2021年11月16日火曜日

石見・赤城(島根県邑智郡川本町大字川本(城山)

 石見・赤城(いわみ・せきじょう)

●所在地 島根県邑智郡川本町大字川本(城山)
●別名 赤城山城
●高さ 391m(比高90m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 小笠原長胤
●城主 小笠原長氏
●遺構 郭・堀
●登城日 2017年4月3日

◆解説(参考資料 「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」井上寛司編集責任・倉恒康一編集協力、川本町・川本町教育委員会発行。「石見町誌上巻」等)
 
 石見・赤城(以下「赤城」とする。)は、島根県川本町にあって、以前紹介した温湯城から北東方向へおよそ1.5キロほど向かった標高391mの城山山頂部に築かれている。 
   赤城は、温湯城の城主小笠原氏が温湯城を築く前に築いたといわれる。
【写真左】石見・赤城遠望
 川本町の西を流れる江の川が支流・三谷川と合流する地点から見たもので、右側の谷を隔てた会下川沿いには温湯城が控える。
  

「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」

 ところで、本年(2021年)の2月、石見(島根県)の川本周辺部を治めていた石見小笠原氏関連について、古文書・古記録などを蒐集・整理し、要約した史料集「中世川本・石見小笠原氏関係史料集」が発刊された。
 編者責任者は島根大学名誉教授の井上寛司氏、協力者は島根県古代文化センターの倉恒康一氏で、発行は川本町及び同町教育委員会である。
 同集では元暦元年(1184)から慶長5年(1600)の期間における記録を主としているが、江戸期に残るものも含まれている。
【写真左】中世川本・石見小笠原氏関係史料集
令和3年2月26日発行
編集 川本町教育委員会
発行 川本町・川本町教育委員会
定価 5,000円(税込)
印刷 佐々木印刷株式会社



 発刊のきっかけとなったのは、2015年当地(川本町)で行われた「小笠原サミット」で講師として招かれた井上氏が、同町教育委員会に対し小笠原氏の史料集刊行を懇願されたことに始まる。これを受けて同町行政当局でも積極的に取り組むこととなり、今回の運びとなった。
【写真左】石見・赤城遠望
 この写真は、江の川の東岸木地原地区から見上げたもので、南方に聳える。




 
 石見小笠原氏については、すでに温湯城で紹介しているが、管理人の手元にある小笠原氏関係の資料は極めて少なく、限定したものしかなかった。これまでアップしてきた城郭(山城)も、本来はこうした史料集などに依拠したものを基にして披瀝しなければならないが、実際には二次史料や、伝承などによった形式となることが多い。
【写真左】石見・赤城遠望
 麓から狭く曲がりくねった農道を登って行くと畑野地区というところに出る。この辺りで標高300m前後となる。

 現在でも数軒の家が点在し、田畠が維持されている。高所の割には田畠の規模が大きい。小笠原氏がこの地に赤城を築こうとした際、麓の狭隘な谷間よりこの地が住みやすいと思ったのかもしれない。
 写真は畑野地区から南西方向に見たもの。


 同史料は、発刊にこぎつけるまで足掛け6年かかっている。調査研究の対象が中世史の中では大族でもなく、戦国期にはほとんど没落していったような石見小笠原氏は、史料の収集からして困難を極めたものであったと思われる。このことから、筆舌に尽くしがたい地道な根気と探求心がなければできない作業であったことは想像に難くない。あらためて上梓に携われた井上氏はじめ関係者に敬意を表したい。
【写真左】登城口付近
 民家の脇の狭い道を車で登って行くと、右側に電波塔の施設があり、左側に「城山・赤城山」と記された標柱が建っている。


石見小笠原氏系図

 さて、本稿ではこの史料集を基本にしながら、石見小笠原氏の系図・系譜について少し触れておきたい。ここでは同氏の系図として下記の4点のものが載っている。
  • №507 小笠原家系図1(志賀槙太郎氏所蔵文書・東大影写
  • №508 小笠原家系図2(閥閲録81 小笠原友之進)
  • №509 石見小笠原氏系図(内荻英一氏所蔵文書・県図謄写
  • №510 清和源氏小笠原系図(物部神社文書・県図謄写
 同集ではこのほかにも小笠原氏系図関連のものがあるとしているが、おそらく4点とさほど大きな違いがないため割愛されているかもしれない。
 この4点の中で最も分かりやすいと思われるのが、№509と№510のもので、継嗣を繋ぎ線で結んだ一般的な形式となっている。

【左図】石見小笠原氏系図より
 同系図の一部から抜粋転記したもの。


 先ず№509で見ると、阿波国三好郡池田ニ移封された小笠原長房の子・長親が、石見小笠原氏の始祖としているが、添書きに「阿波国麻生荘ヲ領ス、細川氏四国ヲ領スルニ及ビ石見国村の郷ニ移ルト記録ニ在レトモ甚疑ヲ存ス」とある。

 また、長親を継いだのは家長とし、その跡を長胤が継ぐが、これにも添書きで「誤テ石見ニ移封セラレシ祖ナルヘシ、南北朝ノ戦足利氏ニ属ス、温湯城ヲ築キ桧下ニ移ル、法名ヲ円通院ト号ス」と記されている。

【左図】清和源氏小笠原系図
 同系図の一部から抜粋転記したもの。


 これに対し、№510は、小笠原氏元祖(加賀美小次郎)である小笠原長義の子が長親としている。
 
 そして、この長親が石見小笠原氏始祖であることは№509と同じである。
 添書きには「始石見国住屋敷村之郷、又太郎、法名普照院殿」とある。

 長親の継嗣も№509と同じで家長とし、添書きに「四郎次郎、法名禅林院殿」とある。

 そしてその跡を継ぐのも同じく長胤となっているが、添書きで「初而河本赤山城温湯築之、兼領迩摩郡、次郎太郎、或又太郎、或有次郎、法名円通院」とある。

赤城・温湯城の築城

 温湯城の稿でもすでに触れているが、上掲した二つの小笠原氏系図からも石見小笠原氏の始祖は「長親」であり、石見に下向したときに最初に入ったのが村之郷(山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)参照)であり、2代目家長(長家)の代までこの地を本拠としていく。

 そして3代目の長胤に至ると、村之郷から西へおよそ20キロ余り向かった江の川の支流・会下川北方に赤城、しばらくして南岸に温湯城を築いた。なお、温湯城の築城者を長胤の跡を継いだ長氏とするものもあるが、おそらくこれは親子2代にわたって築城していった流れであったと考えられる。その後、赤城は温湯城の支城としての役割を果たしていった。
【写真左】出丸か
 登城口から坂道を登って行くと、先ほどの施設と関連するものが右側にある。
 敷設された際周囲が削平されているようだが、もともとこの位置に出丸のようなものがあったのではないかと思わせる。


縄張り

 赤城は標高391mの高さを持つ独立峰の頂部に築かれ、主だった遺構としては、南北線を軸とする長径30m前後、短径10m前後の郭を主郭とし、その北東部に弓型の竪堀、西側には3条の堀切を連続させ、更に西に向かって腰郭が2段ほど続く。その周囲には現在無線中継所などが建っているため、同施設敷設の際、残った遺構は改変された可能性が高い。
【写真左】切岸
 本丸方面に向かう途中の位置から見たもので、急峻な崖となった箇所が見える。
【写真左】本丸方面に向かう。
【写真左】堀切
 本丸に向かう途中の道で2,3か所の鞍部が認められる。おそらく何状かの堀切の跡と思われる。

【写真左】傾斜が一段と厳しくなる。
 途中から急傾斜となり、本丸が近いことを予感させる。
【写真左】本丸にたどり着く。
 息が荒くなり出したころ、本丸に着いた。
【写真左】本丸北側
 北側というより北西側といった方がよいかもしれないが、本丸のうち北側が少し低い。
【写真左】休憩小屋
 本丸のほぼ中央部に御覧の建物が建っている。奥が南方向となる。
【写真左】さらに南に進む。
 予想以上に奥行があり、長径25m前後、幅は8m前後の規模。
【写真左】赤城東麓の畑野地区が見える。
 奥の山並を越えると、小笠原氏始祖の長親、長家などが最初に下向した村之郷(現:美郷町)に繋がる。
【写真左】三角点
【写真左】川本の街並み
 この日は少し霞んでいたせいか、北西方向を俯瞰すると江の川沿いに川本の街並みがうっすらと見える。
 なお、この視界には温湯城は入っていないが、画面の左側になる。
【写真左】南側
 南端部近くまで行くと、次第に下がり始めている。
【写真左】切岸
【写真左】堀切
 本丸から下山する途中に確認できた堀切で、少し埋まっている。
【写真左】本丸直下
 本丸を折りて登り口に向かわず、北西方向に向かうと御覧の施設があるが、この辺りは出丸があったのではないかと思われる。
【写真左】鉄塔側から本丸を遠望
 さらに先に進むと御覧のような鉄塔があり、そこから振り返って本丸を見る。

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