播磨・春日山城(はりま・かすがやまじょう)
●所在地 兵庫県神崎郡福崎町八千草
●別名 飯盛山城
●高さ 197.8m(比高100m)
●築城期 建武年間
●築城者 後藤三郎左衛門尉基明
●城主 後藤氏等
●形態 連郭式山城
●登城日 2016年10月9日
◆解説(参考資料 HP『しそうSNS』等)
播磨・春日山城(以下「春日山城」とする)は、兵庫県の福崎町に所在する山城で、中国自動車道と播但連絡道路が交差する福崎ICから東南へおよそ3キロ余り向かった飯盛山に築かれている。
【写真左】春日山城遠望
西側から見たもの。
春日山城は飯盛山という南北800m×東西500mの独立峰に築かれている。
遺構としては主として最高所を中心とする周囲に主だったものが残るが、史料によっては、北峰の最高所(H:125m)及び南峰の最高所(H:140m)にも出丸的機能があったといわれている。
現地の説明板より
‟春日山城跡(かすがやまじょうあと)
春日山城は、建武年間に築城され、播磨の守護赤松氏の幕下であった後藤三郎左衛門尉基明が初代城主として、現在の福崎町全域と姫路市、加西市の一部を統治していました。
応仁の乱には、赤松政則の部下として出陣し、山名の軍勢を破って軍功を立てました。
天正6年(1578)9代目後藤伊勢守基信の時に、中国征伐に向かう羽柴秀吉によって城は攻め落とされました。
落城してから長い年月を経た今日、城跡が残るのみです。
近畿自然歩道 環境庁・兵庫県”
【写真左】八千種自然活用村 案内図
春日山城の南麓にはキャンプ場や運動公園といった施設があり、ここから主郭へ向かう道が描かれている。
播磨・後藤氏
春日山城は別名飯盛山城ともいわれ、すでに同名の市川・飯盛山城(兵庫県神崎郡市川町屋形) の稿で挙げているが、両城とも南北朝期赤松氏の被官がかかわった城郭である。
築城者は後藤三郎左衛門尉基明という。後藤氏は元々利仁流藤原氏の公則が備後守になったとき後藤氏を名乗ったという。基明は南北朝期赤松円心(鶴居城(兵庫県市神崎郡市川町鶴居)参照) のもとに属し、数々の戦功を挙げた。建武の新政がとん挫した折、尊氏が後醍醐天皇と敵対した際、基明は尊氏に同調した。このころ春日山城が築城されたといわれる。
【写真左】登城開始
車をキャンプ場側の空き地に停め、ここから向かう。
この位置から主郭まではおよそ600mと書かれているが、実際にはもう少し距離があったように記憶している。
戦国期の天正6年(1578)、9代目城主後藤基信のとき、羽柴秀吉に攻められ落城したという。天正6年といえば、同国の上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)が落城した年に当たり、このころ後藤氏は毛利氏に属していたと推察される。
ところで、当城の最期の城主であった後藤基信の後裔には後藤又兵衛が繋がる。播磨・後藤氏の系譜については諸説あり、又兵衛は基信の弟の嫡男、すなわち甥に当たると考えられる。
彼については、又兵衛桜(奈良県宇陀市大宇陀本郷) 、益富城(福岡県嘉麻市中益) などですでに紹介しているが、次稿に予定している南山田城の稿でも触れておきたい。
【写真左】最初のピーク
登城道は整備され、急傾斜では階段が設置されている。
写真は最初に出てきたピークで、おそらく南峰の出丸付近と思われる。
【写真左】堀切
先ほどのピークを過ぎると下り坂になり、そのあと平坦な道が続くが、この箇所で鞍部となる。だいぶ埋まっている状況だが、当時の堀切だろう。
【写真左】「春日城」の看板
堀切を過ぎてそのまま北に進むと、途中で北峰から設置された登城道と合流する。
その交差点から道は右(東)に向かう。
少し進むと、御覧の「春日城」の看板が設置してある。
【写真左】急傾斜の階段
先ほどの看板を過ぎると、しばらくなだらかな登坂が続き、再び階段があり、そのあたりから周囲には郭状の段が見え始める。
もっともだいぶ角が取れているため明瞭でない。
それを過ぎると、写真にあるように更に傾斜のついた階段が出てくる。
【写真左】平面図と鳥瞰図
現地に設置されていた図面で、鳥瞰図の方は管理人によって彩色したもの。
西側と東側にそれぞれ大きな竪堀があるようだが、当日は確認できなかった。
【写真左】井戸跡か
写真でははっきりしないが、3m前後の大きな窪みがあった。この辺りなら井戸として水が出てきたのだろう。
【写真左】帯郭
主郭のほぼ全周を囲繞しているが、現地の状況は御覧の通りでほとんど確認できない。
【写真左】本丸が見えてきた。
この階段を上がると頂部・本丸にたどり着く。
【写真左】本丸・その1
本丸に設置された標柱で、左へ400m降ると、「鍛冶屋・熊野神社」、手前600m「春日山キャンプ場」と記されている。
【写真左】説明板
【写真左】食糧貯蔵庫・その1
説明板の脇には「食糧貯蔵庫」という窪みが残る。
●所在地 兵庫県神崎郡福崎町八千草
●別名 飯盛山城
●高さ 197.8m(比高100m)
●築城期 建武年間
●築城者 後藤三郎左衛門尉基明
●城主 後藤氏等
●形態 連郭式山城
●登城日 2016年10月9日
◆解説(参考資料 HP『しそうSNS』等)
播磨・春日山城(以下「春日山城」とする)は、兵庫県の福崎町に所在する山城で、中国自動車道と播但連絡道路が交差する福崎ICから東南へおよそ3キロ余り向かった飯盛山に築かれている。
【写真左】春日山城遠望
西側から見たもの。
春日山城は飯盛山という南北800m×東西500mの独立峰に築かれている。
遺構としては主として最高所を中心とする周囲に主だったものが残るが、史料によっては、北峰の最高所(H:125m)及び南峰の最高所(H:140m)にも出丸的機能があったといわれている。
現地の説明板より
‟春日山城跡(かすがやまじょうあと)
春日山城は、建武年間に築城され、播磨の守護赤松氏の幕下であった後藤三郎左衛門尉基明が初代城主として、現在の福崎町全域と姫路市、加西市の一部を統治していました。
応仁の乱には、赤松政則の部下として出陣し、山名の軍勢を破って軍功を立てました。
天正6年(1578)9代目後藤伊勢守基信の時に、中国征伐に向かう羽柴秀吉によって城は攻め落とされました。
落城してから長い年月を経た今日、城跡が残るのみです。
近畿自然歩道 環境庁・兵庫県”
【写真左】八千種自然活用村 案内図
春日山城の南麓にはキャンプ場や運動公園といった施設があり、ここから主郭へ向かう道が描かれている。
播磨・後藤氏
春日山城は別名飯盛山城ともいわれ、すでに同名の市川・飯盛山城(兵庫県神崎郡市川町屋形) の稿で挙げているが、両城とも南北朝期赤松氏の被官がかかわった城郭である。
築城者は後藤三郎左衛門尉基明という。後藤氏は元々利仁流藤原氏の公則が備後守になったとき後藤氏を名乗ったという。基明は南北朝期赤松円心(鶴居城(兵庫県市神崎郡市川町鶴居)参照) のもとに属し、数々の戦功を挙げた。建武の新政がとん挫した折、尊氏が後醍醐天皇と敵対した際、基明は尊氏に同調した。このころ春日山城が築城されたといわれる。
【写真左】登城開始
車をキャンプ場側の空き地に停め、ここから向かう。
この位置から主郭まではおよそ600mと書かれているが、実際にはもう少し距離があったように記憶している。
戦国期の天正6年(1578)、9代目城主後藤基信のとき、羽柴秀吉に攻められ落城したという。天正6年といえば、同国の上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)が落城した年に当たり、このころ後藤氏は毛利氏に属していたと推察される。
ところで、当城の最期の城主であった後藤基信の後裔には後藤又兵衛が繋がる。播磨・後藤氏の系譜については諸説あり、又兵衛は基信の弟の嫡男、すなわち甥に当たると考えられる。
彼については、又兵衛桜(奈良県宇陀市大宇陀本郷) 、益富城(福岡県嘉麻市中益) などですでに紹介しているが、次稿に予定している南山田城の稿でも触れておきたい。
【写真左】最初のピーク
登城道は整備され、急傾斜では階段が設置されている。
写真は最初に出てきたピークで、おそらく南峰の出丸付近と思われる。
【写真左】堀切
先ほどのピークを過ぎると下り坂になり、そのあと平坦な道が続くが、この箇所で鞍部となる。だいぶ埋まっている状況だが、当時の堀切だろう。
【写真左】「春日城」の看板
堀切を過ぎてそのまま北に進むと、途中で北峰から設置された登城道と合流する。
その交差点から道は右(東)に向かう。
少し進むと、御覧の「春日城」の看板が設置してある。
【写真左】急傾斜の階段
先ほどの看板を過ぎると、しばらくなだらかな登坂が続き、再び階段があり、そのあたりから周囲には郭状の段が見え始める。
もっともだいぶ角が取れているため明瞭でない。
それを過ぎると、写真にあるように更に傾斜のついた階段が出てくる。
【写真左】平面図と鳥瞰図
現地に設置されていた図面で、鳥瞰図の方は管理人によって彩色したもの。
西側と東側にそれぞれ大きな竪堀があるようだが、当日は確認できなかった。
【写真左】井戸跡か
写真でははっきりしないが、3m前後の大きな窪みがあった。この辺りなら井戸として水が出てきたのだろう。
【写真左】帯郭
主郭のほぼ全周を囲繞しているが、現地の状況は御覧の通りでほとんど確認できない。
【写真左】本丸が見えてきた。
この階段を上がると頂部・本丸にたどり着く。
【写真左】本丸・その1
本丸に設置された標柱で、左へ400m降ると、「鍛冶屋・熊野神社」、手前600m「春日山キャンプ場」と記されている。
【写真左】説明板
【写真左】食糧貯蔵庫・その1
説明板の脇には「食糧貯蔵庫」という窪みが残る。
【写真左】食糧貯蔵庫・その2
春日山城の構造は単純な構成になっていることから、こうした食糧の保管場所も本丸に設けたものだろう。
ただ、単純な穴では雨水が溜まるため、途中から横に穴が掘られ、排水設備を具備していたものと思われる。
【写真左】三角点
【写真左】北西方向を俯瞰する。
中国自動車道が見える。
【写真左】北方を遠望する。
中央に見えるのは深山だろう。
【写真左】帯郭
雑掌が繁茂しているため分かりづらいが、この下に帯郭がある。
【写真左】本丸・その2
登城したのが10月だったが、草木は未だ青々と茂っていたため、遺構の写真としてはいいものが撮れなかった。
2月から3月辺りがいいかもしれない。
【写真左】竪堀
下山時に見えたもので、登城道からだいぶ離れた箇所。
【写真左】三角点
【写真左】北西方向を俯瞰する。
中国自動車道が見える。
【写真左】北方を遠望する。
中央に見えるのは深山だろう。
【写真左】帯郭
雑掌が繁茂しているため分かりづらいが、この下に帯郭がある。
【写真左】本丸・その2
登城したのが10月だったが、草木は未だ青々と茂っていたため、遺構の写真としてはいいものが撮れなかった。
2月から3月辺りがいいかもしれない。
【写真左】竪堀
下山時に見えたもので、登城道からだいぶ離れた箇所。
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