2012年10月29日月曜日

黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)

黒井城(くろいじょう)

●所在地 兵庫県丹波市春日町黒井
●別名 保月城・保築城
●築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 赤松貞範
●城主 荻野氏など
●高さ 標高356(比高220m)
●遺構 本丸・二の丸・三の丸・西の郭・東の郭、石垣など
●指定 国指定史跡
●登城日 2012年10月14日

◆解説
  前稿柏原・八幡山城(兵庫県丹波市柏原町柏原)からJR福知山線に沿って北上していくと、ぐるっと東に旋回して黒井駅にたどり着く。この付近を通ると、左手に形のいい山が見える。これが標高350m余りの猪ノ口山といわれた山で、この中腹部から頂部にかけて築かれたのが、黒井城である。
【写真左】黒井城遠望・その1
 南西麓から見たもので、中腹にある石踏の段をはじめ、本丸等頂部が綺麗に整備されていることが分かる。

 撮影日 2017年6月18日
【写真左】黒井城遠望・その2
 南麓から見たもの。
【写真左】黒井城登城案内図
 次稿に予定している「春日局庵」側に設置されている案内図で、駐車場はこの場所(春日局生誕地・興禅寺)と、そこから少し上った黒井城登山口にある場所の2か所がある。




 現地の説明板より

“戦国の森 黒井城跡

 黒井城跡のある城山は、町民の誇りと愛着を感じる春日町のシンボル的存在で、戦国の森として、春日町における丹波の森の中心となっています。

 ここは戦国時代の古城跡で完全な山城であり、天正7年、明智光秀の丹波攻めにより落城にあた荻野悪右衛門直正の居城のあとで、戦国の山城「黒井城」の遺構が落城時のまま残り、貴重な文化財として国の指定史跡となっています。
【写真左】黒井城全体図
 城域を示した要図で、主だった遺構は、南麓から順に


  • 三段曲輪
  • 太鼓の段・水の手曲輪
  • 石踏の段
  • 出丸
  • 本城
  • 西の丸

等が記されている。

 山頂では春日町を一望でき、山東平野を眼下に望み、晴天には京都の愛宕山、丹後の大江山を望見することができます。

 ふもとには、「春日局」幼名お福が呱々の産声をあげたと伝えられる当時の下館跡(興禅寺)が、七間濠・高石垣と白いねり塀で戦国時代の居館のようすを今に伝えています。”
【写真左】登城口付近・駐車場
 直下にある駐車場で、この場所には5,6台が確保され、手前にも4,5台駐車できる場所がある。
 登城したのが日曜日で、しかも晴天であったこともあり、少なくない登山者が来ていた。
 登城道はこの写真の奥に見える階段と、手前から登る道があるようだが、ほとんどの人はこの階段のコースから登っているようだ。
【写真左】三段曲輪付近
 本丸から約700m手前にある個所で、尾根伝いに中小の郭段が連続している。










築城期

 築城期は南北朝時代といわれている。建武2年(1335)12月、新田義貞と戦った赤松貞範がその戦功によって足利尊氏から当地・丹波国春日部を与えられたという。赤松貞範とは、赤松円心(則村)の子である。

 この年12月11日、足利尊氏・直義は、伊豆の箱根竹下で新田軍を破った。世にいう「竹下の戦い」である。この戦いで貞範の軍は新田軍の脇屋義助(脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺参照)方7000余騎に対し、わずか300余騎で戦い勝利したという。この時の恩賞として、尊氏より当地・丹波春日部荘と播磨の一部を与えられた。以後、教貞に至る5代まで約120年の間、当地を治めることになる。
【写真左】太鼓の段との分岐点
 本丸から約400m手前にある位置で、まっすぐ進むと、このあと「石踏の段」が控える。
 太鼓の段はここから右に向かう。
【写真左】太鼓の段
 南東方向を扼する曲輪で、写真手前が太鼓の段。その先には「東出丸跡へ」と書かれていたので、向かったものの、途中から道が急傾斜のためほとんど消滅し、足元が滑る一方だったので断念した。





明智光秀丹波攻

 黒井城主として赤松氏が支配した後、当城の城主の経緯ははっきりしないが、赤井氏や荻野氏らとなっている。このころの詳細な記録が残っていないのは当地に限らず、畿内から西国全般に言える。

 大永7年(1527)2月細川高国政権が崩壊すると、それから20年余りにわたって京都を起点に、畿内・西国の諸国は離合集散を繰り返し、下剋上の世となっていく。そして、天文19年(1550)11月の三好長慶が入京し、一つの節目を迎えた。
【写真左】石踏の段・その1
 太鼓の段から再び登城道に戻るとすぐにこの郭段が出てくる。本丸から300m手前に構築されたもので、眼下に春日の町並みが見える。
【写真左】石踏の段・その2
 最上段にある展望台からさらに下に向かって、約4段程度の曲輪が残る。
 左上段に舞鶴若狭自動車道が見える。







 さて、天正年間に入ると、知られるように織田信長の天下統一に向けた動きが活発となる。信長の命を受けた明智光秀が、丹波攻めを行った中で重要な戦いの一つが、黒井城の攻略である。この戦いは天正3年(1575)と、同7年(1579)の2回にわたる。

 信長が西国の入口である丹波・播磨に侵攻していったのは、以前にも述べたように、対毛利氏との対決がその背景にあった。特に丹波の西方には但馬があり、そして因幡が控えている。山陰の攻略は尼子残党である尼子勝久・山中鹿助らを支援し、特に因幡においては天正2年(1574)、私都城・若桜鬼ヶ城を攻略させた。このため、但馬の山名祐豊は豊国救援のため、一旦毛利方に通じた。

 そこへ、今度は今稿の黒井城主・荻野(赤井)直正が但馬へ進入したため、祐豊は再び信長方に転じた。

 翌天正3年(1575)10月、明智光秀はこの荻野直正を攻めるべく丹波に入り、黒井城を囲んだ。光秀らの丹波攻めを機会に同国の国人衆はほとんど光秀に属したという。しかし、その翌年に至ると、光秀に属していた丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の城主・波多野秀治が謀反し、途端に光秀は敗退を余儀なくされ、京へ退いた。これが第1回目の光秀による丹波攻略である。そして、天正7年改めて丹波攻めを行い、丹波平定を終えた。この結果、山陰道から侵攻しようとした毛利勢の東上ラインは塞がれることになる。
【写真左】東曲輪跡
 石踏の段を過ぎると、途端に九十九折となって傾斜がきつくなるが、200m余りで頂部にたどり着く。
 最初に目に入るのが、この「東曲輪」である。ご覧の通り石積みがしっかりと残っている。
 本丸付近の概要を示したものが、下段の図である
【写真左】黒井城跡本城部
 上記の写真である東曲輪跡はこの図でいえば、三の丸の右側の石積みになる。

 本丸・二の丸・三の丸併せた規模は、東西約170m×南北約45m。
【写真左】三の丸
 先ほどの石積みを過ぎると、三の丸の曲輪が見える。
 奥に見えるのは、次の二の丸の石積み。
【写真左】二の丸
 三の丸より奥行がある曲輪で、本丸の規模とさほど変わらない。
 奥に本丸の石積みが少し見える。
【写真左】堀切
 二の丸から本丸に向かう位置に分断するように縦に堀切が残る。
 現地には茅などがあって分かりづらいが、2,3m程度の深さはあるだろう。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
 現地には黒井城の別名保月城と刻銘された石碑が建つ。
【写真左】本丸・その3
【写真左】西の丸
【写真左】西の丸から本丸を見る。
【写真左】竜ヶ鼻砦か
 本丸から北側の中腹に見えたもので、この箇所だけ露出している。
【写真左】本丸から南麓の春日の町並みを見る。
 奥に見える山並みには、向山(H:569m)や清水山(H:546m)などがあり、それを超えると、光秀が丹波攻略のために築いた金山城(H:537m:未登城)が控える。
【写真左】本丸から南東方面を見る。
 この方向には、丹波・篠山城(兵庫県篠山市北新町2-3)や八上城が控える。

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