小笠原長親(おがさわらながちか)と
蟠龍峡(ばんりゅうきょう)
●所在地 島根県邑智郡美郷町村之郷1026
●探訪日 2013年11月6日
ところで、長親が下向した村之郷のある現在の美郷町の隣の町・川本町のHPでは、小笠原氏について次のように紹介している。
“ 「中世の小笠原氏」
長親、本国は信濃国。前の左級、志野二郡太守にして知行十万貫なり。 のち四国の阿波国生摩庄一郡六万八千貫、伊予国小坂五千貫知行す。
三代目亦太郎長胤の時、川本温湯の城に御在城あり。赤山葉城、石見知行のこと別所これあり。
小笠原氏の先祖は源義家の弟義光から出ていると云われ、「丸山伝記」、「石見誌」、「萩閥」などを参考、概略の検討を加えて改訂した系図を掲載。”
註)赤字は管理人
蟠龍峡(ばんりゅうきょう)
●所在地 島根県邑智郡美郷町村之郷1026
●探訪日 2013年11月6日
◆解説(参考文献等、『石見町誌(上巻)』、島根県川本町HP「中世の小笠原氏」等)
前稿でものべたように、今稿では阿波(徳島県)の重清城を築城した小笠原長親について、とりあげたい。
【写真左】蟠龍峡・その1
蟠龍峡は、山南城から南に約2キロ弱下ったところにある。
規模はさほど大きなものではないが、奇岩に囲まれた細い渓流から流れ落ちる水と、周囲の岩肌から自然に生えた樹木の色と相まって、紅葉時期になると美しい景観を醸し出す。
蟠龍峡
阿波重清城主だった小笠原長親が、その後石見国の山南城へ移ったことは、山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)や、阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)でも紹介したが、その石見の村之郷には蟠龍峡という景勝地がある。
この場所には、長親の家臣にまつわる伝承が、次のように伝えられている。
現地の説明板より
“蟠龍峡伝説
元和(1350年)の頃、この村之郷には小笠原長親という領主がいた。その家臣に玄太夫宗利という武士がいた。年若くして大器の才があり、長親は軍師として重用していた。
足利勢との戦いで、最も功績のあった宗利に長親は、恩賞として側室を与え、宗利はその女性を本妻とした。
ところが数年後、本妻は疫病にかかり、生まれもつかないほどの醜い顔になってしまった。その頃、宗利の小間使いに美しい女性がいた。宗利はその美しい小間使いに心が動き、次第に本妻を疎んじるようになった。本妻はこのことを嘆き、哀しみはしだいに恨みと化し、機を見てこの小間使いを亡き者にせんと思うようになった。
【写真左】蟠龍峡・その2
蟠龍峡を流れる宮内川から流下した水は、岩の隙間を何度も抉るように蛇行し、中国地方最大の大河・江の川へ注ぐ。
ある日、本妻は宗利と小間使いを誘い、蟠龍峡へ散策に出かけた。三人は「明境台」の岩頭で一休みすることにした。小間使いが懐から手鏡を取り出して髪のほつれを掻き上げていると、背後から本妻がしのびより小間使いを岩から突き落とした。小間使いは、鏡に映る本妻のただならぬ気配を察し、落ちる瞬間に本妻の着物の袖をつかんだので、あっという間に二人は滝壺に呑まれてしまった。
驚いた宗利が駆け寄ると、二人の女性は龍と化し、悲鳴をあげ、もつれあい争いながら落ちてゆく姿が見えた。二人の姿が消えたあとには、二人の抜け留まった髪の毛だけが松の枝に残されていた。宗利はこのことを深く嘆き悲しんだ。
【写真左】現地に設置された「蟠龍峡伝説」の説明板
蟇田(ひきた)という所まで帰った宗利は、己の罪の深さに堪えきれず、ついに自刃して果てた。
この蟇田には宗利の墓があり、その一帯にあやめの花が多いことから「あやめ塚」と呼ばれ、初夏には美しい花を咲かせている。不思議なことに、宗利の墓は、いくら立て直しても蟠龍峡の方へ傾くという。
平成20年5月 比之宮連合自治会”
【写真左】供養塔か
現地には特に標記したものはなかったが、宗利はじめ、正妻及び小間使い三人を祀った供養塔と思われる。
上掲したように、この伝説にも長親が登場しているが、ただ冒頭の元和(1350)ころという時期については、後ほど述べるように若干ずれがあると思われる。
弘安の役
ところで、件の山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)でも触れたように、小笠原長親が石見国との接点を具体的に持ったのは、この弘安の役からとされている。弘安4年(1281)5月、高麗の東路軍が対馬・壱岐に来襲し、6月には博多湾に出現、7月には大風雨となって多くの軍船が漂没、日本は辛うじて敵軍の攻撃を免れた。
この役前後、石見国沿岸の警固のため、阿波小笠原氏は石見益田の豪族益田氏の支援のためやって来ている。因みに、同国の沿岸警固のため、他国から来援した他のものとしては後に、津和野に本拠を持つことになる吉見氏などがいる。
では、長親及び阿波小笠原氏が、なぜ石見国の沿岸警固を務めることになったのだろうか。
阿波小笠原氏と益田氏の接点
長親は石見村之郷に下向したのち、沿岸警固の指揮を執った益田氏の娘を妻として迎えている。
長親の妻となった娘は、益田左衛門尉兼時の息女で美夜という。父兼時については、これまで七尾城(島根県益田市七尾)・その1、稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)、丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)、三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)などで紹介したように、御神本氏から数えて益田氏6代目の当主で、益田氏の始祖兼高の孫に当たる。そして、中国探題が石見国沿岸警固の責任者として指名した人物である。
さて、これより先立つ後深草天皇の建長元年3月23日((1249年5月14日)、寛元4年(1246)の火災から3年、京のみやこは再び大火に見舞われた。姉小路の室町から出火した火は、瞬く間に三条・八条、西洞院、京極、河東蓮華王院などを焼き尽くした。
翌建長2年4月、ときの執権北条時頼は、主だった御家人や守護らに対し、焦土と化した都の復興のための資材を送るよう命じた。そして奉行等が全国の守護職や、財力のある御家人などに触れを出し、石見では益田兼時がその命を受けた。
【写真左】益田氏累代の本拠城・七尾城
所在地:島根県益田市
兼時の指示を受けた実弟・丸茂兵衛尉兼忠(丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)参照)は、岡部・岡本の郷士、歩役200人余を従え、材木・糧米を積み、浜田市の岩崎(松原湾)から船で向かった。
【写真左】蟠龍峡・その1
蟠龍峡は、山南城から南に約2キロ弱下ったところにある。
規模はさほど大きなものではないが、奇岩に囲まれた細い渓流から流れ落ちる水と、周囲の岩肌から自然に生えた樹木の色と相まって、紅葉時期になると美しい景観を醸し出す。
蟠龍峡
阿波重清城主だった小笠原長親が、その後石見国の山南城へ移ったことは、山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)や、阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)でも紹介したが、その石見の村之郷には蟠龍峡という景勝地がある。
この場所には、長親の家臣にまつわる伝承が、次のように伝えられている。
現地の説明板より
“蟠龍峡伝説
元和(1350年)の頃、この村之郷には小笠原長親という領主がいた。その家臣に玄太夫宗利という武士がいた。年若くして大器の才があり、長親は軍師として重用していた。
足利勢との戦いで、最も功績のあった宗利に長親は、恩賞として側室を与え、宗利はその女性を本妻とした。
ところが数年後、本妻は疫病にかかり、生まれもつかないほどの醜い顔になってしまった。その頃、宗利の小間使いに美しい女性がいた。宗利はその美しい小間使いに心が動き、次第に本妻を疎んじるようになった。本妻はこのことを嘆き、哀しみはしだいに恨みと化し、機を見てこの小間使いを亡き者にせんと思うようになった。
【写真左】蟠龍峡・その2
蟠龍峡を流れる宮内川から流下した水は、岩の隙間を何度も抉るように蛇行し、中国地方最大の大河・江の川へ注ぐ。
ある日、本妻は宗利と小間使いを誘い、蟠龍峡へ散策に出かけた。三人は「明境台」の岩頭で一休みすることにした。小間使いが懐から手鏡を取り出して髪のほつれを掻き上げていると、背後から本妻がしのびより小間使いを岩から突き落とした。小間使いは、鏡に映る本妻のただならぬ気配を察し、落ちる瞬間に本妻の着物の袖をつかんだので、あっという間に二人は滝壺に呑まれてしまった。
驚いた宗利が駆け寄ると、二人の女性は龍と化し、悲鳴をあげ、もつれあい争いながら落ちてゆく姿が見えた。二人の姿が消えたあとには、二人の抜け留まった髪の毛だけが松の枝に残されていた。宗利はこのことを深く嘆き悲しんだ。
【写真左】現地に設置された「蟠龍峡伝説」の説明板
蟇田(ひきた)という所まで帰った宗利は、己の罪の深さに堪えきれず、ついに自刃して果てた。
この蟇田には宗利の墓があり、その一帯にあやめの花が多いことから「あやめ塚」と呼ばれ、初夏には美しい花を咲かせている。不思議なことに、宗利の墓は、いくら立て直しても蟠龍峡の方へ傾くという。
平成20年5月 比之宮連合自治会”
【写真左】供養塔か
現地には特に標記したものはなかったが、宗利はじめ、正妻及び小間使い三人を祀った供養塔と思われる。
上掲したように、この伝説にも長親が登場しているが、ただ冒頭の元和(1350)ころという時期については、後ほど述べるように若干ずれがあると思われる。
弘安の役
ところで、件の山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)でも触れたように、小笠原長親が石見国との接点を具体的に持ったのは、この弘安の役からとされている。弘安4年(1281)5月、高麗の東路軍が対馬・壱岐に来襲し、6月には博多湾に出現、7月には大風雨となって多くの軍船が漂没、日本は辛うじて敵軍の攻撃を免れた。
この役前後、石見国沿岸の警固のため、阿波小笠原氏は石見益田の豪族益田氏の支援のためやって来ている。因みに、同国の沿岸警固のため、他国から来援した他のものとしては後に、津和野に本拠を持つことになる吉見氏などがいる。
では、長親及び阿波小笠原氏が、なぜ石見国の沿岸警固を務めることになったのだろうか。
阿波小笠原氏と益田氏の接点
長親は石見村之郷に下向したのち、沿岸警固の指揮を執った益田氏の娘を妻として迎えている。
長親の妻となった娘は、益田左衛門尉兼時の息女で美夜という。父兼時については、これまで七尾城(島根県益田市七尾)・その1、稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)、丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)、三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)などで紹介したように、御神本氏から数えて益田氏6代目の当主で、益田氏の始祖兼高の孫に当たる。そして、中国探題が石見国沿岸警固の責任者として指名した人物である。
さて、これより先立つ後深草天皇の建長元年3月23日((1249年5月14日)、寛元4年(1246)の火災から3年、京のみやこは再び大火に見舞われた。姉小路の室町から出火した火は、瞬く間に三条・八条、西洞院、京極、河東蓮華王院などを焼き尽くした。
翌建長2年4月、ときの執権北条時頼は、主だった御家人や守護らに対し、焦土と化した都の復興のための資材を送るよう命じた。そして奉行等が全国の守護職や、財力のある御家人などに触れを出し、石見では益田兼時がその命を受けた。
【写真左】益田氏累代の本拠城・七尾城
所在地:島根県益田市
兼時の指示を受けた実弟・丸茂兵衛尉兼忠(丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)参照)は、岡部・岡本の郷士、歩役200人余を従え、材木・糧米を積み、浜田市の岩崎(松原湾)から船で向かった。
「吾妻鏡」の建長2年3月1日付で、「閉院殿造営雑掌目録」があるが、この中に二条西ノ洞院面築地造営において、所要材木20本のうち、3本を兼時が献上したとある。
このことから、この建長年間における都の復興事業に、兼時をはじめとした益田氏の主だった面々も都にしばらく滞在したのだろう。当然ながら、幕府・執権からは益田氏以外の主だった御家人・守護職らも全国から召集を請け赴いたものと考えられる。
そして、阿波国からも主だった諸将が地元の資材などを持ち込み、しばらくは常駐したものと考えられる。おそらく、このとき兼時は阿波小笠原氏と接点を持ったものと考えられ、後に弘安の役の際も、石見沿岸警固の役目を受けた兼時は、中国探題を通じて阿波小笠原氏を支援の対象者として指名したのではないだろうか。
言いかえれば、阿波小笠原氏の石見国下向は、益田氏(兼時)の意向が相当働いていたと推察されるのではないだろうか。
このことから、この建長年間における都の復興事業に、兼時をはじめとした益田氏の主だった面々も都にしばらく滞在したのだろう。当然ながら、幕府・執権からは益田氏以外の主だった御家人・守護職らも全国から召集を請け赴いたものと考えられる。
そして、阿波国からも主だった諸将が地元の資材などを持ち込み、しばらくは常駐したものと考えられる。おそらく、このとき兼時は阿波小笠原氏と接点を持ったものと考えられ、後に弘安の役の際も、石見沿岸警固の役目を受けた兼時は、中国探題を通じて阿波小笠原氏を支援の対象者として指名したのではないだろうか。
言いかえれば、阿波小笠原氏の石見国下向は、益田氏(兼時)の意向が相当働いていたと推察されるのではないだろうか。
小笠原長親
ところで、長親が下向した村之郷のある現在の美郷町の隣の町・川本町のHPでは、小笠原氏について次のように紹介している。
“ 「中世の小笠原氏」
[丸山伝記」より
小笠原氏は初代長親(1281〜1313)に始まる。
小笠原四郎長親新羅三郎(※1)義光の末孫なり
妻は藤原氏益田左衛門尉兼時の息女美夜、兼時の後家尼妙阿の子なり。
長親、本国は信濃国。前の左級、志野二郡太守にして知行十万貫なり。 のち四国の阿波国生摩庄一郡六万八千貫、伊予国小坂五千貫知行す。
三代目亦太郎長胤の時、川本温湯の城に御在城あり。赤山葉城、石見知行のこと別所これあり。
【写真左】山南城のある村之郷の集落。
江戸時代は浜田潘に属していたが、後に天領となり、昭和32年、布施村から大和村に合併し、平成16年邑智町となり、現在の美郷(みさと)町に含まれた。
現在山南城から北東に進んだ比之宮が中心地となっている。
典型的な過疎地で人口は300人余りだが、郷土の誇りを持ちながら、積極的に都会からのU・Iターン者の募集を行っている。
長親、四国より三島大明神御本地の氏神として御供、渡り給ひ、川下村に鎮座なし給ふ。此処を則ち三島大明神と祭給ふなり。この社はいま三島の童源寺といふ寺の少々下の森なり三原シメ下なり。長親法名、普照院と号す。(正和2年5月廿一日死去、長江寺過去帳)
【写真左】長江寺
所在地:島根県邑智郡川本町湯谷
石見小笠原氏第12代当主・長隆が開基した同氏菩提寺で、山号は宝重山。同院には長隆が足利義稙から拝領したといわれる「獏頭(ばくとう)」という玉枕が残る。現在のご住職は、備前の宇喜多直家の甥にもあたる津和野城の坂崎出羽守の系譜に繋がる方である。
※1 平安時代後期の武将。河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男。兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。近江国新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎と称した。
江戸時代は浜田潘に属していたが、後に天領となり、昭和32年、布施村から大和村に合併し、平成16年邑智町となり、現在の美郷(みさと)町に含まれた。
現在山南城から北東に進んだ比之宮が中心地となっている。
典型的な過疎地で人口は300人余りだが、郷土の誇りを持ちながら、積極的に都会からのU・Iターン者の募集を行っている。
長親、四国より三島大明神御本地の氏神として御供、渡り給ひ、川下村に鎮座なし給ふ。此処を則ち三島大明神と祭給ふなり。この社はいま三島の童源寺といふ寺の少々下の森なり三原シメ下なり。長親法名、普照院と号す。(正和2年5月廿一日死去、長江寺過去帳)
【写真左】長江寺
所在地:島根県邑智郡川本町湯谷
石見小笠原氏第12代当主・長隆が開基した同氏菩提寺で、山号は宝重山。同院には長隆が足利義稙から拝領したといわれる「獏頭(ばくとう)」という玉枕が残る。現在のご住職は、備前の宇喜多直家の甥にもあたる津和野城の坂崎出羽守の系譜に繋がる方である。
※1 平安時代後期の武将。河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男。兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。近江国新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎と称した。
小笠原氏の先祖は源義家の弟義光から出ていると云われ、「丸山伝記」、「石見誌」、「萩閥」などを参考、概略の検討を加えて改訂した系図を掲載。”
註)赤字は管理人
そして、源義光から小笠原長親までの系図を掲載しているが、これに基づいて整理すると次のようになる。
〈1〉長清から長親までの流れ
- 長清 信濃守、左京大夫、阿波守護(河内守護―萩閥)
⇓
- 長経 治承3年(1179)~宝治元年(1247) 弥太郎、信濃守、阿波守護
- 長房 建保元年(1213)~建治2年(1276) 阿波次郎、阿波守護、阿波池田大西城に在城(阿波小笠原本流)
- 長能 四男、信州伊那郡下條吉岡城主
- 朝光 七男、信州佐久郡大井郷大井氏を称す
※ 1.~4.(長経~朝光)は兄弟。
長房からの系譜は次の通り
- 長房
⇓
- 長種 不明
- 長景 不明
- 長直 不明
- 長親 弘安4年(1281)~正和2年(1313) 妻益田兼時女美夜、弘安沿海警固石州にて加増、村之郷に山南城を築く。川下村三島明神勧請。
〈2〉長親から長義までの流れ
- 長親
⇓
- 長宣 ⇒ 長宗 ⇒ 長隆 ⇒ 義長(三好氏を称す)
- 家長 四郎次郎、元弘2年討死(石見小笠原流)
⇓
- 長胤 又太郎、川本赤城を築く。邇摩郡宮方と戦ふ
- 長氏 太郎次郎、上野頼兼に応ず、温湯城築城
- 長義 彦太郎尾張守、川本移居
〈3〉長義以降は今稿では割愛させていただく。
ここで、先ず指摘しておきたいことは、長経と長房が兄弟の扱いとなっていることである。上掲した諸氏の生没年から計算すると、二人は30歳余りも年が離れた兄弟となる。常識的には父子とみるべきであろうが、あるいは正妻の子と、側室の子という関係、即ち異母兄弟という可能性もある。
そして、前記した諸氏の生没年のうち、長親のものが事実とすれば、長房が亡くなった建治2年から5年経ったとき、長親が出生しているので、長親は長房の子ではないことになる。とすれば、№3~5に掲げた3人のうちの誰かとなる。このうち、4.長景と5.長直については、詳細は不明だが、3.の長種の末孫は最終的に三好氏を名乗っている。
こうした点から長親の父親については不明な点が多い。
長親の石見国来住時期
さて、この件については、川本町のHPで紹介された史料とは別に、同じ石見国で旧石見町(現邑南町)時代に発行された「石見町誌(上巻)」があるが、ここでは、小笠原氏の石見国村之郷来住は、長親ではなく、長親の子家長であるとしている。
その根拠として、石見沿海防備の恩賞としての領有はあくまで、「加増」であって、本拠地ではなく、さらに
「長親自身が、四国の吉野川流域の広い豊沃な天地を捨てておいて、邑智郡の山間僻地に移住するとは考えられない」
とし、結論として
「小笠原氏の村之郷来住は、長親の子家長であり、その時期は永仁3年をあまり下らないものと訂正する」
と結論づけている。しかし、管理人としてはこの説には聊か首肯しかねる。
その理由の証左資料として挙げたいのが、冒頭の蟠龍峡の伝説である。もっとも、この説明板には長親が当地で活躍していた時代を、南北朝期の元和年間として語っている点には疑問があるが、長親の家臣(軍師)として「玄太夫宗利」なる人物が登場していることを考慮に入れれば、長親が阿波小笠原氏として初めて村之郷に入ったという説は、「丸山伝記」と同じく事実であったと思われる。
そして来住時期は、「島根県歴史大年表」(2001年発行)にもあるように、永仁3年(1295)即ち、同国津和野に吉見頼行が三本松城(津和野城)を築城した年と同じであったと考えられる。
そして来住時期は、「島根県歴史大年表」(2001年発行)にもあるように、永仁3年(1295)即ち、同国津和野に吉見頼行が三本松城(津和野城)を築城した年と同じであったと考えられる。
◎関連投稿
0 件のコメント:
コメントを投稿