2019年6月29日土曜日

南山田城(兵庫県姫路市山田町南山田)

南山田城(みなみやまだじょう)

●所在地 兵庫県姫路市山田町南山田
●高さ 48m
●形態 丘城
●築城期 戦国期
●築城者 後藤基国
●城主 後藤又兵衛基次
●遺構 土塁・郭
●備考 福田寺、児童公園
●登城日 2016年10月9日

解説
 前稿播磨・春日山城(兵庫県神崎郡福崎町八千草) でも少し触れたように、南山田城は後藤又兵衛が居城としていた丘城で、春日山城から南へ3キロ余り向かった姫路市山田町南山田に所在する。
【写真左】後藤神社
 南山田城は現在北側に竹藪を残し、南側が公園となっている。

 写真はその公園の西端部に祀られている後藤神社で、このほか、下段でも紹介しているように藪の中にも祠が祀られている。


現地の説明板より

❝南山田城跡
 約100m四方のこの小丘は、南半分が整地されて児童公園になっているが、北側から東側の藪には三段の平坦面と、周囲に土塁跡も認められる。

 ここは後藤又兵衛基次の居城「南山田城跡」といわれ、基次の父基国が16世紀後半に築いたと伝えられる。父基国は、三木城主別所氏の家臣、又兵衛基次は「槍の又兵衛」という異名をもつ安土桃山時代の著名な武士で、黒田孝高・長政父子に仕えて重臣となるが浪人し、元和元年(1615)大阪夏の陣に豊臣方として戦死した。
 
 平成18年8月 姫路市教育委員会
       姫路市文化財保護協会”
【写真左】公園(南山田城)に登る階段
 北側を走る県道117号線(豊富北条線)から枝分かれする狭い道をおよそ200mほど進むと、こんもりとした丘が見える。

 その西側を進むと左手に階段があり、そこに上がると南山田城(公園)にたどり着く。
【写真左】西側斜面
 右上に冒頭で紹介した後藤神社がみえる。現在は西から南へ回り込み東側へと囲むような道がついているが、当時はこの奥の北側も含めた区域が城域だったもの思われる。
【写真左】南側から見る。
 手前がグランド状の公園で、奥の方は竹などや樹木などが生えている。
 おそらくグランドになっていた箇所が館跡だったのだろう。
【写真左】説明板
 後藤神社の脇には前段で紹介している説明板が設置されている。
 このあと、竹藪の方に入ってみる。
【写真左】土塁
 公園側の西側から向かうと、すぐに土塁が確認できる。
【写真左】土塁の左に小郭
 遺構として整備されているのはここだけで、小郭が残る。
【写真左】土塁天端
 御覧の通り中に入るとほとんど竹林状態で明瞭な写真でないが、高低差は確認できる。
【写真左】土塁で囲まれた郭
 先ほどの土塁から今度は中側の方へ降りると郭状となっている。
 この後中央部から北東本面へ竹をかき分けながら進む。
【写真左】北側の切岸
 ここでほぼ垂直に切岸となっている。なお、下に降りると東西に道路が走っているが、その北側にある宅地付近も元は城域だった可能性がある。
【写真左】中央部
 この箇所の郭は一番大きく、削平が良好である。
【写真左】祠
 外にある後藤神社とは別のもので、竹藪の中に祀られている。
写真左】児童公園側に降りる。
 左側が遺構部のある竹藪。
【写真左】公園南側斜面
 御覧のように、南山田城及び児童公園は周囲の住宅地より3~5m前後高くなった位置にあり、当時はこの住宅地周辺にも土塁もしくは空堀のようなものがあったのかもしれない。




後藤基国

 南山田城の築城者は、前稿春日山城で述べたように播磨・後藤氏で、後藤又兵衛基次の父・基国といわれている。基国は三木城(兵庫県三木市上の丸) の城主・別所氏の家臣といわれている。基国に関する詳細な史料はないものの、彼が仕えたのは第4代安治のころではないかと思われるがはっきりしない。
【写真左】福田寺山門
 当院の縁起などは分からないが、天台宗であることから南山田城が築城される前から所在していたものと思われる。




 南山田城の近くには天台宗・林光山 福田寺という寺院があり、その本堂裏に又兵衛基次の父母の供養塔が祀られている。残念ながら件の供養塔には基国銘の筆耕はないが、おそらく基国夫妻のものだろう。
【写真左】福田寺より南山田城を遠望する。
 福田寺は南山田城から南西方向におよそ150mほど向かった位置にある。
 写真右側には「後藤又兵衛顕彰碑」が建立されている。
【写真左】後藤又兵衛父母の供養塔
 本殿の裏に進むと又兵衛の父母の供養塔が祀られている。
 なお、当院には又兵衛の位牌が残されているとのことだが、又兵衛は大坂夏の陣で討死しているので、その後又兵衛に関わった人物が供養したものだろう。


後藤又兵衛基次と妻子の墓

 ところで、又兵衛の墓としては、奈良県宇陀市の薬師寺、愛媛県伊予市の長泉寺、大分県中津市耶馬渓町に建立されているものなど多くのものがあるが、これらとは別に又兵衛の妻と、彼の遺髪を埋めた墓が鳥取市の景福寺に残されている。
写真左】景福寺
所在地 鳥取市新品治町135

参拝日 2014年6月3日






 又兵衛が大坂夏の陣・小松山合戦で討死すると、彼の妻は遺髪を胸に遺児・為勝(当時2歳)を連れて岡山の実家三浦家に戻った。三浦家は岡山城主池田光仲の家臣で、寛永9年因幡・伯耆両国を領すると共に鳥取市へ移ることになる。
【写真左】又兵衛らの墓
 左:妻の墓
 仙洞院保年寿延大姉

 中:又兵衛の墓
 西照院夏安道蓮禅定門

 右:為勝(嫡子)
 桂雲善香居士



 主君池田氏の城代家老荒尾嵩就もこの時一緒で、荒尾家の菩提寺とされるのが景福寺で、当院も併せて岡山から鳥取に移った。そして、又兵衛の妻をはじめとする後藤一族も三浦家に従い、当院(景福寺)を菩提所とした。
 その後、後藤家は子孫が当地に9代まで続いたといわれる。



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