大内氏・築山館(おおうちし・ちくやまやかた)
●所在地 山口県山口市上竪小路
●築城期 15世紀中頃
●築城者 大内教弘
●形態 館跡
●遺構 土塁・築地
●築城期 15世紀中頃
●築城者 大内教弘
●形態 館跡
●遺構 土塁・築地
●指定 国指定史跡
●備考 八坂神社・築山神社
●登城日 2017年3月11日
●備考 八坂神社・築山神社
●登城日 2017年3月11日
◆解説
大内氏・築山館(以下「築山館」とする)は、前稿大内氏館(山口県山口市大殿大路)の北隣に所在する館跡で、大内氏館と同じく大内氏が滅亡したあと主だった遺構は消滅し、現在はその跡に八坂神社や築山神社が祀られている。
【写真左】築山館遠望 南側の八坂公園側から見たもので、奥には八坂神社が見える。
現地の説明板より・その1
❝史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)
築山跡
昭和34年11月27日国指定
ここは大内氏28代教弘が15世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。築山館は教弘以後歴代当主の居館となったところです。
中世の連歌師宗祇は
「池はうみ こずえは夏の深山かな」
と詠んでおり、この句からかって豪華であった庭の様子が忍ばれます。
築山館は、大内氏滅亡後朽廃しましたが、園池の跡は残っていたといわれています。しかし、この池も江戸時代中頃周囲の築地の土を盛って埋めてしまい、現在のようになったといわれています。
江戸時代末の絵図によると、築地の外面は自然石の石垣であったことが伝えられています。
現在指定地内の北西隅に、鍵の手に土塁築地が残っていますが、往時の館の規模を示す遺構として重要です。
また、指定地内には八坂神社(本殿が国指定重要文化財)と築山神社があります。
管理団体 山口市”
現地に設置されているもので、南側に八坂公園、北側に西から築山神社、八坂神社が祀られている。
ほぼ方形の敷地で一辺が140m前後の規模だが、南に大内氏館があったことから、当時はこの場所と繋がっていたと考えられる。
また、東側には現在学校法人が建っているが、この場所も築山の範囲だったと想像される。
【写真左】八坂神社の鳥居 入口は南西の角にあり、最初に鳥居がある。このあたりは八坂公園という名称になっている。
現地の説明板より・その2
❝国指定 重要文化財
八坂神社本殿
大正6年8月13日指定
山口市大字上竪小路103番地
本社は今から600年余前に大内弘世が京都から勧請したもので、素戔嗚尊・稲田姫・手名槌命・足名槌命を祭神としている。
はじめ社殿は上竪小路に建立されたが、さらに水の上に社地がかえられた。その後永正16年(1519)に大内義興が大神宮を高峰山麓に建立したとき、本社もその地に移し社殿を新築した。
江戸時代の末期毛利氏は、社殿をこの地に移したが、本殿は永正年間に建立されたままのものである。
本殿は三間社流造りで、屋根は檜皮葺である。本殿の周囲に配されている13個の変化に富んだ蟇股は、珍稀な図柄とともに室町時代の特色をよくあらわしている。
本社の祭礼は、7月20日の夜から7日間にわたって行われるが、古来山口の祇園祭として有名である。大内氏の時代から伝わっている神事「鷺の舞」(山口県指定無形文化財 昭和48年10月19日指定)も、この祭りのとき奉納される。
山口県教育委員会
山口市教育委員会”
拝殿の大棟には毛利氏の家紋と八坂神社の社紋が配されている。
遺構として唯一残るもので、西側の築山神社の後ろから八坂神社のほうにかけて部分的に残る。
写真は築山神社側のもの。
【写真左】土塁・その2 高さは1m前後はあるだろう。
八坂神社側のもの。
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