2012年1月2日月曜日

蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1

蔀山城(しとみやまじょう)・その1

●所在地 広島県庄原市高野町新市●別名 越田城・士富山城
●高さ 標高775m(比高220m)
●遺構 土塁・郭・堀切・井戸
●築城期 正和5年(1316)
●築城者 山内通資
●城主 多賀山氏
●指定 広島県指定史跡
●登城 2011年11月13日

◆参考文献(『日本城郭体系第13巻』『掛合町誌』等)
 蔀山城については、甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の稿で少し触れたが、備後北部の旧比婆郡高野町に所在する山城で、鎌倉中期に関東御家人・山内首藤氏が地頭として当地に入部したのに始まる。
【写真左】蔀山城遠望
 西麓から見たもの












 所在地である高野町は、北隣の出雲国(島根県)と接し、蔀山城の南麓を走る国道432号線は、往古から奥出雲と奥備後を結ぶ街道であった。

現地の説明板より

“蔀山城跡
  広島県指定史跡 平成4年10月29日指定


 正和5年(1316)、山内通資によって築城された。標高775mに築かれた城は、東側と南側は急斜面の崖が切り立っている。
 山頂に本丸を、東方に二の丸と三の丸を置き、主要部とし、ここから東・西・南に派生する尾根へ、30余りの郭が配されたという。


 鎌倉初期、通資は相模国山内荘から来住し、蔀山城を築城。その後、元亨年間(1321~24)甲山城へ移ってからは、弟・通俊が在城することになり、家名を多賀山氏と改めた。
【写真左】蔀山城 案内図
 南麓に設置されているもので、上方が北を示す。
登城口は、西側の大山神社付近にある。蔀山城の南麓を流れる神之瀬川は西に流れ三次市で江の川と合流する。


 東西に走る道路が国道432号線で、この位置から3キロ余り東進すると、王居峠で分水嶺となり、比和川が南下し西城川と合流する本郷町に至ると、山内惣領家の甲山城にたどり着く。


また、432号線を北進すると、王貫峠を越えて奥出雲に繋がり、元高野町の鉄山師であった出雲の三大鉄山師の一人・桜井氏(祖・塙団衛門)の可部屋敷に至る。




 享禄元年(1528)には、出雲国の尼子氏に攻撃され、翌年7月に蔀山城は落城した。
 その後、安芸の国毛利氏の軍門に降り、尼子氏との数々の戦いに参加したが、天正19年(1591)、毛利輝元により改易を申し渡され、築城以来275年にて廃城となった。


 設置年月日 平成19年3月
 設置者  広島県教育委員会・庄原市・庄原市教育委員会”
【写真左】登城道・その1
 登城したこの日、たまたま麓に地元の人がおられ、当城の本丸までの道について聞いたところ、大山神社までは整備されているが、その先は地元の者でも最近登っていないので、どうなっているかわからないとのこと。


 この写真は大山神社の手前付近で、左手に神社が祀られている。




山内首藤氏

 山内首藤氏については、「甲山城」の稿でも紹介したように、元は相模国(神奈川県)鎌倉郡山内を本拠とした藤原氏一族であるが、それ以前は美濃国の武士であったという。そして源頼義(河内源氏二代目:988~1075年)のとき、郎従となり代々源氏につかえ、俊通の代に相模国へ来住し開発領主となった。

 その後、一時頼朝の代になると、敵対するが、経俊・重俊父子に至ると、再び源氏に与し、功を挙げ、元久元年(1204)12月30日、備後国比婆郡地毘荘(じびのしょう:現庄原市)の地頭職を得て、当地に住むことになる。
【写真左】大山神社
 説明板によると、古くは越八馬頭身社(はうやまみずみしゃ)として称え、元は蔀山の山頂にあって、元応元年(1319)、山内首藤通資が現在の社地に移し、地毘荘内の牛馬の総守護神と定めたという。


 幅約8m×奥行50mの境内と、写真左下は約9mの切崖を持たせた二段の郭となっている。周囲はこのほか大小の削平地・段差の痕跡が認められ、中継ぎの郭として重要な役割をもっていたものと思われる。



 なお、地頭職を得た初期には、惣領家山内氏は直ぐには来住せず、庶家である田原・滑(なめら)・竹内・多賀・河北・黒杭氏らが先ず入部し、扶植が安定したのちの正和5年(1316)に惣領家である山内首藤通資が当地・地毘荘に入った。

 そして、この地毘荘(現:高野町)へ蔀山城を築くことになるが、5年後の元亨年間(1321~24)にかけて、通資は南部の甲山城へ移り、蔀山城は弟の通俊に譲ることになる。

 そして、この山内首藤通俊が、多賀山首藤氏の初代となり、以後戦国期に至るまで、18代275年間当地を治めていくことになる。
【写真左】登城道・その2
 前掲の大山神社からは尾根伝いを九十九折に登っていく。


 大分前に階段が設置されているが、所々破損個所があり、崩れたりしているところもあるが、気を抜かなければ十分歩ける。



多賀山氏

 さて、通俊を始祖とする多賀山氏については、『比婆郡誌』『多賀山通続同家系図案(山内首藤家文書)』『庄原市史』等の史料をもとに、同氏の略系をまとめたものが、島根県の『掛合町誌』に次のように記されている。

多賀山氏略系図(「掛合町誌」より)
  1. 三郎兵衛尉通資  後の甲山城主
  2. 五郎兵衛城通俊  多賀山氏始祖
  3. 近江守通友
  4. 又四郎通春
  5. 新太郎通安
  6. 五郎次郎通倫
  7. 大和守通高
  8. 彦九郎通家
  9. 対馬守通宗
  10. 五郎大夫通康
  11. 出雲守通近
  12. 刑部大夫通忠
  13. 新兵衛通継
  14. 駿河守通憲
  15. 新兵衛尉通時
  16. 伯耆守通広
  17. 新兵衛尉通続(入道久意)  妻(惣領家山内直通の女) 主君 尼子→大内→尼子→毛利
  18. 与四郎通定
  19. 左京進通信
  20. 左近通次
この中で、後半のもの(19・20代前後)については、蔀山城の出城であった出雲(島根)の日倉城(日倉山城(島根県雲南市掛合町掛合)・その1参照)における出来事の関係で、史料・文書関係が散逸しているため、不確かなものもある。
【写真左】登城道・その3
 しばらくすると、ピークに差し掛かり、そこを過ぎると、平坦な尾根道が続く。


 途中で左右に土塁跡を窺わせる箇所があり、また幅が5m前後の箇所や、逆に土橋を思わせるような狭い箇所があり、郭の用途とされたと考えられる。



戦国時代

 上掲したように、蔀山城主第17代目・通続のときがもっとも波乱にとんだ時期で、惣領家山内直通の女を妻にした通続は、当初山内氏と同じく、尼子方に属していた。

 しかし、大永6年(1526)、通続は尼子方に背いて大内方に属した。このころの動きとしては、同年12月、尼子経久大内義興が石見浜田での「天満畷(てんまなわて)の戦い」を行い、翌7年2月になると、大内義興が尼子の属城・安芸新城の攻略、及び熊野城を攻めている。また、8月になると、今度は経久が備後国に入り、陶興房と細沢山(和智郡)で戦い、さらに同年11月には、三次で激突している。
【写真左】櫓台か
 尾根道の中間地点あたりにあったもので、左(北側)に高さ2m弱の櫓の用途と思われる高台がある。



 そして、享禄元年(1528)9月9日、蔀山城は尼子経久によって猛攻撃を受け、通続は辛くものがれた。

 しかし、その年の暮れの12月20日、大内義興が没し、義隆が跡を継ぐと、通続は再び尼子方に奔った。

 このため、7年後の天文4年(1535)、今度は毛利元就に攻撃を受けることになる。そして、同22年(1553)多賀山氏は毛利氏に降り、惣領家山内氏とともに毛利氏に属することとなった。

 両氏のこうした動きの背景には、前年から繰り広げられてきた備後国における尼子氏と毛利氏との度重なる合戦で、尼子氏が次々と敗戦していったことが挙げられる。このころの合戦の経緯については、黒岩城(広島県庄原市口和町大月)・その1新宮城(広島県三次市志幸町)高杉城(広島県三次市高杉町)ですでに紹介しているので、ご参照いただきたい。
【写真左】堀切
 フラットな尾根道をすぎ、本丸に上る直前に設けられたもので、手前の位置から深さ約3m弱掘られた堀切。


 向こう側の登り勾配がすぐに控えているので、堀切として効果が大きい。



最終的に尼子氏が備後・安芸国から全軍を引き上げたのは、この年(天文22年)の10月19日で、安芸国の三若城(備後・旗返山城(広島県三次市三若町))の戦いとされている。

その後、惣領家山内氏は毛利氏に属しながら次第に地位を認められるようになっていく。
ただ、多賀山氏については、19代通信のとき、

色欲無道にして其身は飽まで驕奢し、家中は日々に困窮衰微し、主をうとんずる者多し…」(『蔀山軍記』)

という暗愚の主だったため、改易され毛利氏の家臣児玉与三郎が城代となり、福島正則の時代になると廃城となった。
【写真左】本丸直下の登城道
 先ほどの堀切を過ぎると、ご覧の通り途端に急坂となったルートに変わる。蔀山の西から北に向けて回り込むコースをとっている。


周囲を見てもこの他に道として選択できそうな緩斜面は見当たらなかったので、大手筋とは別に、当時もこのコースが使われていたのだろう。
【写真左】本丸・その1
 息遣いがやや荒くなった頃、本丸が見えてくる。
 規模は28m×10mと東西に長い郭で、北側には土塁が残る。


 本丸の南側には大手に向かって10数段の小規模な郭が築かれていると『日本城郭体系』には記されているが、上から見た限り、その形状は現在では劣化消滅しているようだ。


なお、搦め手となる北側の尾根(毛無山側)を進むと、幅6mの空堀があるとされているが、この方向に降りると、再び戻るには相当な体力がいるため、確認していない。


 冒頭の「別名」にも記したように、蔀山城は山内通資が築城した当初、「越田城」と称していたが、「武衛繁栄の山なり」と念じて、「士富山城」と改めたという。「武士が富める」という語彙なのだろう。
【写真左】二の丸
 本丸の南側から東に向けて降りていくと、二の丸が控える。
 この郭は北の面と、南の面の2か所に分かれ、北側が高い。
【写真左】二の丸から本丸を見上げる。
 二の丸と本丸の高低差は8mあり、連絡道は南側にとっている。
【写真左】毛無山遠望
 手前の茶色の山が毛無山だが、蔀山は毛無山の南に延びる尾根先端部にあたる。


 蔀山頂部から北方国境の王貫峠を望むことは困難で、このため、北の毛無山(H:1155m)には、見張り櫓や狼煙台などを設け、奥出雲(尼子氏)の動きを見ていたものと思われる。
【写真左】二の丸と三の丸の間の郭
 両郭の間には、3~6mの深さに抉られた郭が介在している。


この郭からさらに南に向かって下る谷筋が構成され、そこを降りていくと大手筋につながる帯郭に出る。
【写真左】三の丸から東方へ
 三の丸は25m×26mの規模を持ち、数段の小郭で構成されている。
【写真左】東端部の郭
 三の丸からさらに東に向かうと、大小6段の郭が連続している。


 写真はこの日向かった東端部限界の位置で、東方には分水嶺となる王居峠が控える。
【写真左】南の帯郭
 先ほどの二の丸と三の丸の間の郭から南下するとご覧の帯郭が設けられている。
 この場所の東側に井戸跡(水場)がある(下の写真参照)。
【写真左】井戸跡
 水場といわれる箇所で、現在でも写真のように水溜りとして残る。
 もともとの規模は、3m四方に掘削された井戸だったとのこと。
【写真左】帯郭から本丸南・大手筋を見る。
 前記したように、郭段としての段差がほとんどなくなり、単なる斜面になったが、この箇所の紅葉は見ごたえがある。

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