2012年10月24日水曜日

柏原・八幡山城(兵庫県丹波市柏原町柏原)

柏原・八幡山城(かいばら・はちまんやまじょう)

●所在地 兵庫県丹波市柏原町柏原
●築城期 南北朝期
●築城者 荻野氏
●城主 波多野氏・小林氏・明智光秀・堀尾吉晴など
●高さ 150m(比高50m)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2012年10月14日

◆解説
 兵庫県の北東部にあたる丹波市の南部・柏原にある城砦で、文字通り当地には八幡神社が祀られている。

 ところで、柏原は「かしわばら」又は「かしはら」と呼ばず、「かいばら」と呼称する。当地は、信長の子孫が治めた織田家ゆかりの町でもあり、今稿の「八幡山城」の他に、国指定となっている「柏原藩陣屋跡」などが残る。
【写真左】柏原・八幡城跡に立つ三重塔
 万寿元年に男山八幡の別宮として建立された神社であるため、戦国期における当社の建物の位置関係は分からないが、この辺りが最高所であることから、事実上主郭としての役割を兼ねていたのかもしれない。


現地の説明板より

“八幡神社(本殿および拝殿)
 万寿元年(1024)男山八幡の別宮として創建後、明智光秀の丹波攻めで戦火にあったが、天正10年(1582)豊臣秀吉が武将堀尾茂助に命じて再建させた。

 構造形式は、本殿拝殿がつづいた複合社殿で三間社流造桃山期の手法で、各部の彫刻は室町時代の様式です。
 大正2年、国の特別保護建造物、昭和2年国宝、昭和25年国の重要文化財に指定され、昭和50年1月から21ヶ月をかけ国庫補助事業として本殿は半解体、拝殿は解体修理が行われた。”
【写真左】主郭(拝殿)下から見る。
 現在本殿に向かうための道が整備されているため、郭等の遺構が判然としない箇所が多いが、切崖の情況は現在とほぼ同じだったものと思われる。



小林平左衛門重乾の討死

 当城については、以前沢田城(兵庫県篠山市沢田)で触れているが、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の城主波多野氏の家臣だった小林平左衛門重乾が、天正7年(1579)、明智光秀に攻められ、沢田城落城後、この八幡山城において討死した場所でもある。

八上城(高城山)及び支城とされた沢田城が次々と明智光秀によって落とされ、西北に敗走し最後にこの地で討死したものと思われる。


堀尾茂助

 天正10年(1582)、秀吉が八幡神社の再建を命じた相手は堀尾茂助、すなわち後に家康から出雲・隠岐24万石に封じられた堀尾吉晴である。当時38歳前後である。
【写真左】本殿と三重塔
 中規模であるが、風格と趣を備えた建物である。










 吉晴が頭角を現し出すのは天正年間に入ってからである。

 特に丹波国(黒江)においては3,500石を、またこの年(天正10年)即ち本能寺の変後、天王山の戦いなどにおいて武功を挙げ、同国(丹波)柏原を中心とした氷上郡を所領として、6,200石余りを扶持された。

 八幡山城の八幡神社再建は、これに併せて行われたものである。
【写真左】郭段
 小規模ながらこうした郭段の痕跡が見える。
【写真左】竪堀か
 歩道等の施工があるため、はっきりしないが、堀切もしくは竪堀のような跡がある。

 なお、この八幡山城の細い尾根を少し上っていくと、数段の郭・堀切などの遺構が散見されるというが、管理人はそこまで向かっていない。
【写真左】社殿側から後方を見る。
 この位置は特に険峻な切崖となっており、要害性が高い。


【写真左】正面から見る。
 丁度この神社下の柏原の町では秋祭りが行われ、本殿では子供さんを含めた一家族がお祓いをしていた。普通より1か月早い七五三をしていたのだろう。
 神主さんが本殿から出てこられた。
【写真左】三重塔
 平成元年3月31日、兵庫県指定文化財となった。

 この塔は文化10年(1813)から同12年にかけて建立されたという。

 江戸時代後期建立の塔婆で、神仏混淆当時の名残りをとどめた数少ない歴史的建造物。

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