2012年1月18日水曜日

忠山城(島根県松江市美保関町森山)

忠山城(ちゅうやまじょう)

●所在地 島根県松江市美保関町森山
●築城期 永禄12年(1569)
●築城者 尼子勝久
●遺構 削平地・石塁・井戸・郭等
●遺物 焼米・陶磁器
●高さ 290m
●登城日 2011年9月27日

◆解説(参考文献『尼子物語』『新雲陽軍実記』妹尾豊三郎編著、『日本城郭体系第13巻』等)
 赤崎山城(島根県安来市赤崎町城山)でも少し紹介したが、尼子勝久・山中鹿助らが尼子再興を期して、隠岐国から出雲国に入った最初の山城である。
【写真左】忠山城遠望
 北側から見たもので、鹿助・勝久らが隠岐から日本海を渡海し、上陸したといわれる千酌(ちくみ)の地区。

 おそらく、この写真の谷間から向かったものと思われる。



 中海から隔てた南東部から当城を遠望すると、切り立った山容を誇り、容易に近づけない山城であることを思わせる。


尼子再興の始まり

 尼子氏居城・月山冨田城が毛利氏の手によって落城したのは、永禄9年(1566)7月である。
 尼子氏の生き残った家臣たちは四散し、諸国流浪の身となった。山中鹿助らは、しかし尼子再興を期し、あらゆる手立てを模索していくことになる。
【写真左】林道からの分岐点
 忠山城へは、北側の千酌から当城の西麓の峠を越え、南側の中海側まで結ぶ林道があり、くだんの峠付近で車を駐車し、そこからは歩いていくことになる。

 郭跡にはNTTの無線中継所があり、そこまで道はあるが、関係者専用のようだ。また度々落石があるため、徒歩のほうが確実である。
 写真にもあるように、この位置で中継アンテナが見える。


 伝聞では、鹿助と吉田八郎左衛門義金(直景)・真木宗右衛門高純らは、頭に菅笠を、肩には輪袈裟を、手には金剛杖を持つ巡礼者となって東国へ向かい、武田・長尾(上杉)・北条の軍法を調べ、さらには越前国・朝倉の家風を学んだとされ、その後京都へ腰を落ち着けた。

 そして、当時、松永弾正に身を寄せていた尼子十勇士の一人・横道兵庫介や弟・権允を京都へ呼び、体勢を整えていった。
【写真左】登城途中から西方を見る。
 本丸跡周辺は雑木があるため、ほとんど眺望は期待できない。このため、登城途中で部分的に視界を確認できる。

 写真は、ここから攻め入ったとされる西方の「真山城」方面を見たもの。
 残念ながら、忠山と真山城の間には「枕木山(H453m)」という山があるため、真山城は見ることはできない。



尼子勝久の擁立

  その後、尼子一族の一党であった新宮党の遺児で京都東福寺の僧侶となっていた勝久を還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立、旧尼子氏配下の者や、雑兵も含め約300余の兵を集めた。

 永禄12年(1569)、尼子再興軍は但馬に入り、地元の海賊奈佐日本助津居山城(兵庫県豊岡市津居山)参照)の船に乗り、その年5月隠岐島へ渡った。

 隠岐国では、佐々木義清の流れをくむ隠岐為清が、西郷町東郷の宮田(くんだ)城(西郷湾の北東部)へ招き入れ、勝久らの尼子再興に協力した。ただ、この為清は後に、弟清実の恩賞が自らのものより多いことを不服として、再興軍に反旗を翻すことになる。
【写真左】登城道
 この位置は、主郭部の東側面にあたり、左側は主郭の切崖にあたる。道路右も切り立った天然の要害である。

 この道を北に進み、北端部で左に回り込み、今度は西側の道を進むと南端部の郭(中継所)に行き着く。


勝久・鹿助忠山城へ拠る

 それから1か月余の永禄12年(1569)6月23日、尼子勝久・山中鹿助ら再興軍は隠岐国から渡海し、出雲国島根半島の千酌浜に船を着けた。そしてそこから南方に聳える忠山に入った。

 この忠山城は写真でも分かるように、島根半島東部の中ではもっとも屹立した山城で、この位置から南方に中海を隔てた月山冨田城方面を俯瞰できる絶好の山である。
【写真左】北端部の中継所
 現在このような施設が建っているが、おそらく当時は北方を固める出丸のようなものがあったものと思われる。

 施設があるため、当時の規模は不明なものの、三角形状で、幅は15m、奥行は30m以上はあったのではないだろうか。


 忠山城に拠った勝久らは、ここで檄を飛ばし尼子再興の支援者たちを集めた。このとき当城に馳せ参じた主な者は以下の通り。

  1. 大庭の大宮司・秋上三郎左衛門綱平、その子・伊織介久家ら200騎
  2. 森脇市正久仍(ひさより)、横道源介高光、疋田右近・同右衛門尉、原田孫四郎(孫六)、松田兵部少輔、熊野兵庫助・同次郎、馬田兵庫助・同長左衛門、桜井與八、朝山六郎、田原右兵衛他700騎
  3. 大山教悟院の精兵300余騎
  4. 中井平三兵衛・同助右衛門、加藤彦四郎、寺本市丞、進左吉兵衛、高尾右馬允・同宗兵衛、目加田采女正・同弾右衛門、福山次郎左衛門・同孫次郎、長森吉内、日野一族、熊野新右衛門、池田與三郎、相良助太郎、比田十郎、徳吉孫九郎等500騎
  5. 隠岐為清をはじめとする隠岐勢300余騎
  6. その他1000余騎
合計すると約3000余騎となり、しかも忠山に拠ってから、わずか5日後にこれだけの者が馳せ参じたことは驚きである。おそらく隠岐にあったときから、すでに鹿助らが出雲国にいる旧臣らに対し連絡をとっていたのだろう。
【写真左】NTTの中継所
 南端部に設置されたメインの中継所。
 周囲は柵が巡らされ、入ることはできない。建物の上に鉄塔が建っている。

 おそらく、この中継所は南端部の郭として2,3段のものがあったのだろう。


 忠山城に拠ってから最初に仕掛けたのは、当城から西方15キロにあった毛利方の多賀左京亮の立て籠もる真山城(新山城)である。この戦いは同月下旬といわれているので、忠山城に拠ってからすぐに行われたものだろう。

 再興軍はあっという間に真山城を落とし、勝久らは一旦末次に土居を構えて砦を築いたという。
なお、真山城については、次稿で取り上げる予定である。
【写真左】主郭に向かう道
 中継所の北側の柵に沿って東に向かうと、途中から北に上る道が見える。

 これが主郭につながるもので、案内板などはまったくないため、ほとんどの人が中継所を見て、遺構が消滅しているように思うかもしれない。
【写真左】登城道
 主郭までは30m前後と距離は短い。
登城したのが夏の終わりといっても、暑い時期であったため、下段の写真でも分かるように、雑草が繁茂して、遺構の確認が今一つだった。
【写真左】主郭・その1
 幅10m、奥行20m程度の規模で、ご覧の通り。
【写真左】主郭・その2
 一角にご覧のような石碑が祀られている。
【写真左】北側の一段目の腰郭
 主郭から北に向かって、次第に細い尾根状が続くが、最初に1m程度の段差を持たせた郭が残る。
【写真左】北側2段目の腰郭
 さらにもう一つの郭が残る。
 残念ながら、そこからさらに北に向かおうとしたが、あまりの雑木・藪コギで断念した。
【写真左】忠山城から南方に中海・大根島を見る。
 中央に見える島が大根島で、さらにその向こうの右側を進むと、尼子氏の居城・月山冨田城につながる。
【写真左】大根島から忠山城を見る。
 2012年2月12日に撮影したもので、当山の優美な山容はこの大根島からの眺めが最もいい。

【写真左】忠山城から伯耆大山を見る。
 左側に聳えるのが大山。その麓は米子の街並み。
【写真左】南方から忠山城遠望
 林道を南に降って、国道431号線付近から見たもの。










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