2021年10月3日日曜日

丹波・猪崎城(京都府福知山市猪崎字城山)

 丹波・猪崎城(たんば・いざきじょう)

●所在地 京都府福知山市猪崎字城山
●築城期 天文年間ごろ
●築城者 小笠原政信・塩見筑前守利勝
●城主 塩見氏
●形態 平山城
●高さ 65m(比高40m)
●遺構 郭・土塁・空堀等
●登城日 2017年3月19日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 福井・滋賀、そして京都府との県境にある三国岳(標高776m)から西に向かって流れだす由良川は、福知山市に入ると南から流れてきた土師川と合流するが、その合流地点の北側に築かれたのが猪崎城である。
【写真左】猪崎城の空堀
 下図にもあるように、主郭の西側を除いてほぼ全周を囲繞している空堀。
 右側の切岸を上がると主郭に繋がる。


 
現地の説明板より

❝三段池公園 猪崎城跡

  眼下に由良川・福知山市街地を望む小さな丘の上にあるこの猪崎(いざき)城跡は、今も「猪崎の城山」と呼ばれている中世の山城です。烏ヶ岳、鬼ヶ城などの山々から、由良川・土師川の合流部近くまで、長く伸びた裾野の先端にあります。

 城の範囲は、東西150m・南北160mあまりあり、ほぼ円形のこの丘全域にあたります。中核部分の主郭(近世城郭でいいう本丸)は、東西約45m・南北約50m、さらにこの主郭の北西の隅には矢倉台らしき盛土も残っています。

 主郭から1段下がった周囲三方(北・東・南)には、高さ0.5m3.5m程の大きな土塁(敵の侵入を防ぐ防壁)があり、主郭との間は幅15mほどの空堀となります。通路も兼ね、おそらく武者溜まり(非常の際に伏兵を配置する所)にも利用できるこの空堀は、福知山地方では最大の規模を誇っています。
 さらに、その周辺には約10か所余りの曲輪(城域を形作る平坦な区画)を裾に向かって階段状に付属させています。
【写真左】猪崎城要図
 現地に設置されているもので、北麓(右側)には小ヶ谷池が残っていることから、これが濠の役目をし、あえて北側には曲輪段が設けられなかったのだろう。
 


 これら空堀様式や曲輪の配置形式は、畿内では天文~永禄年間(15321569)に盛んに造られたことから、この猪崎城は、福知山地方では最も新しいタイプの中世城郭の一つと考えることができます。

 天正7年(1579)、明智光秀は丹波を平定し、近世城郭福知山城を築造します。その直前の姿を今に伝える猪崎城は、私たちを戦国時代へと誘ってくれるでしょう。

 平成103

                福知山市制施行六十周年記念事業
      協力 三段池公園整備後援会“

【写真左】入口付近
 北東側に登城口があるが、この付近全体が公園化されているため、非常に歩きやすい。
 写真中央に「猪崎城」と筆耕された石碑があるが、その奥にすでに最下段の曲輪が見えている。
 右側の坂道を登って向かう。


丹波・塩見氏

 説明板には記されていないが、『丹波志』『塩見系図』という史料によれば、地元の国人領主・塩見大膳太夫頼勝の三男・利勝を猪崎城の城主としている。もともと、頼勝は猪崎城から南の由良川対岸に築かれていた横山城の城主であったという。この横山城というのが、後に明智光秀が築くことになる福知山城である。

 ところで、この塩見氏は清和源氏信濃小笠原流の小笠原長清の支流といわれる。長清といえば、阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1でも紹介したように、阿波・小笠原氏の始祖でもある。丹波にいつ小笠原氏が下向したのか分からないが、おそらく承久の乱以降と思われる。
【写真左】東側の園路付近
 左側に既に郭段が見える。









 塩見姓としたのは頼勝の代で、その父・政信は小笠原姓を名乗り、当時の天田郡(現在の福知山市内)に根を張った。
 頼勝には、5人の息子がおりそれぞれ天田郡内に下記の城主とさせた。
  •  嫡男・頼氏     横山城(福知山城)
  •  次男・奈賀山長員  奈賀山城(中山城)
  •  三男・塩見利勝   猪崎城(本稿)
  •  四男・和久長利   和久城(別名:茶臼山城・安尾城・山田城)厚安尾
  •  五男・牧利明            牧城(愛宕山神社)

 頼勝は細川高国(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)に仕えた。桂川原の戦いに敗れた高国は、その後越前の朝倉孝景を最初に頼り、それが叶わないとみるや、享禄2年(1529)9月16日、越前から出雲国に至り、尼子経久に協力を求めた。

 翌享禄3年6月29日、高国は備前の守護代浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)と共謀し、柳本賢治(鶴居城(兵庫県神崎郡市川町鶴居)参照)を播磨東条で暗殺、その勢いをかって京へ進軍した。進軍中摂津中嶋の戦いで頼勝は細川晴元勢の三好元長らを相手に戦い、さらには天王寺でも戦ったが敗れ、高国は遂に広徳寺(尼崎市寺町)で自害することになる。
【写真左】北西側から遠望
 すぐに本丸に向かわず、一旦北西側まで進み、そこから本丸方向を眺めたもの。
 左側にある建物はトイレだったと記憶している。


 この後、三好長慶(河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)参照)が畿内を席巻、松永久秀の弟・長頼(内藤宗勝)が丹波方面に勢力を拡大していく。このとき本拠としたのが、船井郡にあった八木城(丹波・八木城・その1(京都府南丹市八木町八木)参照)である。これに対し、地元丹波国人衆が反発、永禄3年(1560)鬼ヶ城(同市大江町)において合戦が繰り広げられ、頼勝も国人衆の一人として参陣している。
【写真左】西側の曲輪
 本丸の下に設置されているもので、長径80m前後あり、最大の規模を誇る。





 永禄8年(1565)氷上郡の黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)主・赤井直正が天田郡に侵攻してきた。赤井氏はもともと天田郡も支配していたといわれ、のちに塩見氏が奪取した経緯もあったのだろう、直正が永禄8年に侵攻する前の弘治3年(1557)、直正の兄家清が内藤宗勝と戦ったが、その戦の怪我がもとで死去していた。

 永禄8年の戦いにおいて、直正は横山城にあった塩見頼勝を攻めた。このとき、内藤宗勝は塩見氏を支援していた。しかし、この戦いの8月2日、和久郷で宗勝は討死した。

【写真左】本丸方向を見る。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸から下の曲輪を見る。
【写真左】福知山城を遠望する。
 猪崎城から南へ由良川を介しておよそ1.3キロほどの位置に福知山城(横山城)がある。
【写真左】石碑
 本丸の一角に建立されている。歌碑のような内容で現代人が詠ったもののようだ。
【写真左】土塁の一角に窪み。
 当城の特徴である空堀を補う土塁の一か所に窪みがある。この個所だけ破壊されたのだろうか。

【写真左】空堀・その1
【写真左】空堀・その2
【写真左】空堀から南方を望む。
【写真左】空堀より更に下の段から本丸方向を見る。
【写真左】虎口か
 どの箇所だったのかはっきりしないが、虎口のような遺構
【写真左】街部から遠望する。
 周辺部は住宅となっているが、当時はこのあたりに屋敷などがあったのだろう。

 なお、今回は登城していないが、猪崎城からおよそ900mほど北に向かった中という地区に、中村城という城郭が残っている。おそらく猪崎城の出城であったのだろう。

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