丹波・八木城(たんば・やぎじょう)・その1
●所在地 京都府南丹市八木町本郷内山・小谷
●高さ 330m(比高220m)
●築城期 不明(室町時代)
●築城者 内藤氏
●高さ 330m(比高220m)
●築城期 不明(室町時代)
●築城者 内藤氏
●城主 内藤国貞、内藤宗勝、内藤ジョアン
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年3月20日
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●登城日 2017年3月20日
◆解説(参考資料 参考資料 「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」㈱吉川弘文館、HP「南丹市八木町観光協会」等)
丹波・八木城(以下「八木城」とする。)は、前稿神尾山城(京都府亀岡市宮前町)から東へ10キロ余り進んだ現在の亀岡市と南丹市の境にある城山周辺部に築かれた山城である。
当城は、丹波三大城郭(黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山))の一つである。
【写真左】八木城遠望 北側にある龍興寺側から見たもので、八木城の北麓には現在京都縦貫自動車道が走っている。
現地の説明板より
❝八木城
八木城は、八木南西部に位置し、京街道(山陰道)を眼下に望む口丹波随一の要害である。丹波国内では、八上城、黒井城と並んで三大城郭のひとつといわれ、中世の山城としては有数の規模を誇る。
「城山自然遊歩道」と名付けられた案内図があり、下方が北を示す。
下段でも紹介しているように、左図の左側に登城口がある。
丹波守護代内藤氏の居城として伝えられ、15世紀~16世紀に丹波地方の中心として機能した。戦国時代、キリシタン武将としてルイス・フロイスとも親交のあった内藤如安(じょあん)は有名で、文禄・慶長の役のおり、明側との交渉に当たった。
登城口は北東側の京都縦貫自動車道下にあるトンネルに設置されている。
写真にもあるように、入口は城門を模したような意匠となっている。車はこの隅のスペースに停める。
城は、明智光秀の丹波侵攻により没落したが、江戸時代に亀山藩が幕府に提出した絵図の模写によると、最高所の本丸は、四方に野づら積みの石組が描かれている。
また、本丸の南西端に金の間と書かれた一段と高い部分が張り出しているが、これは、天守閣の祖形(そけい)と考えられる。現在は、石垣の一部や尾根づたいに曲輪跡が残るのみであるが、当時の雄大な様子を伝えている。
八木町・八木町教育委員会”
左図は本丸に設置されているもので、中央が本丸になるが、周辺に配置された各郭群には「古絵図による城の配置と内藤家の武将配置」も示されている。
現物はモノトーンで書かれているため、管理人によって郭群等を彩色している。
参考までにこの図に載っている内藤家武将の名前を下に示す。
主な内藤家武将名
●大八木但馬(対面所・御茶屋) ●内藤備前守(本丸・金の間、馬屋) ●内藤和泉 ●内藤五郎 ●並河重郎(北の丸) ●八木玄蕃 ●内藤法雲(烏嶽) ●内藤土佐。
因みに登城口からすぐ登った付近が武家屋敷となっている。
【写真左】登城開始 前半のルートは谷筋を登って行くコースがとられている。
右側に「一合目」と書かれた看板があるが、登城口から歩きだすとすぐに屋敷群が現れる。
現況は荒れ果てた光景だが、道を挟んで左右に段が連なり、屋敷があったといわれている。
内藤氏
八木城の築城期については今のところ具体的な時期は確定していないが、南北朝期に足利尊氏から内藤氏が戦功により八木の地を賜り、この地に城砦(砦)を築城したと伝えられている。
このことからおそらく正平10年(文和4年)(1355)、尊氏が義詮とともに京都において南朝軍を破り義詮が入京しているので、この時期と考えられる。
【写真左】屋敷群・その2 登城道の2合目付近だが、屋敷群の北端部で、足元には五輪塔の部位がまとめられている。
内藤氏が丹波守護代として正式に任命されるのは、永享3年(1431)頃だが、それ以前の同氏の系譜をたどると、尊氏が室町幕府を開いた延元元年(建武3年)(1336)の段階で内藤道勝の名が記録されている。従って、前述した八木の地に城砦を築城したのはこの道勝と考えられる。
その後の内藤氏の系譜として主だった人物を時系列で挙げると、
- 之貞 嘉吉3年(1443)~宝徳元年(1449)
- 元貞 享徳元年(1452)~文明14年(1482)
- 貞正 永正2年(1505)~大永元年(1521)
- 国貞 永正17年(1520)~天文22年(1553)
となっている。なお、尊氏から八木の地を賜った際、当時室町幕府の管領で丹波守護も兼ねていた細川頼元(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)の家臣であったと思われ、以後道勝から貞正に至るまで主君を細川氏とし、丹波守護代の任にあったものと思われる。
【写真左】対面所 大八木但馬(対面所・御茶屋)といわれているところで、6合目付近に当たる。
堀切が残る。
内藤宗勝(松永長頼)
国貞の代になると、細川氏は「両細川の乱」などにより分裂、国貞の父・貞正の代から細川高国に従っていた内藤氏は、その後嫡男国貞も高国に従っていたが、前稿神尾山城(京都府亀岡市宮前町)の稿でも述べたように、大永6年(1526)細川高国が細川尹賢の讒言を信じ香西元盛を殺害したため、これに激怒した波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波に帰参し高国らと敵対したとき、国貞は尹賢らの追討軍から離脱した。
6合目の対面所を過ぎると、一転して傾斜のある登坂道になる。
その後、天文2年(1533)細川晴元に属し、丹波守護代に復帰している。このころの国貞の動きを見ると、細川氏の凋落にともない、三好長慶や松永久秀らの急激な台頭があり、彼らの動きを見定め、安易な主従関係を求めない自立した姿勢が窺える。
その後、国貞は晴元や氏綱(父・尹賢)などと手を結んだりするが、天文17年(1548)細川晴元と三好長慶が対立するや、国貞は晴元を見限り長慶に与した。そして、長慶の下には松永久秀がいた。
長慶に属してから4,5年経った天文20年から21年ごろと思われる、国貞は娘を久秀の弟松永長頼に嫁がせた。のちの内藤家の家督を握る内藤宗勝である。
左側の切岸の上は本丸に当たる。
天文22年(1553)3月、三好長慶は前年和睦したばかりの将軍足利義藤(義輝)と再び断交、8月には義輝を近江に追放した。そして翌9月3日、長慶は松永久秀・長頼兄弟に丹波出陣の命を発した。
久秀らが最初に攻め入ったのが、波多野秀親らが籠る数掛山城である。因みに、当城は前稿神尾山城から南へ2キロほどの位置になり、八木城は直線距離で北東方向におよそ8キロの位置に当たる。
【写真左】本丸虎口付近左に行くと本丸、右に行くと妙見宮。
数掛山城の戦いでは、松永方が当城を囲んだが、その後香西元成、三好宗渭などが後巻きを行い、このため松永軍にあった内藤国貞が討死した。こうした劣勢は八木城にも及び、落城の危機を迎えたが、国貞の娘婿であった松永長頼が直ちに八木城救援に向かい、城を守り抜いた。
松永久秀の兄弟には長頼(宗勝)とは別にもう一人の弟がいたが、記録が残っていないので不詳とし、その子に八上城主となった松永孫六などがいた。
内藤ジョアンの下にはジュリアという妹がおり、彼女も洗礼を受けている。
この後長頼は国貞娘との間にできた嫡男・千勝(後の貞勝)を正式な内藤家当主とし、自らはその後見人となり、内藤宗勝と名を改めた。
これにより松永久秀及び内藤宗勝兄弟は、三好長慶の畿内制圧の一つとして、八木城を本拠とし丹波平定への大きな足掛かりを作った。
参考までにこのころの三好長慶が支配した地域は以前にも紹介したように下記の通りである。
- 山城国 淀城 ― 細川氏綱
- 摂津国 芥川山城 ― 三好義興
- 大和国 多聞城・信貴山城 ― 松永久秀
- 和泉国 岸和田城 ― 十河一存
- 丹波国 八木城 ― 内藤宗勝。八上城―松永孫六
- 淡路国 炬口城 ― 安宅冬康
- 阿波国 勝瑞城 ― 篠原長房
- 讃岐国 十河城 ― 十河一存
- 河内国(北部) 飯盛山城 ― 三好長慶
妙見宮は麓にあるが、そこにいくまでに多くの遺構がある。
猪が大分崩している。
写真の左側に少し見えているのが大堰川(おおいがわ)で、右側が亀岡市。
因みに大堰川は、亀岡市辺りで名前をかえて川下り観光で有名な保津川となり、京都市内に入ると、今度は嵐山付近では、桂川と名乗り、最終的には淀川に合流する。
◎次稿に続く
とりあえず本稿ではここまでとし、次稿では本丸からさらに北東方面に向かった遺構並びに、内藤宗勝の息子・ジョアン(如安)や、麓にある内藤氏所縁の寺院などを紹介したいと思う。
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