2013年3月14日木曜日

津山城(岡山県津山市山下)

津山城(つやまじょう)

●所在地 岡山県津山市山下
●別名 鶴山城(かくざんじょう)
●築城期・その1 嘉吉年間(1441~44)
●築城者・その1 山名教清(山名忠政)
●築城期 その2 慶長8年(1603)~元和2年(1616)
●築城者 その2 森忠政
●城主 森氏・浅野氏・松平氏
●遺構 石垣・堀・櫓など
●指定 国指定史跡
●形態 平山城・独立式層塔型4重5階
●登城日 2013年1月7日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 岡山県美作に残る現在の津山城は、中世山城の形式のものではないが、最初に築かれたのは嘉吉年間(1441~44)とされている。しかし間もなく当城は廃城となり、江戸期に入って改めて近世城郭として森氏によって築かれた。現在残る石垣群などはその当時のものとされている。
【写真上】津山城遠望・その1
 南側を東西に流れる吉井川対岸から見たもの。
【写真上】津山城遠望・その2
 上の写真とは別に、こちらは反対側の北から見たもの。
 第1期の嘉吉年間、山名氏が築いた鶴山城時代の姿が彷彿とされる。



現地の説明板より

 津山城跡
        国指定史跡(昭和38年9月28日指定)

 津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
【写真左】津山城案内図
 上が北を示す。











 往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落とし等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。
 また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
【写真左】薬研堀付近
 北西部に当たる個所で、「厩堀」と同じく、嘉吉年間山名氏が鶴山城を築いたころの形状が残っているという。





 この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期に当たり、津山城の縄張の巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
 明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
 その後、明治33年(1900)、城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。
【写真左】登城道
 南側の駐車場に停めて、北に向かい階段を少し上り、右に曲がると入口が見える。
 大手門に当たる個所である。




山名教清と忠政

 前稿まで紹介した置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも述べたように、嘉吉の変(嘉吉元年・1441)によって山名一族は赤松氏の旧領播磨・美作・備前の守護職を与えられた。津山城のある美作国では、山名教清が守護職として補任された。
【写真左】鶴山館(かくざんかん)
  入口の冠木門から入り、右側の階段を進むとこの建物が見える。位置的には当時の三の丸の東端部に当たり、塩焇拵所があったところになる。
 津山藩の学問所(文学所)として明治3年(1870)に着工され、以後北条県立津山中学校などと変遷した。


 教清は次代の政清と共に岩屋城・小篠山城・鶴山城(津山城)を築くことになる。このうち、鶴山には、教清の叔父忠政が守護代として鶴山城に拠った。

 それから約25年後の応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発すると、守護職山名政清は京に上った。おそらく、鶴山城(津山城)主であった忠政も一緒に京都へ従軍していったのだろう。この隙を狙って、旧領奪回を目指す赤松氏は美作に進攻、守護に任じられた。そして3年後の文明2年(1470)頃には美作は赤松氏の支配下となった。
【写真左】表中門付近
 三の丸から二の丸に繋がる個所で、左側の階段が二の丸に向い、右の小さい階段は見付櫓方面に繋がる。





 しかし、10年に及んだ応仁の乱が終わると、再び山名氏が美作奪回を目指し、当国全域を勢力下に置くことになった。だが、山名氏の支配にもかかわらず、守護職に任じられることはなかった。

 おそらく山名氏の支配は名目上のもので、実態は家勢が衰えていたため、忠政及びその子・惟重の2代による約30年の在城をもって、第一期の鶴山城(津山城)はここに幕を下ろすことになる。
【写真左】二の丸から備中櫓を見上げる。
 近年再現された櫓で、本丸の南西端に配置している。中には御茶席・御座の間、御上段といった間がある。



 ちなみに、その後の文明16年(1484)から明応5年(1496)の間は赤松氏が補任されている。これは以前にも述べたように、守護代であった浦上氏の強力な支援があったからである。

 なお、この山名氏時代の鶴山城の遺構概要ははっきりしない点が多いが、伝聞では現在も残る「厩堀」と「薬研堀」は当時のものとされる。
【写真左】切手門跡
 二の丸から再び方向を変えて東に向かうと、切手門がある。最初の階段を登ると右側には弓場(弓櫓)が控え、その東端には辰巳櫓がある。




森忠政

 さて、第二期の鶴山城(津山城)は、江戸期に入ってからである。この城を近世城郭として築いたのは森忠政である。

 彼は、美濃国金山城主であった森可成(よしなり)の六男として生まれた。忠政の名が知られるのは、津山城主としては勿論だが、むしろ織田信長に仕え本能寺の変で、信長共々討死した森蘭丸の弟としてのほうが知名度が高いようだ。
【写真左】辰巳櫓から宮川を見る。
 津山城の東側には北方から流れる宮川が南流し、吉井川と合流している。
 城域を巡る当時の水壕はほとんど宮川からの引込で、北から導水し、ぐるっと西側に回り、再び東に向かって宮川と合流していたようだ。

 また、合流する本流・吉井川と近いこともあり、この箇所には中国山地から大量の材木が集積され、今でもその箇所は「材木町」という地名が残る。
【写真左】粟住城遠望
 所在地 真庭市粟住

 なお、津山城の築城施工に使われた主だった材木は、吉井川を遡った蒜山方面からのもので、特に真庭市にある「粟住城」(未投稿)付近から多くの材木が吉井川を使って筏で運び込まれたという。


 ちなみに、忠政の兄弟については以下の通り。

  1. 長男 森 可陸(よしたか)  (1552~70) 信長に仕える。通称傳兵衛。越前敦賀・手筒山城にて討死。享年19歳。
  2. 次男 森 長可(ながよし)  (1558~84) 信長・秀吉に仕える。通称夜叉武蔵。尾張長久手にて討死。
  3. 三男 森 成利(なりとし)   (1565~82) 信長に仕え、本能寺にて信長と討死。通称蘭丸。
  4. 四男 森 長隆(ながたか)  (1566~82) 信長に仕え、本能寺にて兄蘭丸とともに討死。
  5. 五男 森 長氏(ながうじ)   (1567~82) 信長に仕え、本能寺にて二人の兄とともに討死。通称力丸。
  6. 六男 森 忠政(ただまさ)  (1570~1634) 通称千丸。長可のあとを受けて、秀吉・家康に仕え、信濃国川中島13万7千石の領主となる。
【写真左】太鼓櫓付近
 表鉄御門を過ぎると、東側に太鼓櫓が見える。この箇所にはこのほか、鼓櫓をはじめ、北に向かって走家・矢切櫓・月見櫓などが長く伸びている。


 以後森氏が当城を治めていくことになるが、元禄10年(1697)4代の長成が他界すると、嗣子がいなかったため同氏は95年間の在城を最後とし、その翌年(元禄11年)親藩松平越後守宣富が、同国のうち10万石を受領して当城を引き継ぐことになった。松平氏はその後9代95年間続くことになる。
【写真左】矢切櫓・走家
 上の写真でも紹介したように、本丸の東側には南北に延びる矢切櫓がある。
 現在この北側付近にかけて修復工事が行われている。
【写真左】腰巻櫓
 本丸の北西端にある櫓で、この右側の階段を下っていくと、北側の裏門に繋がる。
【写真左】常用の井戸
 本丸南側中央部に残るもので、現在は建物はないが、この北側には台所(流し・御賄の間)などがあった。
【写真左】天守閣入口付近
 登城したこの日、天守閣付近も改修工事が行われていた。このため、中央部までは向かっていない。





次稿では津山城関連の他の史跡について紹介したい。

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