2013年3月28日木曜日

糸田城(福岡県田川郡糸田町)

糸田城(いとだじょう)

●所在地 福岡県田川郡糸田町
●築城期 永仁5年(1297)ごろ
●築城者 北条政顕か
●城主 糸田(北条)貞義
●形態 丘城(館跡か)
●遺構 ほとんど消滅
●高さ 標高20m(比高10m)
●登城日 2013年2月4日

◆解説
 福岡県のほぼ中央部で、やや北方には標高30~40mほどの丘陵地を含む田川盆地がある。旧国名でいえば、筑前国と豊前国が隣接し、かつては繁栄を極めた筑豊炭田があった。

 糸田城のある糸田は明治の終わりごろまで、糸田村としてあり、戦前に町制が敷かれたとき、糸田町となった。現在の飯塚市と田川市のほぼ中間点にあたり、面積は8キロ㎡余りで、町民人口も1万人を切ったが、平成の大合併の際も、あえて隣接自治体と合併せず、自立した自治体として今日まで来ている。
【写真左】糸田城遠望
 西側から見たもので、低丘陵地に築かれている。周辺部は畑地や団地などが立ち並び、当時の面影を残すものは少ないが、現地を見る限り、要害性にとんだ山城というより、城館跡であったことが想像される。



現地の説明板より

“糸田城主糸田貞義

 糸田城主北条貞義は、糸田に住したので糸田姓を名乗った。
 貞義の曽祖父にあたる北条実時(1224~76)は、蒙古襲来に揺れ動く激動の時代に鎌倉幕府の要職を歴任し、政治面で活躍する一方、学問の分野にも力をつくし、神奈川県の現存する中世歴史博物館・金沢文庫の礎を築いた。
【写真左】登城口
 後段でも示すように、城跡は畑地や墓地などとなっており、実質は墓地参拝用の道が主になっているようだ。




 文永・弘安の蒙古襲来の後も、日本は蒙古対策を中心として防御をかためるため、1297年実時の子実政(貞義の祖父)が鎮西探題(鎌倉幕府の九州全地域の政務、訴訟、軍事を司る要職)として博多に下向してくる。

 ここに九州全体を統治する最高機関が設立し、鎌倉幕府が滅亡するまで九州沿岸の異国警固体制を維持した。

 実時の子政顕(まさあき)(貞義の父)は、第2代鎮西探題を務め、貞義は豊前国守護(地方の軍事、警察などを担当する職)として探題を補佐する重要な役割を果たした。
 しかし、約1世紀半にわたる鎌倉幕府による支配体制が崩壊するや、博多の探題城も反北条勢の攻撃を受けて落城した。
【写真左】屋敷の段跡か
 現在このように畑地となっている箇所で、この左側が高くなり、その中央部に石碑が建っている。

 この箇所もおそらく屋敷跡地と考えられる。
 向こう側にせり出した墓地があるが、そこからは西方の睨みがきく箇所となっている。



 貞義は兄高政と呼応し、堀口城(場所不明)に立て籠もったが、大友勢により包囲され、貞義はじめ一族郎党ことごとく討死(1334)、前後して糸田城も落城した。

 糸田が豊前国守護の所在地として重要視されたのは、治安維持の任務を担う守護が、幕府の地方支配の中心であり、平家支配が深く浸透していた豊前、特に豊前と筑前両国にまたがる平家武士団を統率するのに一番適当な地であったからと推測される。”
【写真左】石碑付近
 この箇所は畑地となっていない。約15m前後の大きさ。









糸田氏(北条氏)

 説明板にもあるように、糸田城主であった糸田貞義の曽祖父は北条実時である。現地にある説明板の裏には、糸田(北条)氏の系図が掲載されている。これをもとに糸田氏に繋がる系譜を整理すると、次のようになる。
  1. 北条時政 (1138~1215)  鎌倉幕府初代執権、北条政子の父
  2.    義時 (1163~1224)  鎌倉幕府第2代執権 
  3.    実泰 (1208~63)   金沢流北条氏祖(別名金沢実泰)
  4.    実時 (1224~76)   金沢流北条氏第2代(実質初代)
  5.    実政 (1249~1302)  初代鎮西探題(元寇の乱時、日本軍総司令官)
  6.    政顕 第2代鎮西探題(期間:1305~15)博多に駐留。永仁2年(1294)肥前国守護兼任。
  7. 糸田貞義 糸田城主 豊前国守護職期間(1323~33) 建武元年(1334)討死。
【写真左】石碑
 糸田城と刻銘されている石碑が建つ。










 説明板や糸田氏関連の系譜にもあるように、糸田氏が滅ぶのは後醍醐天皇の倒幕によるものだが、糸田城の落城並びに糸田貞義討死は、建武元年(1334)2月に起こった筑前・築後における北条氏残党の蜂起と同じころと思われる。
【写真左】説明板
 この裏には北条氏(糸田氏)の系図が掲載されている。








 貞義の兄は説明板にもあるように、高政と名乗り、別名規矩(きく)高政とも名乗った。彼は後に赤橋流北条氏の執権北条守時の弟英時の養子となったが、中央における六波羅探題や鎌倉の滅亡の報を聞くと、北九州において北条氏の残党を糾合し蜂起した。

 建武元年(1334)1月、高政は豊前遠賀郡帆柱山城(福岡県北九州八幡西区)に籠り、大友氏や少弐氏ら倒幕方と抗戦、7月に鎮圧されたという。

 なお、説明板にある堀口城とは、この帆柱山城のことと思われる。当城についても、サイト『城郭放浪記』氏が既に登城報告されているのでご覧いただきたい。
【写真左】供養塔と祠
 石碑の近くには、「糸田貞義 供養之塔」と刻銘された供養塔並びに、祠が祀られている。
【写真左】西方を眺望する。
 西端部から見たもので、この方向は博多方面になるが、現在見えている畑・田圃などは当時壕の役目をしていたのかもしれない。

 なお、この突端部と下段の畑地との比高差は約7,8m程度である。

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