阿波・重清城(あわ・しげきよじょう)・その2
●所在地 徳島県美馬市美馬町字城・東宮ノ上
●探訪日 2013年11月4日
◆解説
今稿では前稿・重清城から南東部に向かった位置にある小笠原氏ゆかりの神社を中心に取り上げたい。
【写真左】長親が勧請した八幡神社
本殿も立派なものだが、説明板にもあるように、参道・境内にある古木はいずれも見事なものが多い。
倭大国魂神社と八幡神社
重富城から東南方向へ約500m程向かった重清西小学校の道路を隔てた北側には、小笠原長親が勧請したといわれる八幡神社が祀られている。
【写真左】周辺配置図・その1
重富城から南西へ1キロ余り吉野川の川岸に設置された「四国三郎の郷」に設置されているもので、地元重清西小学校が作成したもの。
なお、同図の下段に「中鳥の渡し跡」が記されているが、近年までこの吉野川の川中に中鳥島という島があり、ここに戦国期に中鳥城という城砦があった。
当城については下記参照。
中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その1
中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その2
【写真左】周辺配置図・その2
上段左が重清城、その右に倭大国魂神社、その下に八幡神社が祀らている。
重清西小学校は同社鳥居の道を挟んだ南側に建っている。
また、その前の東西に延びる狭い道は、旧撫養街道。
現地の説明板より
“倭大国魂神社(やまとのおおくにたまのかみしゃ)
八幡神社の社叢
倭大国魂神社は、延喜式式内社の倭大国玉玉神・大国敷神(二座1社)にも比定されている古代からの神社であり、中世には重清城主の小笠原氏に崇敬された。
【写真左】倭大国魂神社
下の八幡神社の左側から階段があり、そこへ登っていくが、かなり傾斜のきつい階段だ。
八幡神社は、鎌倉時代末期に小笠原長親が重清城を築いた時に、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、源氏であった小笠原氏の守護神・武神として祭られ、明治には郷社となり、現在も重清の村人たちの氏神、鎮守の神様として崇敬されている。
【写真左】八幡神社・その1
八幡神社と、109段の石段で結ばれる大国魂神社の境内は、昼なおくらき、うっそうとした森(社叢)である。樹齢数百年、太さ5~6mのクスの巨樹をはじめ、ムク、エノキ、カヤ、ケンポナシ、ナギ、ウラジロガシ、コルククヌギ、ヤブツバメ、アカメガシワ、ヒサカキ、シイカシなどの常緑広葉樹と落葉広葉樹が混生し、中間温帯林と暖温帯林の接点をなす樹相をみせていて、樹林の美しさだけでなく学術的にも貴重である。”
【写真左】八幡神社・その2
このほか、上記2社とは別に近くには「八幡古墳群」といわれた6カ所の古墳群も点在し、6世紀後半の円墳などがある。
また、八幡神社入口には鳥居があるが、この手前を東西に走る細い道路は、撫養街道(川北街道)の旧道といわれ、中世から近世にかけてこの道が阿波から伊予、土佐などに繋がる街道だったといわれている。
重清という地名
ところで、当城が所在する重清(しげきよ)という地名だが、一見すると個人名の名称にも似ている。阿波小笠原氏の始祖は、長清(ながきよ)という人物だが、なんとなく長清の名前が関わっているようにも見える。もちろん、前稿でも述べたように、長清以降の系図には「重清」なる人物名は記録されていないが…。
小笠原氏から小笠氏へ
この日参拝した折、地元の方から聞いた話だが、当地を治めた小笠原氏が、その後三好氏などに替わり、小笠原という姓を持つ人がほとんどこの地にいなくなってしまったという。
【写真左】奉納者石柱
奉納者として小笠姓の名が見える。
しかし、伝承では小笠原という姓はその後、下の「原」の文字のみ消して、「小笠」という姓を名乗る一族が残ったという。
なぜ、「小笠原」姓が「小笠」という姓に替わらざるを得なくなったのか、理由は分からない。
阿波小笠原氏がその後三好氏などに移っていった経緯を考えると、単純に小笠原氏がその後土着して、当地名である三好を名乗って三好氏となったとはいえないかもしれない。
長親について
さて、本稿では重清城の築城者である小笠原長親について述べる予定にしていたが、石見小笠原氏の始祖でもあったこともあり、次稿で改めて紹介したい。
●所在地 徳島県美馬市美馬町字城・東宮ノ上
●探訪日 2013年11月4日
◆解説
今稿では前稿・重清城から南東部に向かった位置にある小笠原氏ゆかりの神社を中心に取り上げたい。
【写真左】長親が勧請した八幡神社
本殿も立派なものだが、説明板にもあるように、参道・境内にある古木はいずれも見事なものが多い。
倭大国魂神社と八幡神社
重富城から東南方向へ約500m程向かった重清西小学校の道路を隔てた北側には、小笠原長親が勧請したといわれる八幡神社が祀られている。
【写真左】周辺配置図・その1
重富城から南西へ1キロ余り吉野川の川岸に設置された「四国三郎の郷」に設置されているもので、地元重清西小学校が作成したもの。
なお、同図の下段に「中鳥の渡し跡」が記されているが、近年までこの吉野川の川中に中鳥島という島があり、ここに戦国期に中鳥城という城砦があった。
当城については下記参照。
中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その1
中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その2
上段左が重清城、その右に倭大国魂神社、その下に八幡神社が祀らている。
重清西小学校は同社鳥居の道を挟んだ南側に建っている。
また、その前の東西に延びる狭い道は、旧撫養街道。
現地の説明板より
“倭大国魂神社(やまとのおおくにたまのかみしゃ)
八幡神社の社叢
倭大国魂神社は、延喜式式内社の倭大国玉玉神・大国敷神(二座1社)にも比定されている古代からの神社であり、中世には重清城主の小笠原氏に崇敬された。
【写真左】倭大国魂神社
下の八幡神社の左側から階段があり、そこへ登っていくが、かなり傾斜のきつい階段だ。
八幡神社は、鎌倉時代末期に小笠原長親が重清城を築いた時に、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、源氏であった小笠原氏の守護神・武神として祭られ、明治には郷社となり、現在も重清の村人たちの氏神、鎮守の神様として崇敬されている。
【写真左】八幡神社・その1
八幡神社と、109段の石段で結ばれる大国魂神社の境内は、昼なおくらき、うっそうとした森(社叢)である。樹齢数百年、太さ5~6mのクスの巨樹をはじめ、ムク、エノキ、カヤ、ケンポナシ、ナギ、ウラジロガシ、コルククヌギ、ヤブツバメ、アカメガシワ、ヒサカキ、シイカシなどの常緑広葉樹と落葉広葉樹が混生し、中間温帯林と暖温帯林の接点をなす樹相をみせていて、樹林の美しさだけでなく学術的にも貴重である。”
【写真左】八幡神社・その2
このほか、上記2社とは別に近くには「八幡古墳群」といわれた6カ所の古墳群も点在し、6世紀後半の円墳などがある。
また、八幡神社入口には鳥居があるが、この手前を東西に走る細い道路は、撫養街道(川北街道)の旧道といわれ、中世から近世にかけてこの道が阿波から伊予、土佐などに繋がる街道だったといわれている。
重清という地名
ところで、当城が所在する重清(しげきよ)という地名だが、一見すると個人名の名称にも似ている。阿波小笠原氏の始祖は、長清(ながきよ)という人物だが、なんとなく長清の名前が関わっているようにも見える。もちろん、前稿でも述べたように、長清以降の系図には「重清」なる人物名は記録されていないが…。
小笠原氏から小笠氏へ
この日参拝した折、地元の方から聞いた話だが、当地を治めた小笠原氏が、その後三好氏などに替わり、小笠原という姓を持つ人がほとんどこの地にいなくなってしまったという。
【写真左】奉納者石柱
奉納者として小笠姓の名が見える。
しかし、伝承では小笠原という姓はその後、下の「原」の文字のみ消して、「小笠」という姓を名乗る一族が残ったという。
なぜ、「小笠原」姓が「小笠」という姓に替わらざるを得なくなったのか、理由は分からない。
阿波小笠原氏がその後三好氏などに移っていった経緯を考えると、単純に小笠原氏がその後土着して、当地名である三好を名乗って三好氏となったとはいえないかもしれない。
長親について
さて、本稿では重清城の築城者である小笠原長親について述べる予定にしていたが、石見小笠原氏の始祖でもあったこともあり、次稿で改めて紹介したい。
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