本願禅寺及び衆楽園
(ほんがんぜんじ および しゅうらくえん)
本願禅寺
●所在地 本願禅寺:岡山県津山市小田中1373
●前身 南北朝期(興国元年:1340)旧西々条郡神戸村(現津山市神戸)に創建された美作国安国寺
●開基 津山藩初代藩主森忠政(現在地に移転)
●本尊 釈迦如来
●宗派 臨済宗
●参拝日 2013年1月7日
衆楽園
●所在地 岡山県津山市山北628
●別名 旧津山藩別邸庭園
●作庭期 明暦年間(1655~58)
●作庭者 津山藩2代藩主・森長継
●指定 国指定名勝
●探訪日 2013年1月7日
◆解説(参考文献「サイト・津山瓦版」「サイト・宮本武蔵 資料編」等)
今稿は津山藩初代藩主森田忠政が開基し、以後森氏の菩提寺とされた本願禅寺及び、津山城の北方に作庭された江戸初期の庭園「衆楽園」をとりあげたい。
本願禅寺
津山市街地には津山城を中心として東西に多くの寺院があるが、その中でも城西地区は特に多い。江戸中期には、城西地区に24ヶ寺、城東地区には10ヶ寺あったという。
今稿で取り上げる本願禅寺は城西地区にあるものだが、津山城を築いた森忠政は、そのころ当時院庄近くの神戸村にあった安国寺を菩提所とするため、先ず小田中村に移し、海晏禅師を迎え安国寺中興の祖とした。その後、慶長12年当地に移し、龍雲禅寺として新たに建立した。
【写真左】本願禅寺境内にある森家大名墓・その1
墓石はいずれも巨大なもので、見上げるような大きさである。
(ほんがんぜんじ および しゅうらくえん)
本願禅寺
●所在地 本願禅寺:岡山県津山市小田中1373
●前身 南北朝期(興国元年:1340)旧西々条郡神戸村(現津山市神戸)に創建された美作国安国寺
●開基 津山藩初代藩主森忠政(現在地に移転)
●本尊 釈迦如来
●宗派 臨済宗
●参拝日 2013年1月7日
衆楽園
●所在地 岡山県津山市山北628
●別名 旧津山藩別邸庭園
●作庭期 明暦年間(1655~58)
●作庭者 津山藩2代藩主・森長継
●指定 国指定名勝
●探訪日 2013年1月7日
◆解説(参考文献「サイト・津山瓦版」「サイト・宮本武蔵 資料編」等)
今稿は津山藩初代藩主森田忠政が開基し、以後森氏の菩提寺とされた本願禅寺及び、津山城の北方に作庭された江戸初期の庭園「衆楽園」をとりあげたい。
本願禅寺
津山市街地には津山城を中心として東西に多くの寺院があるが、その中でも城西地区は特に多い。江戸中期には、城西地区に24ヶ寺、城東地区には10ヶ寺あったという。
今稿で取り上げる本願禅寺は城西地区にあるものだが、津山城を築いた森忠政は、そのころ当時院庄近くの神戸村にあった安国寺を菩提所とするため、先ず小田中村に移し、海晏禅師を迎え安国寺中興の祖とした。その後、慶長12年当地に移し、龍雲禅寺として新たに建立した。
【写真左】本願禅寺境内にある森家大名墓・その1
墓石はいずれも巨大なもので、見上げるような大きさである。
この墓所及び霊廟は一般公開はされておらず、たまたま津山城で受付の方から事前にお願いし、ご住職の案内で参拝することができた。
【写真左】森忠政の墓
右側の墓で、左は妻(智勝院殿)の墓。
なお、これらの墓(五輪塔)の材料となっている石は近隣で採石されたものではなく、六甲山山麓にある岩と同質のものだという。
当時、六甲から美作までこれだけの巨石を運ぶこと自体驚きである。
【写真左】森家大名墓・その2 説明板
説明板の上下継ぎ目付近の文字がかすれて判読できない箇所があるが、主だった戒名は次の通り。
- 光徳院殿 関成次、美濃国鴻野城にいたが、忠政に従い美作国に移住。妻が忠政の二女で長男長継は森家二代藩主を継いだ。
- 瑝松院殿 忠政の姉、美濃国鴻野城主関共成の妻で関成次の母。
- 霊光院殿 森忠継、二代藩主森長継の長男で、4代藩主森長成の父。延宝2年(1674)津山で死亡。享年38歳。
- 前武州殿 森長可の次男で忠政の兄、天正12年(1584)尾張長久手の戦いで死亡。忠政が美作入国後に墓を建立。享年27歳。
- 本源院殿 森忠政。可成の六男で慶長8年(1603)2月美作国初代藩主として入国。寛永11年(1634)京都で死亡。享年65歳。
- 智勝院殿 森忠政の妻・岩。尾張の名護屋氏の出で大和大納言羽柴秀長の養女。慶長12年(1607)津山で死亡。
- 晃昌院殿 森忠政の娘。鳥居左京亮恒の妻。江戸で死亡。享年55歳。
寛永11年(1634)忠政は京都で急逝(65歳)、さらに延宝2年(1674)二代長継の嫡男忠継が亡くなり、忠継の長男長成が幼少のため、叔父の長武が長成元服まで12年間藩主を務めた。
そして、天和3年(1683)忠政の50遠年忌に当たり、戒名「本源院殿前作州太守先翁宗進大居士」からちなんで、寺名を龍雲禅寺から現在の「本願禅寺」に改めた。なお、呼称を「ほんがんぜんじ」としているが、あるいは「ほんごんぜんじ」かもしれない。
【写真左】その3
東端部からさらに東方に目を転ずると、津山城の備中櫓がかすかに見える。
当院境内西には森家累代を祀る霊廟「方四間御霊屋」が建立され、その後ろには歴代城主及び奥方の墓が祀られれいる。
長尾氏の墓
当院には津山城主森家の霊廟とは別に、西の墓地付近には家老職であった長尾氏の墓も並んでいる。実は、津山城を訪れたのは、長尾氏の墓を訪ねることも目的の一つであった。
長尾氏については、以前備後の千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)で取り上げているように、東城町の五品嶽城(広島県庄原市東城町川西)の城主として活躍した長尾隼人を紹介している。
【写真左】長尾氏の墓・その1
長尾氏の墓は当院境内墓地の西側入り口にある。
4基のうち、長尾勝行とその妻のものと思われるが、その子勝明は松江藩で没しているので、勝明は供養塔かもしれない。
なお、この日、本願禅寺のご住職に長尾氏のことについていろいろご教示を受けた。この場を借りて改めて御礼申し上げたい。
ご住職も長尾氏の事績については前からいろいろと研究しておられるようで、家老職であった長尾氏がもう少し評価されてもいいのではないかとの言に管理人も思わず首肯した。
本名は長尾一勝で、官途名では長尾隼人正一勝、又は長尾隼人佐一勝である。関ヶ原の合戦の功によって備後入封を果たした福島正則に従い、備北の東城を任された。広島領主として入った正則であったが、元和5年(1619)江戸幕府から改易を命ぜられ、この年の7月信濃国高井郡高井野村に蟄居を命ぜられた。一勝はその直前の元和5年1月15日没している。
【写真左】長尾氏の墓・その2
一勝の子・勝行は、父のあとを受け継ぐが、勝行にとっては、皮肉にも主君であった福島正則の居城明け渡しが最初で最後の仕事となった。この広島城明け渡しについては、主君正則の失態は実際はほとんどなく、幕府方の計画的な排斥行動と見られている。
さて、広島城開城による城受取りの任に当たったのは、安藤対馬守重信である。彼は上野国高崎藩主で、この5年前の慶長19年(1614)にも、大久保長安事件で改易された大久保忠隣の小田原城受取り役を務めている。
このとき、安藤重信と一緒に受取りの任に当たり、後に丸亀藩主となる山崎甲斐守家治は、勝行の立派な態度に心を打たれ、自ら長尾勝行一族の扶養を申し出ている。しかし、勝行は山崎甲斐守に感謝するものの、津山藩主森家に家老職として4000石で召し抱えられ、以後代々長尾隼人と名乗ることになる。
なお、広島城改易による城明け渡しにおいては、この他中国地方からも幕命によって他の藩主も当地に赴いている。管理人の地元・出雲国松江藩では、藩主堀尾忠晴が同年6月16日に「出陣」の形をとって警備に当たり、翌7月6日に広島から松江へ戻っている。
【写真左】堀尾忠晴墓所
所在地・島根県松江市栄町 円城寺
松江市指定文化財
寛永10年、同市荒隅にあった瑞応寺から現在地に移し、円城寺と改めた。松江藩の基礎をつくった堀尾氏三代を讃え、毎年11月6日当山で堀尾公の法要が行われている。
なお、荒隅の瑞応寺とは、荒隅城(島根県松江市国屋町南平)の場所である。
さて、津山藩に召し抱えられた勝行は、父一勝の菩提を弔うため、備後東城の千手寺に供養塔を建立した(千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)参照)。
また、勝行の子と思われる勝明は、元禄2年(1689)地元作州を中心とした地誌作成の編纂に着手している。内訳は作州西部六郡と、東部六郡に分担し、それぞれの担当者に命じた。西部の方は2年後の元禄4年にまとめられたが、東部については担当していた川越某なる者が、理由は不明ながら、それまで収集していた資料を悉く焼却してしまったという。勝明がその後、東部の担当者を新たに任命したという記録はないため、この地誌作成事業は完成を見ず頓挫することになる。
【写真左】長尾氏の墓・その3
その後、主君である森長成が元禄10年に病死し、嗣子衆利(あつとし)が継ぐも、暗愚の主であったため、この年の8月、津山藩主森家は断絶してしまう。このため、代々家老職を務めてきた長尾隼人正勝明は失職、主君の位牌を抱いて出雲へ向かい、松江藩主松平家に500石で仕えたという。
勝明がなぜ松江藩松平氏に仕えることになったのか、その経緯はわからないが、勝明は宝永3年(1706)に当地(松江)で亡くなっている。当時松江藩主は、延宝3年(1675)松平綱隆が没すると、甲斐守綱近が襲封、出羽守となって以後宝永元年(1704)まで藩政を運営している。
晩年は眼病が災いして吉透に譲ったが、あくる宝永2年(1705)に、綱近は「雲陽誌」の編纂に取り掛かり、黒沢長顕・斉藤豊仙らにその作業を命じている。おそらく、綱近は、長尾勝明が津山において地誌作成に係っていたことを知っていたのだろう。津山藩時代における勝明の実績・経験を買われ「雲陽誌」の作成に当たって、黒沢・斉藤両名に協力させたことは想像に難くない。
衆楽園
津山城の北方に作庭された庭園で、当時の大きさより三分の一に縮小されているが、当時の面影をよく残している。
京都より小堀遠州流の作庭師を招いて築かれたとあるので、備中松山藩主2代小堀遠州(政一)が作庭した高梁市の頼久寺の庭園もおそらく参考にされたものと思われる。
【写真左】衆楽園入口付近
手前に4,5台の駐車スペースがある。
現地の説明板より
“旧津山藩別邸庭園(衆楽園)
国指定名勝(平成14年9月20日指定)
衆楽園は、津山藩主森 長継が明暦年間(1655~58)京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた大名庭園です。当時の面積は23,504坪と現在の3倍近い広大なもので、御殿が造られ城主の清遊の場となっていました。津山藩では防備のうえから城内に他藩の使者を入れず、ここで応対したので、「御対面所」と呼ばれました。
【写真左】衆楽園・その1
その後、森氏にかわって入封した松平氏に引き継がれましたが、明治3年正月、時の藩主松平慶倫(よしとも)が「衆楽園」と命名し公園として一般に公開しました。明治4年の廃藩後、多くの建物が取り壊され規模も縮小して一時「偕楽園」また「津山公園」と改称されましたが、幸いにして園地の主要部分は残り、大正14年再び「衆楽園」と改称し現在に至っています。
【写真左】衆楽園・その2
この庭園は京都の仙洞御所を模したもので、明暦の創園当時から伝わる建物としては余芳閣が残っています。南北に長い池に大小四つの島を配し、周囲の中国山地を借景とした構成は、近世池泉廻遊式(ちせんかいゆうしき)庭園の典型であり、江戸時代初期の大名庭園のおもかげをよく残しています。”
【写真左】衆楽園・その3
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