置塩城(おきしおじょう)・その2
●所在地 兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田
●指定 国指定史跡
●登城日 21012年12月16日
◆解説(参考文献『サイト「城郭放浪記」』等)
【写真左】置塩城遠望
南麓側からみたもの。
【写真左】置塩城配置図
浦上氏と赤松氏
前稿で、赤松満祐の遺臣らが再興したことを述べたが、実はその再興に当たっては、当時の麾下・浦上氏も多大な貢献をしている。
主家であった赤松氏が失墜したとき、その配下にあった浦上氏も殉じた。しかし、その後浦上則宗は赤松氏遺臣とともに再興を果たし、応仁元年(1467)守護代となって三石城(岡山県備前市三石)を居城とした。
【写真左】二の丸と三の丸の中間点
前稿最後に紹介した南西曲輪群から一旦戻り、二の丸の西麓を北に進むと、この場所に当たる。
右側が二の丸北東端で、左側に進むと、三の丸に向かう。
なお、この窪みも空堀のように見えるが、切通しで、このまま進むと台所跡に繋がる。
先ず左側の三の丸に向かう。
赤松義村と浦上村宗の不和
ところが、前稿でものべたように、その後浦上則宗の孫・村宗の代になると、主君であった赤松義村との不和が高まった。最初に攻め入ったのは主君である義村である。
永正16年(1519)、義村は則宗の居城三石城を攻めた。しかし、撃退され、2年後の大永元年(1521)、村宗は播磨国室津で義村を弑逆(しいぎゃく)、ここに西播磨と東備前を領有する戦国大名となった。中国地方における下剋上の始まりの一つといえる。
【写真左】三の丸・その1
二の丸・三の丸付近の郭群はいずれも規模が大きい。
【写真左】三の丸・その2
赤松晴政(政村)
事実上赤松氏を退けた浦上村宗は、その後細川家の内紛で、細川高国に属して(細川晴元と対立)各地を転戦した。しかし、享禄4年(1531)6月4日、三好元長らは赤松晴政(政村)の支援を受けて、細川高国を天王寺に破った(中嶋の戦い)。
そして、その4日後の8日、高国は尼崎広徳寺で自害したが、村宗も同じく討死した(大物崩れ)。
【写真左】北曲輪群・その1
三の丸からさらに北に伸びている郭群で、三の丸から7~8m程度下がった位置から北に延びている。
【写真左】北曲輪群・その2
置塩城の各郭はいずれも規模の大きなものが多いが、中でもこの北曲輪群は最も大きい。
三角形の形式をなしており、底辺部50m、奥行50mもあろうか。
なお、この位置から西に向かって「西曲輪群」もあるが、時間の関係上そちらは踏査していない。
ところで、赤松義村が播磨室津で謀殺されたあと、赤松氏はその子晴政が極秘に後を継いでいた。
そして、細川高国・浦上村宗の死によって、晴政には播磨守護奪還のチャンスが訪れることになった。しかし、浦上氏はその後、村宗の子・政宗や宗景が勢力を維持していたため、その目的はなかなか果たせなかった。
【写真左】北曲輪群・その3
北曲輪群から振り返って三の丸を見る。
そうした最中、天文6年(1537)出雲の尼子詮久(後の晴久)が中国山地を越え、山陽の備前・播磨へと進攻してきた。
これについては、以前三木城(兵庫県三木市上の丸)でも述べたように、尼子氏と本願寺光教との繋がりがある。
【写真左】台所跡の西側附近
北曲輪群の東側斜面を通って二の丸側に進むと、左手に台所跡があるが、その境にはこのような石列がある。
おそらく排水設備としての側溝跡と思われる。
この排水系統は二の丸及び、三の丸南端部から流出する雨水などを流すためのものだろう。
このころ、浦上氏は家督を継いだ政宗と宗景には協力体制があり、尼子氏との和睦を行っていたため、同氏が攻められることはなかったが、赤松晴政に対しては徹底的な尼子氏の攻略が続き、翌天文7年(1538)11月5日、晴政は淡路に奔った。
そして、翌8年11月25日、再び播磨に戻った晴政はまたしても尼子晴久によって破られ、一時三木城に逃げたものの、三木城の別所氏が尼子氏と通じたため、堺に逃亡した。
その後の晴政は浦上政宗に実権を握られ、娘婿の龍野城主・赤松政秀に匿われながらも、浦上氏と争った。
【写真左】二の丸・その1
台所跡と二の丸の間にある段で、幅4m前後奥行30m程度の規模を持つものだが、二の丸中心部との比高差は約2m程度ある。
【写真左】二の丸・その2
置塩城の縄張図からもうかがえるように、当城の中心部となる位置で、北側に隣接する台所跡や、南側に茶室などがあったことから考えると、この二の丸や、後段で紹介する「二の丸北曲輪群」も含め、この場所が平時の居住地であったと考えられる。
【写真左】二の丸北曲輪群
二の丸の北側を東西に走る切通しを介して、北東部に配置された曲輪群で、大小4つの郭段から構成されている。
東側に向かって次第に下っていき、一旦鞍部となり、さらにその先に独立した峰の本丸が控える。
【写真左】本丸へ向かう
先ほどの二の丸北曲輪群から東に向かう箇所だが、途中に石積みや、意識的に狭められた道などが見える。
【写真左】本丸・その1
標高380mの位置で、20m×30m程度の規模を持つ。
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸・その3 瓦片
この箇所にも建築物があったらしく、このような瓦片が残っている。
【写真左】本丸から北方を見る。
二の丸付近からは眺望は全く期待できないが、本丸からは南北の眺望が楽しめる。
【写真左】本丸から南方を見る
天気がいいと姫路城や、播磨灘などが見えると思われる。
【写真左】本丸から二の丸・北曲輪群を見る。
この場所に立ってみて驚いたのが、二の丸などとの距離が思った以上に離れていたことである。
連郭式山城であるが、考えようによっては「一城別郭形式」の城砦ともいえる。
【写真左】本丸南曲輪群
本丸から南に約20m下がった位置に配置されているもので、およそ2段の郭から構成されている。
【写真左】櫃蔵神社と置塩城
置塩城の西麓には櫃蔵神社がまつられている。
暦応3年(1340)創建と伝えられ、置塩城5代城主赤松則房が天正5年(1577)羽柴秀吉に服して開城のとき、城の守護神は当社と糸田の柏森神社、垣屋の櫃倉神社の三所に分祀されたという。
拝殿には多くの絵馬が奉納されている。
●所在地 兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田
●指定 国指定史跡
●登城日 21012年12月16日
◆解説(参考文献『サイト「城郭放浪記」』等)
【写真左】置塩城遠望
南麓側からみたもの。
【写真左】置塩城配置図
浦上氏と赤松氏
前稿で、赤松満祐の遺臣らが再興したことを述べたが、実はその再興に当たっては、当時の麾下・浦上氏も多大な貢献をしている。
主家であった赤松氏が失墜したとき、その配下にあった浦上氏も殉じた。しかし、その後浦上則宗は赤松氏遺臣とともに再興を果たし、応仁元年(1467)守護代となって三石城(岡山県備前市三石)を居城とした。
【写真左】二の丸と三の丸の中間点
前稿最後に紹介した南西曲輪群から一旦戻り、二の丸の西麓を北に進むと、この場所に当たる。
右側が二の丸北東端で、左側に進むと、三の丸に向かう。
なお、この窪みも空堀のように見えるが、切通しで、このまま進むと台所跡に繋がる。
先ず左側の三の丸に向かう。
赤松義村と浦上村宗の不和
ところが、前稿でものべたように、その後浦上則宗の孫・村宗の代になると、主君であった赤松義村との不和が高まった。最初に攻め入ったのは主君である義村である。
永正16年(1519)、義村は則宗の居城三石城を攻めた。しかし、撃退され、2年後の大永元年(1521)、村宗は播磨国室津で義村を弑逆(しいぎゃく)、ここに西播磨と東備前を領有する戦国大名となった。中国地方における下剋上の始まりの一つといえる。
【写真左】三の丸・その1
二の丸・三の丸付近の郭群はいずれも規模が大きい。
【写真左】三の丸・その2
赤松晴政(政村)
事実上赤松氏を退けた浦上村宗は、その後細川家の内紛で、細川高国に属して(細川晴元と対立)各地を転戦した。しかし、享禄4年(1531)6月4日、三好元長らは赤松晴政(政村)の支援を受けて、細川高国を天王寺に破った(中嶋の戦い)。
そして、その4日後の8日、高国は尼崎広徳寺で自害したが、村宗も同じく討死した(大物崩れ)。
【写真左】北曲輪群・その1
三の丸からさらに北に伸びている郭群で、三の丸から7~8m程度下がった位置から北に延びている。
【写真左】北曲輪群・その2
置塩城の各郭はいずれも規模の大きなものが多いが、中でもこの北曲輪群は最も大きい。
三角形の形式をなしており、底辺部50m、奥行50mもあろうか。
なお、この位置から西に向かって「西曲輪群」もあるが、時間の関係上そちらは踏査していない。
ところで、赤松義村が播磨室津で謀殺されたあと、赤松氏はその子晴政が極秘に後を継いでいた。
そして、細川高国・浦上村宗の死によって、晴政には播磨守護奪還のチャンスが訪れることになった。しかし、浦上氏はその後、村宗の子・政宗や宗景が勢力を維持していたため、その目的はなかなか果たせなかった。
【写真左】北曲輪群・その3
北曲輪群から振り返って三の丸を見る。
そうした最中、天文6年(1537)出雲の尼子詮久(後の晴久)が中国山地を越え、山陽の備前・播磨へと進攻してきた。
これについては、以前三木城(兵庫県三木市上の丸)でも述べたように、尼子氏と本願寺光教との繋がりがある。
【写真左】台所跡の西側附近
北曲輪群の東側斜面を通って二の丸側に進むと、左手に台所跡があるが、その境にはこのような石列がある。
おそらく排水設備としての側溝跡と思われる。
この排水系統は二の丸及び、三の丸南端部から流出する雨水などを流すためのものだろう。
このころ、浦上氏は家督を継いだ政宗と宗景には協力体制があり、尼子氏との和睦を行っていたため、同氏が攻められることはなかったが、赤松晴政に対しては徹底的な尼子氏の攻略が続き、翌天文7年(1538)11月5日、晴政は淡路に奔った。
そして、翌8年11月25日、再び播磨に戻った晴政はまたしても尼子晴久によって破られ、一時三木城に逃げたものの、三木城の別所氏が尼子氏と通じたため、堺に逃亡した。
その後の晴政は浦上政宗に実権を握られ、娘婿の龍野城主・赤松政秀に匿われながらも、浦上氏と争った。
【写真左】二の丸・その1
台所跡と二の丸の間にある段で、幅4m前後奥行30m程度の規模を持つものだが、二の丸中心部との比高差は約2m程度ある。
【写真左】二の丸・その2
置塩城の縄張図からもうかがえるように、当城の中心部となる位置で、北側に隣接する台所跡や、南側に茶室などがあったことから考えると、この二の丸や、後段で紹介する「二の丸北曲輪群」も含め、この場所が平時の居住地であったと考えられる。
【写真左】二の丸北曲輪群
二の丸の北側を東西に走る切通しを介して、北東部に配置された曲輪群で、大小4つの郭段から構成されている。
東側に向かって次第に下っていき、一旦鞍部となり、さらにその先に独立した峰の本丸が控える。
【写真左】本丸へ向かう
先ほどの二の丸北曲輪群から東に向かう箇所だが、途中に石積みや、意識的に狭められた道などが見える。
【写真左】本丸・その1
標高380mの位置で、20m×30m程度の規模を持つ。
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸・その3 瓦片
この箇所にも建築物があったらしく、このような瓦片が残っている。
【写真左】本丸から北方を見る。
二の丸付近からは眺望は全く期待できないが、本丸からは南北の眺望が楽しめる。
【写真左】本丸から南方を見る
天気がいいと姫路城や、播磨灘などが見えると思われる。
【写真左】本丸から二の丸・北曲輪群を見る。
この場所に立ってみて驚いたのが、二の丸などとの距離が思った以上に離れていたことである。
連郭式山城であるが、考えようによっては「一城別郭形式」の城砦ともいえる。
【写真左】本丸南曲輪群
本丸から南に約20m下がった位置に配置されているもので、およそ2段の郭から構成されている。
【写真左】櫃蔵神社と置塩城
置塩城の西麓には櫃蔵神社がまつられている。
暦応3年(1340)創建と伝えられ、置塩城5代城主赤松則房が天正5年(1577)羽柴秀吉に服して開城のとき、城の守護神は当社と糸田の柏森神社、垣屋の櫃倉神社の三所に分祀されたという。
拝殿には多くの絵馬が奉納されている。
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