日倉山城(ひぐらやまじょう)・その2
◆解説(参考文献『頓原町誌』『掛合町誌』等)
本稿では、前稿につづいて日倉山城の戦国期の動き、及び田部長右衛門(田邊家)について述べたいと思う。
前稿でも少し紹介しているが、多賀山城主であった通続の叔父といわれた花栗弥兵衛が、永正11年(1514)に反乱を起こしている。
おそらく、このころ多賀山氏一族に何らかの問題が起きたためだろうと思われるが、この騒動を含め、後に多賀山通続が下段に示すように、「置文」を残している。
【写真左】蔀山城本丸
◆解説(参考文献『頓原町誌』『掛合町誌』等)
本稿では、前稿につづいて日倉山城の戦国期の動き、及び田部長右衛門(田邊家)について述べたいと思う。
前稿でも少し紹介しているが、多賀山城主であった通続の叔父といわれた花栗弥兵衛が、永正11年(1514)に反乱を起こしている。
おそらく、このころ多賀山氏一族に何らかの問題が起きたためだろうと思われるが、この騒動を含め、後に多賀山通続が下段に示すように、「置文」を残している。
【写真左】蔀山城本丸
多賀山通続の置文
この史料は、永禄2年(1559)12月に晩年の通続が書き遺したものといわれ、『飯南町誌』でその概要が下段のようにまとめてある(一部管理人加筆)。
“自分(多賀山通続)が9歳のとき、叔父花栗(「多賀山通続同家系図案」によれば、弥兵衛という)が逆心を起こし、多賀山通広(通続の父)と、兄又四郎を永正11年(1514)9月9日に討ち果たした。
このとき、自分は乳母に負われて蔀山城を落ち、掛合へ頼みに行くことになった。掛合にいる多賀殿の女房が、自分の叔母だったからである。しかるに、あくる正月20日、井上八郎右衛門尉が、桧木谷(高野町)において、花栗弥兵衛と刺し違え、弥兵衛を討った。井上は多賀山家にとって大功ある者である。
自分は7番目の末孫であるが、8歳のとき母におくれ、9歳の時父と死別、10歳の時家督を継いだ。永正12年(1515)のことで、44年以前のことである。
自分が、21歳の時、丹州(山名氏)の御下知によって、雲州(尼子氏)から離反した。ために、2年間も尼子勢と戦い、地下中が荒廃してしまった。3年目の享禄元年(1528)9月、尼子勢が蔀山城を攻囲した。
翌年の7月19日から20日にかけて、城外の小屋で戦っている兵どもは、ついに兵糧が尽き、ある者は味方の陣に帰り、ある者は敵陣へ落ちてことごとく討たれた。
残った者は、
すると、天道のお助けであろうか、にわかに大雨が降り、その間に囲みを破って脱出することができた。江木善左衛門尉・白根雅楽助・白根豊後・水間伊賀・田邊四郎左衛門尉は、追手と立ち向かい、比類なき働きをして討死した。いずれも大功ある者で、子々孫々まで目をかけるべき家柄である。
末代の者のために、ここに書き置くものである。
時に、永禄2年12月、認める。”
このとき、自分は乳母に負われて蔀山城を落ち、掛合へ頼みに行くことになった。掛合にいる多賀殿の女房が、自分の叔母だったからである。しかるに、あくる正月20日、井上八郎右衛門尉が、桧木谷(高野町)において、花栗弥兵衛と刺し違え、弥兵衛を討った。井上は多賀山家にとって大功ある者である。
自分は7番目の末孫であるが、8歳のとき母におくれ、9歳の時父と死別、10歳の時家督を継いだ。永正12年(1515)のことで、44年以前のことである。
自分が、21歳の時、丹州(山名氏)の御下知によって、雲州(尼子氏)から離反した。ために、2年間も尼子勢と戦い、地下中が荒廃してしまった。3年目の享禄元年(1528)9月、尼子勢が蔀山城を攻囲した。
翌年の7月19日から20日にかけて、城外の小屋で戦っている兵どもは、ついに兵糧が尽き、ある者は味方の陣に帰り、ある者は敵陣へ落ちてことごとく討たれた。
残った者は、
- 江木源三郎・同善左衛門尉
- 白根若狭・同雅楽助・同豊後・同豊後・同九郎左衛門尉
- 水間伊賀
- 大嶋河内
- 湯浅肥前
- 田邊四郎左衛門尉・同五郎兵衛
すると、天道のお助けであろうか、にわかに大雨が降り、その間に囲みを破って脱出することができた。江木善左衛門尉・白根雅楽助・白根豊後・水間伊賀・田邊四郎左衛門尉は、追手と立ち向かい、比類なき働きをして討死した。いずれも大功ある者で、子々孫々まで目をかけるべき家柄である。
末代の者のために、ここに書き置くものである。
時に、永禄2年12月、認める。”
通続が残したこの置文は、多賀山氏にかかわる事件を詳細に記したもので、大変貴重な史料といえる。同文からは色々なことが分かってくるが、『頓原町誌』にも書かれているように、次のようなことが推察される
前稿で紹介した国道54号線に設置されたもの。
田部長右衛門
ところで、島根県出雲部では、江戸時代から繁栄を誇った三大鉄山師の一族田部家がある。田部家は代々長右衛門と名乗り、第23代は地元島根の県知事を務めた。ちなみに他の二氏は、度々紹介してきた塙団衛門の系譜とされる桜井家と、絲原家である。
田部氏の始祖は、紀州(和歌山県)の田辺氏といわれ、前々稿「蔀山城」で紹介した山内首藤通資の家臣であったといわれている。つまり、相模国(神奈川県)鎌倉郡山内を本拠としていた藤原一族であった山内氏が、正和5年(1316)に備後国地毘荘に入部した際、随従してきたのがこの田辺氏である。
【写真左】日倉山城遠望
2016年4月2日撮影
この日たまたま国道54号線を走っていたら、主郭付近がきれいに伐採されていたので、車を停めて撮った。
200年後とは、永正年間(1510年代)である。このことは、冒頭で記した「多賀山通続の置文」に書かれている「花栗弥兵衛の謀殺事件」が起きた時期と重なり、おそらくこの事件が落着したのち、すなわち井上某が弥兵衛を討ち果たした後のことと考えられる。
【写真左】日倉城の麓を流れる三刀屋川
鉄山創業を開始した当初は、したがって蔀山城近辺、すなわち高野町地域だったのだろう。
その後、出雲国に入るきっかけとなったのが、多賀山氏による掛合進出と考えられるが、その端緒の一つとして挙げられるのが、下段の多賀山通定の宛行である。
すなわち、前稿で記したように、多賀山通定が、永禄6年(1563)付で宛行した家臣の中に、
「掛合郷坂本村へ1貫前の地を受けた田部宗左衛門」という記録などである。
なお、江戸期に至ると、田部氏の鉄山事業(タタラ操業)の中心地は、吉田川を中心とした旧吉田村にシフトしていく。
- 花栗弥兵衛という人物は、多賀山通続の叔父であり、おそらく通続の父・通広の弟であったと思われる。
- 花栗というのは、現在の日倉城のある掛合の南方・頓原町(現飯南町)の「道の駅」付近の地名で、当地に「伝花栗弥兵衛の墓」とされる遺跡が残る。
- このことから、花栗弥兵衛は蔀山城の多賀山氏から分家し、当地・花栗に所領を分与されたと考えられる。ただ、弥兵衛が謀反を起こした理由は分からないが、多賀山一族に深刻な対立があったことがうかがえる。
- 通続が掛合の日倉城を頼って落ち延びたということから考えると、分家した花栗氏より以前に、掛合の日倉城に多賀山氏が進出している可能性が高い。
- 永正12年(1515)年に10歳であったというから、尼子氏と決別した大永6年(1526)は通続21歳のときで、その2年後の享禄元年(1528)9月9日、尼子経久が備後蔀山城を攻めている(『山内首藤家文書』)。
前稿で紹介した国道54号線に設置されたもの。
田部長右衛門
ところで、島根県出雲部では、江戸時代から繁栄を誇った三大鉄山師の一族田部家がある。田部家は代々長右衛門と名乗り、第23代は地元島根の県知事を務めた。ちなみに他の二氏は、度々紹介してきた塙団衛門の系譜とされる桜井家と、絲原家である。
田部氏の始祖は、紀州(和歌山県)の田辺氏といわれ、前々稿「蔀山城」で紹介した山内首藤通資の家臣であったといわれている。つまり、相模国(神奈川県)鎌倉郡山内を本拠としていた藤原一族であった山内氏が、正和5年(1316)に備後国地毘荘に入部した際、随従してきたのがこの田辺氏である。
【写真左】日倉山城遠望
2016年4月2日撮影
この日たまたま国道54号線を走っていたら、主郭付近がきれいに伐採されていたので、車を停めて撮った。
鎌倉にあった山内首藤氏と、紀州にあった田辺氏がどういう経緯で接点を持ったのか、分からないが、六波羅探題が介在していることは間違いないだろう。
なお、史料によっては山内首藤通資を、周藤通資と記しているものもあるが、同一人物である。
そして鉄山師としての事業を始めたのは、地毘荘に入ってから200年後とされ、田部彦左衛門という人物が創業したといわれている。200年後とは、永正年間(1510年代)である。このことは、冒頭で記した「多賀山通続の置文」に書かれている「花栗弥兵衛の謀殺事件」が起きた時期と重なり、おそらくこの事件が落着したのち、すなわち井上某が弥兵衛を討ち果たした後のことと考えられる。
【写真左】日倉城の麓を流れる三刀屋川
鉄山創業を開始した当初は、したがって蔀山城近辺、すなわち高野町地域だったのだろう。
その後、出雲国に入るきっかけとなったのが、多賀山氏による掛合進出と考えられるが、その端緒の一つとして挙げられるのが、下段の多賀山通定の宛行である。
すなわち、前稿で記したように、多賀山通定が、永禄6年(1563)付で宛行した家臣の中に、
「掛合郷坂本村へ1貫前の地を受けた田部宗左衛門」という記録などである。
なお、江戸期に至ると、田部氏の鉄山事業(タタラ操業)の中心地は、吉田川を中心とした旧吉田村にシフトしていく。
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