2017年8月6日日曜日

花見山城(愛媛県松山市堀江町)

花見山城(はなみやまじょう)

●所在地 愛媛県松山市堀江町
●形態 平山城
●高さ 23.9m(比高15m)
●築城期 正平23・応安元年(1368)
●築城者 河野通堯(村上大蔵大夫)
●城主 久枝四郎左衛門与利、河野通直、河野通孝(西氏か)、西氏
●遺構 郭その他
●登城日 2015年6月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第16巻』等)
 花見山城は松山市の北方堀江町に築かれた平山城である。現在は内陸部に所在する位置となっているが、後段の図でも紹介するように、築城期とされる南北朝期には北方の燧灘が南側まで来ていたと思われ、見方によっては海城であった可能性も高い。
【写真左】花見山城遠望
 西側から見たもので、小丘陵を利用して築城された小規模な城址である。
 手前は、後段でも紹介するように、江戸後期に築堤工事された新池。



現地説明板より

“花見山城城主

 1368年(室町時代前期)、河野通堯(みちたか)は、葛籠屑(つづらくず)城主・村上大蔵大夫に命じて、花見山に出城を築かせた。当時、守護や寺侍の勢力争いが絶えず、領地を守るために出城を造り敵に備えていた。築城後、通堯は、この地方から他郷の細川勢や仁木勢を退け、政治を安定させた。
【写真左】花見山城想像図
 この図は、管理人が築城当時の南北朝期、周辺部の様子を想像して描いたもの。

 北側を流れる権現川は濠の役目でもあり、さらには海城としての船溜まりを兼ねたものであったかもしれない。
 特に現在の権現川は燧灘河口まで凡そ1キロ弱あるが、当時はそこまで陸地は伸びておらず、花見山城の直近まで灘が迫っていた可能性が高く、以前紹介した西条市の鷺ノ森城とよく似た環境であったと考えられる。
 従って、形態としては海城であり、各郭には館などが建っていたと推測される。


 1379年、通堯は、将軍・足利義満に味方し伊予国の守護に任ぜられた。その後、城代・西通孝から引き継いだ西山氏(西の改姓)が代々城主となる。城主・西山氏の墓は、この花見山の麓にある。

 第4代城主・西山肥後守通倫(みちとも)、第6代城主・西山五右衛門通周(みちちか)は、この地方の開発や村人の救済に尽くした功績で、正八幡神社本殿左側の周敷(しゅうしき)神社に祀られている。
    松山市堀江公民館”
【写真左】城主・西山氏の墓
 道路脇の麓には西山氏の墓が祀られている。
 文字から見て、4代城主・西山肥後守通倫のもののようだ。
 裏には昭和43年建立と刻まれている。



河野通堯(こうのみちたか)

 「日本城郭体系第16巻」には、当城の築城年代や築城者が誰であったかは明らかでないとしているが、現地の説明板では築城期を1368年、すなわち南朝方の元号では正平23年、北朝方(室町幕府)では応安元年としている。因みにこの年の後半(11月~12月)、室町幕府は足利義詮が政務を嫡男義満に譲り、12月30日に義満が征夷大将軍となっている。
【写真左】登城口付近
 西側を南北に走る道路と並行して緩やかな坂道の登城口がある。
 登城したのが大分暑くなった6月の後半だったため、連合いは日笠をさして登る。



 花見山城築城を命じた河野通堯については、以前取り上げた土居構(愛媛県西条市中野日明)や、鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)でも紹介しているが、築城期頃(正平23年)の段階では通堯は南朝方に属し、北朝方の四国管領であった細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)の伊予侵攻に抵抗している。

 正平20年(1365)4月、河野氏の本拠の一つであった高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)を頼之が包囲したとき、通堯は一旦伊予から逃れ、能美島を経由して南朝方の得能氏(由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘)参照)の斡旋で、九州大宰府の征西大将軍懐良親王(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)の下に赴き、拝謁している。そしてその後南朝方の後村上天皇から本領・惣領職を安堵され、名を通堯から「通直」と改名している。
【写真左】三の丸付近・その1
 登城道を登っていくと、最初に現われるのが三の丸跡で、一部は藪化し、残りは果樹園や畑地となっていた。
【写真左】三の丸付近・その2
 三の丸が一番低い郭段で、上掲した想像図ではあまり大きなものでないように描いているが、当時はこの付近も含めさらに南側の低くなった箇所にも中小の郭段があり、船着き場としての施設などがあったのかもしれない。
【写真左】二の丸に向かう。
 手前の畑が三の丸で、奥に2m程高くなった段が二ノ丸に当たる。
 適当にクサムラをかき分けて登る。
【写真左】二の丸から本丸へ
 上掲した想像図では二の丸と本丸に若干の段差を設け区画したように描いているが、現地は時節柄かなり伸びた雑草のためその境ははっきりしない。ただ、手前(二の丸)より少し昇り傾斜となって本丸に繋がっている。
【写真左】本丸跡に建つ祇園神社
 本丸跡の一画には祇園神社が祀られている。
 この日、壁には「例大祭は7月4日(土)午後4時斎行いたします。皆さん、参拝下さい。」と書かれた張り紙があった。
【写真左】三角点
 本丸の西方の少し高いところには「三角点」が設置してあった。海抜24m程度の小丘陵に三角点が設置してあるのもめずらしい。

 このあと一旦降りて外周部に廻る。
【写真左】本丸北側の切崖
 右側が本丸にあたるが、その北側には犬走りのような小さな道がついている。
【写真左】西側から見る。
 雑草などが繁茂していていま一つ明瞭でないが、この辺りの切崖も傾斜がありそうだ。
【写真左】堀江新池
 花見山城の西側には道路を隔てた溜池がある。全国ため池百選の一つで、平成22年3月に農林水産省の選定になっている。



現地説明板より

“新池
 昔、堀江村の田畑へは郷谷川、権現川、大川などの水を引いていたが、その水だけではいつも不足がちで、そのうえ数年に一度は干害にあっていた。これを解決するために庄屋・門屋一郎次が大規模な「溜め池」の築造を考え、村人や松山藩にはたらきかけた。松山藩は、工事費の補助と人夫が食べる米をあたえた。
 村人は一丸となって作業に励み、3年の歳月をかけて1835年(江戸時代後期)、ついに藩内最大の溜め池が完成した。
 めずらしい光景となっている池の中ほどの土手(中土手)は、池があまり大きいため、大風の時にできる波立ちによって堤防が壊されるのを防ぐためのもので、先人のすばらしい知恵をみることができる。
    松山市堀江公民館”
【写真左】権現川と新池
 西側からみたもので、右の小丘が花見山城


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