大内氏館(おおうちしやかた)
●所在地 山口県山口市大殿大路(龍福寺)
●築城期 正平5年(1360)
●築城者 大内弘世
●指定 国指定史跡
●形態 居館
●遺構 土塁
●備考 龍福寺
●登城日 2017年3月11日
◆解説 参考資料(『日本城郭体系 第14巻』等)
山口市内には大内氏関連の史跡が点在しているが、その中でも同氏の基礎を築いたといわれる24代弘世が建てた館として有名なのが、大内館である。
【写真左】大内氏館の入口付近 南側に設置されたもので、手前に「史跡 大内氏遺跡附 凌雲寺跡 館跡」と表記された標柱が建ち、奥の山門左右の柱には「曹洞宗 龍福禅寺」及び「大内義隆卿菩提寺」と書かれた表札が掛けられている。
また暖簾には大内氏の家紋とされる大内菱が飾ってある。
現地の説明板より・その1
❝史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡)
大内館跡
昭和34年11月27日国指定
ここは、大内氏24代弘世が正平15年(1360)頃、それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。
大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって冨の蓄積と、異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人がこの館を訪れたことによって、当時の山口は京都を凌ぐほどの富と文化を誇ったといわれています。
現地に設置されたもので、左が北を示す。右(南側)に上掲した門があるが、その手前の東西に横断している道が大殿大路といわれた道で、参道から山門をくぐると右手に鐘楼、奥に向かうと、資料館、龍福寺本堂が配置されている。
なお、東側(上)には池泉庭園があるが、この日は向かっていない。
館外周には後に再現された土塁と堀跡が北から西側にかけて配置されている。
また、次稿に予定している築山跡(八坂神社)が北側に隣接している。
天文20年(1551)大内氏31代義隆は、重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。
館は、百閒四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたといわれています。現在は、ほとんどその面影を見ることはできませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。
管理団体 山口市”
大内氏祖の琳聖太子から31代義隆までの歴代当主の神霊を祀る祠で、龍福寺の鎮守として建立されている。
最初に創建したのは北隣にある築山館を創建した第13代大内教弘で、以後歴代当主によって各忌日には祭祀がされてきたという。
江戸期になると、代わって毛利氏が祭祀を執り行った。現在のものは江戸時代中頃のもの。
大内弘世
大内氏は、推古19年(611)百済から同氏の祖となる琳聖太子が来朝し、その後8代経た正恒が多々良性を賜り、仁平2年(1152)には周防国在庁官人としてこの多々良氏の名が記録されている。そして、このころ周防権介に任じられ、以後権介を世襲し大内介を称したことから始まるとされている。
大内弘世については、これまで陶氏居館(山口県周南市大字下上字武井)などでも紹介しているが、大内氏第24代の当主とされる。資料によっては、多々良性大内氏第9代としているが、どちらかといえば、こちらの方がより信憑性が高いと思われる。
弘世の時代はめまぐるしい動乱の南北朝期である。大内氏館が建てられたのは、正平15年(1360)ごろという。その5年前に弘世は周防守護となり(文和10年・1355)、3年後の正平13年には長門も平定し長門守護も獲得している。なお、その前後は石見守護も兼ねていた。弘世が中世に勃興した大内氏の礎を築いたといっても過言ではないだろう。
【写真左】梵鐘 入って少し進むと右手に梵鐘がある。現在のものは平成に再建されたもので、最初は天文元年~2年(1532~33)ごろ、大内義隆が九州葦屋(遠賀郡芦屋町)の名工大江宜秀に命じて「興隆寺梵鐘(国重要文化財)」を造らせている。写真のものは、この梵鐘を縮小複製したもの。
因みに、この頃大内義隆は石見銀山を奪回し、博多の貿易商・神谷寿貞、宗丹・慶寿を伴って銀山に入り、初めて銀の現地精錬(灰吹き銀精錬)に成功している。
凌雲寺
ところで上記説明板に「凌雲寺」という史跡も掲載されているが、これはすでに大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)でも紹介したように、永正4年頃(1507)に同氏30代の義興が開基した寺院で、場所は本稿の大内館から西北西へ直線距離でおよそ3.5キロほど向かった中尾にあり、当地には義興の墓が建立されている。
【写真左】凌雲寺跡 2014年に訪れたときのもので、石積された土塁(石塁)が残る。
龍福寺
さて、大内氏館跡に建てられたのが現在建っている龍福寺である。当院はもともと大内氏館から西に1キロほど離れた白石(町)にあったが、弘治3年(1557)毛利隆元が天文20年(1551)に長門・大寧寺(山口県長門市深川湯本)で自害した大内義隆の菩提を弔うためこの地に再興した。
【写真左】大内氏館の南側を東西に走る大殿大路。 大内氏が京都を模した街づくりを目指したこともあって、町割りや通りの景観は今でもその面影を残している。
隆元が龍福寺を建てた弘治3年は、陶晴賢が弘治元年(1555)厳島で自害した(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)あと、奔走していた大内義長がこの年(弘治3年)の4月、随従していた内藤隆世ともども且山城で自害(勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)参照)し、これによって毛利元就が防長征服を完遂した年に当たる。
因みに、大内方の残党がこの年の11月再度蜂起したがすぐに鎮圧しているので、おそらくこうした処置を終えた年末ごろに龍福寺が再建・竣工したものと思われる。
説明板にもあるように、当院はこの場所ではなく白石というところにあり、その後毛利隆元が弘治3年に当地に移築している。
現地の説明板より・その2
重要文化財
龍福寺本堂
昭和29年9月17日指定
龍福寺は、もとは白石(山口市白石)の地にありましたが、天文20年(1551)に兵火にかかり、そのままになっていたものを、弘治3年(1557)毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うためにこの地に再興しました。
明治14年(1881)、龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました。そのため、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の大内氏の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました。
これは龍福寺史料館に展示されているもので、昭和53年から発掘調査が開始され、土師器・瓦・陶器・陶磁器などが出土している。
特に特筆されるのは、金箔土師器で、館の井戸から出ていて、井戸を埋める際の祭祀に使用されたのではないかといわれている。
この本堂は、文明11年(1479)に建立されたといわれており、内部の大虹梁(だいこうりょう)、板蟇股(いたかえるまた)、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています。
移築後、約百年の月日が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、平成17年から平成23年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿へ戻されました。
本堂は、桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面には蔀戸があります。中でも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは、大変珍しいものです。”
毛利隆元
龍福寺を移築再建したのが毛利元就の長男・隆元である。大内義隆の菩提を弔うために再建しているが、彼は14歳のとき(天文6年)毛利家から大内家に人質として預けられ、のちに義隆を烏帽子親として元服、義隆の一字を賜って「隆元」と名乗っている。その後、妻を大内義隆の養女(内藤興盛の娘)から娶っている。
こうしたことから隆元にとって、大内義隆は義父のような存在であったのであろう。(吉田郡山城・その2(広島県安芸高田市吉田町吉田)参照)
同館に展示されている人形で、天文18年(1549)4月、毛利元就父子が義隆に長年の支援に対し、大内館を訪れ謝意を述べているときの場面である。
これは元亀3年(1572)に毛利輝元が龍福寺に与えたもので、境内の竹木を切ったり、狼藉を禁止した制札。
因みに、この前年祖父・元就が亡くなっているが、これを境に輝元は短期間に多くの発給文書を矢継ぎ早に出している。
北側から西にかけて廻らされているもので、土塁と並行して堀跡も模したものが再現されている。
【写真左】土塁・その2 1500年代前半に築庭されたもので、1500年代中ごろに火災で庭園としての機能を失ったという。
大内義隆の時代のものといわれる。
なおこれとは別に南東部に池泉庭園があるが、写真に収めていないので、記憶がはっきりしないが、おそらく立ち寄っていないと思われる。
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