城井ノ上城を籠城所として最後まで抵抗したが、ついに和睦した。

 しかし、天正16年4月20日、黒田長政は鎮房を中津城で謀殺し、朝房も肥後で殺され、豊前宇都宮氏400年の歴史は幕を閉じた。
【写真左】三丁弓の岩
 登城口に向かう前の場所にあって、「射手三名おれば敵一兵も通さず」ということから名づけられたという。
 登城口(城戸)はこの先にあるから、その手前の外備という。

 岩壁には数か所の穴があり、そこに隠れて敵を待ち伏せしたともいわれている。





 下の絵図に描かれるように、城井ノ上城は周囲を岸壁に囲まれた地形で、自然の岩の表門と裏門があり、隠れ城と呼ばれる。貝原益軒の『豊国紀行(ほうこくきこう)』には、「このかう屋敷は城井氏が敵をのがれてたてこもる所なり」と書かれる。
【写真左】絵図
 説明板に添付してある絵図で、『城井谷峡図』天保13年(1842)大倉種周(たねちか)(国立公文書館蔵)とある。

 三丁弓の岩は、ここを防ぐに三丁の弓だけで足りたことに因んで呼ばれる。”
【写真左】「宇都宮鎮房役に村田雄浩さん」の看板
 麓には大河ドラマ「軍師 官兵衛」に出演した城井ノ上城主・宇都宮鎮房役が村田雄浩(たけひろ)さんに決定したという看板が設置されていた。

 俳優・村田雄浩さんは、コミカルな役が多いが、管理人としては前からこの人は時代劇、特に侍・武士の役が一番似合う役者さんだと思っていた。もっと時代劇に出て重厚な演技を見せてほしいものだ。


豊前宇都宮氏

 宇都宮氏の本貫地はその名が示すように、宇都宮市のある下野国、すなわち現在の栃木県といわれている。豊前宇都宮氏の租となる信房は平安末期、朝廷(京都)に仕え中原氏を名乗っていたという。

 中原氏といえば、以前とりあげた石見国の松山城(島根県江津市)の築城者である川上孫二郎が、近江国から川上荘の地頭として着任する前、藤原氏後裔の中原房隆を名乗っていたので、あるいは同族であったかもしれない。
【写真左】登城口
 大河ドラマの影響もあって、この日も10人近くの人が訪れていた。
 登城口付近には「慈母観音堂」及び「水子地蔵尊堂」という御堂が祀られており、そこに数台の駐車できるスペースが設けられている。

 この位置から城井ノ上城中心部まで約15分で、裏門までは40分の距離である。


 さて、同氏については 馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)の稿でも簡単な紹介をしているが、豊前国に入った信房が最初に本拠としたのが木井馬場である。木井馬場は現在の京都郡みやこ町の犀川(さいがわ)木井馬場附近で、この地区には信房が最初に築いたといわれる神楽城や毘沙門城(サイト『城郭放浪記』参照)などが残る。因みにこの地域は往古豊前国府政庁がおかれた場所でもある。
【写真左】表門
 城井ノ上城は一般的な山城とは大分様子が違う。

 とにかく巨大な岩塊や絶壁、細長い渓流などで構成されている。
 人工的に手が加えられた箇所もあるかもしれないが、基本的に自然の地形をそのまま要害の施設として利用している。

 このように、特異な山城を本拠とした宇都宮氏一族は、丁度四国山脈に本拠を持った田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)の脇屋・小笠原氏などのような山岳武士としての特性をもっていたものと思われる。


 信房から数えて5代目となる頼房となった南北朝時代になると、本拠地は東隣の築城町本庄に移した。このころ宇都宮氏は土着し城井氏を名乗るようになる。

 他の一族がそうであったように、南北朝期は宇都宮氏も武家方と宮方(南朝)に分かれて対立をしたという。しかし、頼房がその混乱を収拾し、豊前各地に野仲氏、山田氏、西郷氏、友枝氏、佐田氏などといった庶流が根を下ろすことになる。その後、7代冬綱の代になると勢威は衰えるものの、周防の大内氏に属し、豊後の大友氏などの幕下になりながらもその同氏の存続を保持していった。
【写真左】もう一つの門
 表門から本丸に向かう途中にもこのような左右の巨石で囲まれた門があった。
 特に名称はついていないが、この左右の石はひょっととして宇都宮氏一族がこの位置に設置したものかもしれない。


秀吉の九州征伐

 戦国時代になると、九州は大友氏と島津氏の激しい勢力争いが始まり、宇都宮氏は否応なしにこの中に巻き込まれ、勢力を失っていった。そして、秀吉による九州征伐が始まる前、九州の版図は島津氏の台頭によって大きく変わり始め、豊前宇都宮氏はそれまで大友氏の傘下であったが、大友氏の弱体化によって、島津氏へ鞍替えした。

 しかし、秀吉の九州征伐が始まると、宇都宮鎮房・朝房父子は島津攻めに協力した。ところが、説明板にもあるように、その後の秀吉による処置は鎮房父子にとって耐えがたいものがあり、一族は各地で蜂起することになる。
【写真左】「城井ノ上城跡」の看板
 この位置が主郭と思われる箇所だが、一般的な山城のような削平された平坦地ではなく、広い谷間の一角となっている。

 説明板より
“城井ノ上城跡
 周囲を岸壁に囲まれた谷で、隠れ城と伝えられる。『豊国紀行』『城井谷絵図』では「キノカウ家鋪 城井タテコモル」と記述されている。さらに奥へ行くと、表門と同様に岩が開口している裏門がある。”
【写真左】さらに奥に進む
 次第に傾斜はきつくなり、足元はガレバ然として歩きにくい。
【写真左】裏門・その1
 ゴロゴロとした石の上を登っていくと、突然右側から明るい陽射しが照らしてきた。上を見上げると、広島県の帝釈峡にある雄橋(おんばし)のような岩の橋が見える。これが裏門だ。
【写真左】番人の穴
 裏門に向かう途中の左側の岩には大きな穴がある。「番人の穴」という。確かに人一人が入れる大きさだ。
 ここで敵の監視をしていたということなのだろう。

【写真左】裏門・その2
 両側の崖ともほぼ垂直な絶壁だが、右側の崖には多少の段がある。







鎖の改修工事

 さて、裏門に向かうには右側の絶壁をよじ登らなくてはならない。いつも手にしている杖はじゃまになるので、ここで置いていく。家内は怖くてとても登る自信はないからここで待っているという。鎖があるから大丈夫だというが、それでも納得しない。

 そんなやり取りをしていると、上の絶壁の中腹から子供の声がする。見ると、大人の男性二人と子供一人が楽しそうに狭い踊り場で昼食をとっている。
 我々の会話が聞こえてきたらしく、「今新しい鎖をつけたから、奥さん大丈夫だよ。あがってきなさい。」という。
【写真左】更新された鎖とポール
 中段の踊り場から下を見たもので、ステンレス製の四角いポールをアンカーで岩場に固定し、その間を鎖で繋いでいる。
 工事用の発電機は下に置いているが、これもここまで人力で背負って運んできている。


 彼らは地元の方で、この城井ノ上城の登城コースなどを整備している人たちだった。しかも、子供は小学校の1,2年生の男の子で、もう一人の男性がその父親だという。
 家内はあんな小さな子でもあそこに登っているということに驚いたらしく、また登らないと、せっかく整備された方に申し訳ないと思ったのか、意を決して私の後に続いた。

 中腹で待っている三人の所までたどり着くと、新しく設置した鎖は先ほど終わったばかりで、最初の利用者があなた達だという。上から見ていて、どうやら施工に問題がなかったので、これで竣工検査は合格です、と笑顔混じりにいわれた。

 家内もここまで登ってきたので、一安心し皆さんと暫く談笑した。なんでも、大河ドラマのおかげで、今年に入って急に登城者が増えたため、以前設置していた古い鎖やアンカーボルトなどを更新している最中だという。当城に登城できるのも、こうした地元の方々の地道な活動があるからである。感謝である。


 このあと、さらに上に向かい裏門の下に向かう。
【写真左】裏門の真下
 「根上の榊」としるされた木が立っている。
【写真左】裏門を見上げる。
 高さは7,8m位あるだろうか。
【写真左】反対側から見上げる
 裏門はいわゆるトンネル状となっているが、左右に延びる尾根はそもそも狭いので、すぐに裏側の谷に向かって傾斜している。
 体力に自信のある方は、この反対側から回り込んで、裏門の上部になる橋の上まで登るという。
 とりあえず向かってみる。
【写真左】裏門の橋上部
 手前まで向かったが、下以上に橋(尾根)幅が狭く、表面は突起した岩の塊で、とても歩く勇気はなく断念した。
 写真の下に門(穴)がある。



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