2012年10月5日金曜日

小代・城山城(兵庫県美方郡香美町小代区忠宮)

小代・城山城(おじろ・しろやまじょう)

●所在地 兵庫県美方郡香美町小代区忠宮
●築城期 鎌倉期~南北朝期
●高さ 396.7m(比高130m)
●築城者 不明
●城主 朝倉氏・八木氏、田公氏など
●遺構 主郭部・北砦・南砦・東砦・西砦、土塁・郭・堀
●登城日 2012年9月5日

◆解説
 但馬の城砦については、これまで馬場ノ平城(兵庫県美方郡新温泉町奥八田)芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)を除いて主に東部にあるものをとりあげてきた。管理人には中世の但馬地方に関する資料をほとんど持ち合わせていないこともあって、なおさら同国西部に関しては未開拓の地域である。
【写真左】小代・城山城遠望
 北側の矢田川付近から見たもの。
【写真左】小代・城山城の案内絵
 遠望写真がないが、現地には親切な案内図などが掲示してある。







 そうした中で、たまたまドライブ目的で美方郡香美町のハチ北高原を徘徊していたところ、この小代・城山のことが目に留まり、日を改めて登城した。

 所在地である小代(おじろ)は、山陰を横断する国道9号線の村岡区長坂から枝分かれてして南に向かう国道482号線を登ったところにある。

【写真左】香美町の案内図
 この図で「現在地」とされている箇所で、当城を含めた区域は「ふれあい公園」として整備されている。






秀吉による但馬・因幡国への進出ルート

 小代の谷を流れる矢田川は、鳥取と兵庫の県境にそびえる氷ノ山(須賀ノ山・H:1509m)の北尾根に繋がる赤倉山(H1332m)を源流としている。
 この矢田川に沿って走る国道482号線を南下し、この赤倉山西方の峠を越えると因幡国(鳥取県)若桜に出る。すなわち因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)に繋がる。

 山深く、細い谷間が続き、生活の場としてはけっして条件のいいところではないが、南北に長く町並みが伸びる小代は、北方を走る山陰道とは別に、但馬と因幡を結ぶ街道の要所として古くから栄えてきたという。
 そして、戦国期に至ると、秀吉による但馬から因幡侵攻ルートの一つとして、この小代を押さえることが、因幡国への足掛かりの一つともなった。
【写真左】城跡群案内図
 註:右方向が北を示す。

登城口としては、東側の林間広場から向かうコースもあるが、現在はそこに行くまでの道が整備されていない。

 登城したこの日、地元の人に教えていただいて、城山城の北を流れる久須部川を登っていき、途中でこの川を渡って、急傾斜の林道(といってもアスファルト舗装の道)を進むと、左図に示すように、南側の「南砦」の脇に整備された駐車場(同図の左に現在地と記されている箇所)にたどり着く。
【写真左】駐車場及び南砦付近
 城山城も含み、この山全体が「みかた歴史の杜」という公園となっている。
 中央の案内図の向背は既に南砦の入口になる。


 現地の説明板より

“〈城山城跡の概要〉

 城山城は矢田川と久須部川に挟まれた上ノ山に所在し、城域は東西約510m、南北約500mある。
 標高396.7mの山頂に位置する主郭(東西約11m、南北22m)を中心に、四方向に派生する尾根に階段状に曲輪(削平地)を配置しており、主郭部と4つの砦(北・南・西・東砦)から構成されている。文献的には戦国末期まで存続が確認できるが、南北朝期から室町期の城郭遺構が良好に遺存している。
【写真左】南砦
 緩やかな2,3段の傾斜を持ち、頂部はほぼ2m前後の尾根幅と、奥行10mほどの郭を持つ。





 城主居館は、山裾の字「段の平」に所在していたものと思われる。
 城主は、朝倉氏・八木氏、次いで田公氏と替わったとされている。天正5年(1577)10月、羽柴長秀(秀長)の但馬攻めに際して藤堂高虎は「小代一揆」平定を命じられ、小代勢は当城で迎え撃っている。

 城主田公綱典(秋庭)は、因幡に逃走するが、太田垣信喬・広井典胤・小代大膳ら43名の小代勢が当城に立て籠もり、栃谷城(浜坂町)城主塩冶左衛門尉の援軍50騎と合わせ、藤堂高虎軍120騎と戦い勝利した。その後小代勢は横行(大屋町)に陣城を構築して藤堂高虎の居所であった大屋谷を攻撃し、横行・蔵垣・加保(大屋町)などで戦っている。
【写真左】南砦から主郭に向かう。
 南砦から一旦降る形で尾根筋を進むと、2,3回アップダウンを繰り返し、主郭手前の位置で堀切が出てくる。
 この写真では少し分かりづらいが、奥の階段手前に設置され、小規模な橋が渡されている。




 天正4年(1576)2月の「新屋田渕家由緒書」には、山本右兵衛・広井監物・坂本出雲守・上田若狭守・毛戸丹後守・西垣伊賀守ら22名の地侍の名前がみえ、彼らが小代勢の主力であった。

 さらに天正9年(1581)6月、秀吉の鳥取攻めの最中には、「小代一揆」鎮圧に杉原左衛門尉(家次)が派遣されていることから、「一揆」は同年まで続いていたと考えられる。”
【写真左】遺構の説明図
 要所にこうした遺構の絵図が設置されている。ただ、設置された遺構図の位置に必ずしもその当該遺構があるわけでなく、この辺りが不可解である。

 この図は「土塁」の絵図であるが、近辺には土塁はない。



築城期・築城者

 当城の築城期・築城者については、上掲の説明板に明記されていないが、別の史料によると、1190~1199年、すなわち建久年間の頃とされ、朝倉高清が築城したとしている。

 朝倉姓からも分かるように、高清はもとは八鹿町朝倉に居を構えていたが、平家に加担していたため、源平合戦で平家が敗れると、但馬西部の小代区実山の山奥(内倉洞)に主従と共に隠れ住んでいた。

 このあとが現実離れした逸話になるが、関東地方に人間でも食いちぎるという凶暴な白い猪が現れ、領民が困っていたところを、高清が強弓で倒したことから、鎌倉幕府から許され、旧領地及び但馬一円の領地まで与えられたという。

 但馬地方にも平家落人伝説が、海岸部・山間部問わずかなり残っているが、朝倉高清などもその一例かもしれない。
【写真左】主郭手前の階段部
 手前の尾根道から比高5m程度の高さをもって構成されている。







藤堂高虎

 築城の名手といわれ、秀吉亡き後家康に仕え、晩年伊勢32万石の大名となった高虎は、近江国犬上郡藤堂村に生まれた。高虎21歳の時、出世の糸口となったのが、この但馬国「小代一揆」との戦いである。

 秀吉が山陰の覇権を奪取する最初の第1次但馬征伐において、高虎は羽柴秀長の家臣となって、この七味郡・小代谷(香美町小代区)に攻入った。
 高虎の「小代一揆」攻めは、当初有利に働いたが、その後「小代一揆」の猛反撃に遭い、敗走した。高虎が敗走して逃げ込んだのが、小代から東南20数キロ至った大屋谷(養父市大屋町)である。大屋谷の蔵垣において、小代一揆に取り囲まれたものの、激戦の果て、高虎は小代一揆の主将・小代大膳を討取った。この戦功を皮切りに、高虎は出世していくことになる。

 この大屋地区の城砦については、次稿で取り上げたい。


遺構など

 小代・城山城の現地には遺構の概要も紹介されている。

“〈城砦群の説明〉
 城山城は主郭Ⅰを中心にして、そこから4方向に派生する尾根に曲輪を連郭式に配置した縄張であり、5つの城砦群で構成されている。

①主郭部(主郭1・曲輪2~7)
  主郭1(11×22m)をはじめとして、いずれの曲輪も削平や切崖がしっかりとしている。主郭1と曲輪2の間には、門があったであろう。堀切Ⅰは深く、南尾根筋を遮断する機能を持つ。
【写真左】主郭・その1
 現地には模擬櫓のような展望台が設置されている。
【写真左】主郭・その2 展望台
 登ろうとしたが、この辺りから雲行きが怪しくなり、さらには雷が次第に近づき、雨模様となったため、安全のため取りやめた。


②北砦(曲輪8~12)
  曲輪8(10×7m)の背後に堀切Ⅱをもち小規模ではあるが、しっかりとした曲輪群からなる。
【写真左】北砦方向を見る。
 遺構としては北砦が変化に富んでいるようだが、残念ながら断念した。

③南砦(曲輪14~16)
  曲輪15・16の削平はしっかりしているが、曲輪14はかなり自然地形を残している。

④東砦(曲輪13)
  曲輪13(7×30m)は規模も大きく、削平もしっかりしている。他の2つの曲輪は小規模である。
【写真左】東砦へ向かう道
 主郭を挟んで、東砦及び西砦に向かう道は、ご覧のように始点から急勾配で降っていく。

⑤西砦(曲輪17~19)
  曲輪19の背後に堀切は無く、曲輪17・18・19とも削平が甘く、自然地形を残す。曲輪18の西側には小曲輪(4×4m程度)8段重ねており、全体として古い様相をしている。”

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