2021年11月22日月曜日

伊予・宇多城(愛媛県越智郡上島町弓削久司浦)

 伊予・宇多城(いよ・うたじょう)

●所在地 愛媛県越智郡上島町弓削久司浦
●高さ 50m(比高40m)
●形態 丘城
●遺構 郭等
●築城期 不明(鎌倉初期か)
●築城者 宇田源次兵衛明利
●城主 宇多氏
●登城日 2017年4月5日

解説(参考資料 『日本城郭体系』第16巻等)
 伊予・宇多城(以下「宇多城」とする。)は、前稿の備後・長崎城(広島県尾道市因島土生町)がある因島の南東に浮かぶ弓削島に所在する丘城で、同島の最北端部久司浦に築かれた城郭である。
【写真左】宇多城遠望
 西側から見たもの。なお、写真に見える道路は弓削島循環線で、同島の外周部を巡回できるルートとなっている。



現地の説明板より

❝宇多城跡(城山)と火山
 中世の頃、伊予国壬生川(現在の西条市)から来島した宇田源次兵衛源明利という武将が、弓削島北端の久司浦に宇多城(宇田城)を築いたと伝えられています。

 宇多城のあった山は城山といわれ、城を中心に東には駒ヶ鼻、北には馬立ノ鼻、西には後(うしろ)、南には腹城(ふくしろ)と四方に要害を持っていました。
【写真左】弓削島・佐島のガイドマップ
 因島から直接弓削島に向かうフェリーがあるようだが、この日は前稿の長崎城のある因島からフェリーで生名島に渡り、そこからそのまま車で生名橋を渡り佐島に入り、さらに弓削大島を使って弓削島に着いた。

 このガイドマップは弓削島のフェリー乗り場駐車場付近にあったものと記憶しているが、左方向が北を示す。


 江戸時代になると、城山の北に並んだ火山には烽火台がありました。
 鯨池の東、宇多城跡の西南麓には田頭屋敷と呼ばれる場所があり、宇田氏(後の田頭氏)の居館があったと伝えられています。
 そこには、田頭井戸といわれる水場や供養塔である板碑がみられます。
    上島町教育委員会❞
【写真左】宇多城の位置を示す。
 なお、この図には示されていないが、宇多城の位置から下方(西)にある大森神社の後背の丘には久司浦城という砦形態の城郭もあった。




宇田源次兵衛源明利

 宇多城の築城者は宇田源次兵衛源明利といわれる。宇多城の東麓に東泉寺という寺院が建立されているが、この寺院には「東泉寺温知録」という史料が残されている。これにによれば、承元年間(1207~1211)に、河野家武将宇田源次兵衛源明利という武将が当地に来島したといわれる。

 東泉寺温知録では、宇多源ヱ門源ノ明利と記され、持仏薬師如来像を奉持、この地に堂宇を建立し、明利山宗参寺と命名した、とある。
【写真左】鯨池公園
 宇多城方向に歩いていくと、途中で右手に公園が見える。きれいな花をつけた木々が池を囲んでいる。
 宇多城時代からあった池(堤)かもしれない。


 この時代(承元年間)は土御門・順徳天皇の代で、後鳥羽上皇の院政期となり、鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時であったが、このころから次第に不穏な動きが始まる。
 特に地方に在っては、諸国の国衙・守護人の怠慢により群盗が各地で蜂起したため、幕府は守護職補任の下文などを提出させ守護を戒めている。

 おそらくこのことから伊予守護職を与えられなかったものの、同国の御家人を統括する強大な権限を持っていた河野氏などもこの幕府の命に従い、群盗防衛のため、明利を弓削島に差し向けたのだろう。
【写真左】宇多城が見えてきた。
 周辺部にはミカン畑が広がる。
 奥には左手に宇多城の説明板が設置されている。(下の写真参照)



 その後の宇多氏の動きは不明だが、主君であった河野氏(通信)は、承久の乱の際、後鳥羽上皇に与し、敗れたのち奥州に配流され出家している。

 しかし、河野氏のうち幕府方に与した通信の子・通久がかろうじて河野家を継いでいるので、宇多氏も弓削島に宇多一族の命脈を繋いでいったものと思われる。

 このため、江戸期に至ると宇多氏の後裔とされる田頭家の三代目源助の次男慶達が、法身して禅僧となり、臨済宗東福寺派に帰依し東泉寺を創建している。おそらくこの東泉寺の場所は、宇多明利が最初に建立した宗参寺だったと思われる。
写真左】説明板
 以前にも説明板があったようだが、劣化したため新しく取り付けられた。







遺構

 以前には宇多城の北側に簡単な要図(縄張図)を付した説明板があったらしいが、新しくした説明板にはその図はなく、冒頭の内容を記した説明板しか立っていない。

 『日本城郭体系 第16巻』によれば、「直線連郭式で、その中央部に六角形の半面を持つ本丸があり、最近まで直径1mに及ぶ老松が競い茂っていた。約1キロの海を隔てて、対岸に因島美加崎城を望見する。本丸から少し離れた二の丸らしい所に古い石垣の一部が残っている」
 と書かれている。
【写真左】奥に入った道
 弓削島循環線から途中で左手に分かれる道があり、そこからしばらく進んだ箇所。
【写真左】北側の道
 既に城域に入っていると思われるが、宇多城を示す標柱などはない。
 左手の斜面を上がると本丸にたどり着くと思われるが、それらしき道が見つからない。
【写真左】段になっている。
 おそらくこの辺りが本丸直下と思われ、帯郭状の遺構が確認できる。

 なお、登城前に地元の御婦人に宇多城周りの山には、鳥獣対策として猪捕獲用のワナなどがしかけてあると聞いていたので、安全のためこれ以上踏み込まないことにした。
【写真左】石垣・その1
 宇多城時代のものか、近世のものか判然としないが、全体に竹林など繁茂し藪化しているので、おそらく宇多城時代のものと思われる。
【写真左】石垣・その2
 さらに右方向のもの。
【写真左】海岸部に出た。
 ぐるぐる回っているうちに、北側の海岸部に出た。
【写真左】振り返って見る。
 再び元の道に戻る途中から見たもので、中央からやや左の部分が宇多城。
【写真左】下城途中から久司浦の集落を見る。
 奥に見える海は弓削瀬戸で、対岸には因島が見える。
【写真左】大森神社
 久司浦の北側に祀られているもので、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を主祭神とし、貞享4年に建立された。
 写真の奥に見える小丘が冒頭で紹介した宇多城の支城とされる久司浦城。


 なお、宇多城及び宇多氏と所縁の深い東泉寺は残念ながら探訪していない。


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