水生城(みずのおじょう)
●所在地 兵庫県豊岡市日高町上石コズ
●別名 水生古城
●高さ 160m(比高140m)
●築城期 不明(南北朝時代か)
●築城者 不明(長左衛門尉道金か)
●城主 長道金、西村丹後守
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2016年12月12日、及び12月18日
◆解説(参考資料 HP 『城郭放浪記』等)
水生城は前稿但馬・万場城(兵庫県豊岡市日高町万場字城山) と同じく、日高町に所在する山城で、円山川の支流八代川が南麓を流れ、現在の但馬空港側の尾根から東に延びる尾根の最高所(H:160m)を中心に築かれた山城である。
【写真左】水生城遠望
東麓側から見たもので、手前のグランドと水生城の間には円山川が流れる。
現地には水生城を紹介した説明板はないが、当城の中腹にある古刹「長楽寺」の縁起が掲示されているので、参考までに紹介しておきたい。
“水生山長楽寺縁起
当山は、奈良朝の和銅年間、行基菩薩により開創された寺で、ついで平安朝時代真如法親王巡錫のみぎり当山を真言宗に改められた。
当山の山号は水生山と称し、山麓に汲めども尽きぬ清泉ありこれに因んで名づけられたものである。
【写真左】長楽寺の入口
長楽寺本殿は水生城の南側中腹に建立されている。このため、麓に駐車場があり、そこに停めて、ここから九十九折の階段を使って登って行くことになる。
かっては寺は大いに栄え一時は、十二坊舎あり、然るに戦国時代、豊臣秀吉、水生城に来攻し城落寺亦荒廃す。よって暫く村裡に移る。
正徳年間、原地にかえり後、徐々に諸堂を整備し寛政年間に本堂(薬師堂)を再建し今日に至る。本堂は江戸中期の絢爛たる文化の所産で精緻を極め、本尊薬師如来は行基自ら彫刻された秘仏で古来霊験あらたかなことで知られている。
【写真左】参道途中から見下ろす。
当城の南麓部には円山川をはじめ、JR山陰線などが走っている。
真言に曰く
オンコロコロセンダリマトウギソワカ
尚、境内には五百年余を経た「長楽寺ちりツバキ」があり、3月から5月にかけて真紅の花瓣が地上に降り敷き壮観である。兵庫県の天然記念物に指定されている。
十五世住職 大僧正 水生宥啓”
【写真左】山門
参道を登って行くと、やがて山門が現れる。
宝暦6年(1756)に再興されたもので、左右には二体の仁王像が祀られている。
南北朝期
当城については宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山) で少し触れたように、築城期は不明ながら南北朝期といわれている。
このころ南朝方が但馬において拠点としたのがこの水生城(水尾山城)と、当城から円山川を9キロほど遡った進美寺山城である。進美寺山城については未だ登城していないが、名称からもわかるように寺院城郭の形式を持つ。
【写真左】本堂側から庫裡及び境内を見る。
享保5年(1720)再建された庫裡が中央にあり、本堂といわれる薬師堂は東側の高くなったところに、寛政3年(1791)に再建されている。
水生城はこの写真では、右側の位置に所在する。
延文元年(正平11年)(1356)8月、水生城には山名時氏の家臣・長左衛門尉らが立てこもり、水上山(国分寺城)に布陣した北朝方の伊達真信らがこれを攻め立てたという。
山名時氏は山名寺・山名時氏墓・その1(鳥取県倉吉市巌城) などで紹介したように、この時期時氏の動きはめまぐるしい。時氏は元々尊氏派に属していたが、その後佐々木導誉との対立もあり、足利直冬にも属するなど、その立場は微妙に変化していた。当城におけるこの頃の戦いも、南朝方としているが、実際にはまだ直冬の旗下にあった可能性が高い。
【写真左】屋敷跡
水生城に向かう標識などは現地にはないが、当城の縄張図を持参していたので、これを頼りに向かった。
最初に出てきたのは屋敷跡といわれる個所で、まとまった削平地が残る。
戦国期
羽柴秀吉が但馬攻めを最初に開始したのは、天正5年(1577)の秋である。目的は西国の雄毛利氏討伐であるが、その前段で行わなければならないのが、播磨国の平定であり、併せて日本海側の但馬も抑えなければ、西進できない状況であった。
【写真左】尾根から東に向かう。
屋敷跡を過ぎてさらに上に向かうと尾根にたどり着く。先ずここから東方面に向かうことにする。
水生城が所在する但馬において、戦いの記録が残るのは天正8年(1580)だが、おそらくそれ以前にも小規模な戦いがあったものと思われる。
この年(天正8年)長引いた播磨三木城での戦い(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照) を制すると、播州のほとんどの国人領主は秀吉に属し、この段階でやっと本格的な但馬攻略の態勢が整った。因みにこのとき秀吉方で但馬攻めの主将を務めたのが秀吉の実弟秀長である。
【写真左】竪堀
尾根筋を東に向かうと中央部の郭群が出てくるが、その手前には北側の斜面に竪堀が見える。
水生城での戦いでは、城主西村丹後守をはじめとし、当城に立て籠ったのは垣屋氏、長氏、赤木氏、下津屋氏、大坪氏、篠部の諸氏である。ところが、このうち篠部氏は日ごろから西村丹後守に対し私怨があり、彼らが立てた作戦を密かに織田方(秀長)に密告したためこの作戦は失敗に終わり、緒戦の浅間城(浅間村)での戦いでは、城主佐々木義高は戦わずして城を明け渡した。
これを契機に秀長は、出石を攻略したのち、水生城に攻め寄せほどなく当城は落城したといわれる。
【写真左】頂部
中央郭群のもので、ここを中心に東西の尾根筋に小規模な郭段が続いている。
思った以上に広い。
水生城の概要
水生城は西側から延びる尾根筋にそれぞれ3か所の郭群を配置し、西側の尾根に主郭を置き、中央部には中規模なもの、そして東端部には物見櫓を中心としたものを置いている。
城域は東西におよそ650mにわたって延びるが、尾根幅は狭いため、本丸側で最大幅30m前後しかない。
本丸の西端には西側からの侵入を防ぐ堀切が竪堀と併せ配置され、本丸から中央部および東端部の物見櫓の間には明確な堀切は置かれていない。このことからこれら3か所の郭群は単一の城郭として同時期に築城された可能性が高い。
【写真左】左側の竪堀
頂部のすぐ真下には左右に竪堀が見える。写真は左(北)のもの。
【写真左】右側の竪堀
【写真左】堀切
この個所には3,4か所の堀切や竪堀があるが、写真はそのうちの2番目のもの。
【写真左】先端部
先ほどの箇所から更に先端部まで向かう。
当城の北東端に当たる箇所で、当時は円山川の周辺部まで見渡せたことだろう。
このあと、Uターンして本丸側に向かう。
【写真左】本丸周辺部
この個所に行くまでにも数か所の竪堀や郭段があるが、全体に雑木に覆われていい写真が撮れていなかったので省略している。
この個所は本丸の西側にある長い郭で、北側の斜面から回り込んでこの位置にたどり着いた。右側に本丸が控える。
【写真左】本丸に向かう道
脇には御覧のように歩きやすい道があり、分かりやすい。
【写真左】本丸・北の段
本丸の北側の下段にあるもので、腰郭となる。
【写真左】本丸・その1
長径(南北)30m×短径(東西)25m前後の規模。
【写真左】本丸・その2
三角点
【写真左】土塁
南から西にかけて本丸を囲繞しているもので、竹が繁茂しているため分かりずらいが、高さ1m前後のもの。
【写真左】再び西側の郭へ
本丸から西に降り、再び長大な郭に向かう。
長さは100m前後はあるだろう。
【写真左】但馬空港
木立の間から北西方向に但馬空港が見える。
因みに、この但馬空港の北西側にも「岩井城」というかなり広範囲に広がる城郭があったとわれ、その手前には後述する「竹貫城」という城郭もあり、本稿の水生城との関連もうかがわれる。
【写真左】堀切
西端部に残るもので、奥には小規模な郭が配置されている。
城域は縄張図によれば、西側はここまでとなっている。
ここからさらに西の尾根伝いに向かうと、「竹貫城」に繋がる。当城については次稿で取り上げる予定である。
●所在地 兵庫県豊岡市日高町上石コズ
●別名 水生古城
●高さ 160m(比高140m)
●築城期 不明(南北朝時代か)
●築城者 不明(長左衛門尉道金か)
●城主 長道金、西村丹後守
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2016年12月12日、及び12月18日
◆解説(参考資料 HP 『城郭放浪記』等)
水生城は前稿但馬・万場城(兵庫県豊岡市日高町万場字城山) と同じく、日高町に所在する山城で、円山川の支流八代川が南麓を流れ、現在の但馬空港側の尾根から東に延びる尾根の最高所(H:160m)を中心に築かれた山城である。
【写真左】水生城遠望
東麓側から見たもので、手前のグランドと水生城の間には円山川が流れる。
現地には水生城を紹介した説明板はないが、当城の中腹にある古刹「長楽寺」の縁起が掲示されているので、参考までに紹介しておきたい。
“水生山長楽寺縁起
当山は、奈良朝の和銅年間、行基菩薩により開創された寺で、ついで平安朝時代真如法親王巡錫のみぎり当山を真言宗に改められた。
当山の山号は水生山と称し、山麓に汲めども尽きぬ清泉ありこれに因んで名づけられたものである。
【写真左】長楽寺の入口
長楽寺本殿は水生城の南側中腹に建立されている。このため、麓に駐車場があり、そこに停めて、ここから九十九折の階段を使って登って行くことになる。
かっては寺は大いに栄え一時は、十二坊舎あり、然るに戦国時代、豊臣秀吉、水生城に来攻し城落寺亦荒廃す。よって暫く村裡に移る。
正徳年間、原地にかえり後、徐々に諸堂を整備し寛政年間に本堂(薬師堂)を再建し今日に至る。本堂は江戸中期の絢爛たる文化の所産で精緻を極め、本尊薬師如来は行基自ら彫刻された秘仏で古来霊験あらたかなことで知られている。
【写真左】参道途中から見下ろす。
当城の南麓部には円山川をはじめ、JR山陰線などが走っている。
真言に曰く
オンコロコロセンダリマトウギソワカ
尚、境内には五百年余を経た「長楽寺ちりツバキ」があり、3月から5月にかけて真紅の花瓣が地上に降り敷き壮観である。兵庫県の天然記念物に指定されている。
十五世住職 大僧正 水生宥啓”
【写真左】山門
参道を登って行くと、やがて山門が現れる。
宝暦6年(1756)に再興されたもので、左右には二体の仁王像が祀られている。
南北朝期
当城については宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山) で少し触れたように、築城期は不明ながら南北朝期といわれている。
このころ南朝方が但馬において拠点としたのがこの水生城(水尾山城)と、当城から円山川を9キロほど遡った進美寺山城である。進美寺山城については未だ登城していないが、名称からもわかるように寺院城郭の形式を持つ。
【写真左】本堂側から庫裡及び境内を見る。
享保5年(1720)再建された庫裡が中央にあり、本堂といわれる薬師堂は東側の高くなったところに、寛政3年(1791)に再建されている。
水生城はこの写真では、右側の位置に所在する。
延文元年(正平11年)(1356)8月、水生城には山名時氏の家臣・長左衛門尉らが立てこもり、水上山(国分寺城)に布陣した北朝方の伊達真信らがこれを攻め立てたという。
山名時氏は山名寺・山名時氏墓・その1(鳥取県倉吉市巌城) などで紹介したように、この時期時氏の動きはめまぐるしい。時氏は元々尊氏派に属していたが、その後佐々木導誉との対立もあり、足利直冬にも属するなど、その立場は微妙に変化していた。当城におけるこの頃の戦いも、南朝方としているが、実際にはまだ直冬の旗下にあった可能性が高い。
【写真左】屋敷跡
水生城に向かう標識などは現地にはないが、当城の縄張図を持参していたので、これを頼りに向かった。
最初に出てきたのは屋敷跡といわれる個所で、まとまった削平地が残る。
戦国期
羽柴秀吉が但馬攻めを最初に開始したのは、天正5年(1577)の秋である。目的は西国の雄毛利氏討伐であるが、その前段で行わなければならないのが、播磨国の平定であり、併せて日本海側の但馬も抑えなければ、西進できない状況であった。
【写真左】尾根から東に向かう。
屋敷跡を過ぎてさらに上に向かうと尾根にたどり着く。先ずここから東方面に向かうことにする。
水生城が所在する但馬において、戦いの記録が残るのは天正8年(1580)だが、おそらくそれ以前にも小規模な戦いがあったものと思われる。
この年(天正8年)長引いた播磨三木城での戦い(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照) を制すると、播州のほとんどの国人領主は秀吉に属し、この段階でやっと本格的な但馬攻略の態勢が整った。因みにこのとき秀吉方で但馬攻めの主将を務めたのが秀吉の実弟秀長である。
【写真左】竪堀
尾根筋を東に向かうと中央部の郭群が出てくるが、その手前には北側の斜面に竪堀が見える。
水生城での戦いでは、城主西村丹後守をはじめとし、当城に立て籠ったのは垣屋氏、長氏、赤木氏、下津屋氏、大坪氏、篠部の諸氏である。ところが、このうち篠部氏は日ごろから西村丹後守に対し私怨があり、彼らが立てた作戦を密かに織田方(秀長)に密告したためこの作戦は失敗に終わり、緒戦の浅間城(浅間村)での戦いでは、城主佐々木義高は戦わずして城を明け渡した。
これを契機に秀長は、出石を攻略したのち、水生城に攻め寄せほどなく当城は落城したといわれる。
【写真左】頂部
中央郭群のもので、ここを中心に東西の尾根筋に小規模な郭段が続いている。
思った以上に広い。
水生城の概要
水生城は西側から延びる尾根筋にそれぞれ3か所の郭群を配置し、西側の尾根に主郭を置き、中央部には中規模なもの、そして東端部には物見櫓を中心としたものを置いている。
城域は東西におよそ650mにわたって延びるが、尾根幅は狭いため、本丸側で最大幅30m前後しかない。
本丸の西端には西側からの侵入を防ぐ堀切が竪堀と併せ配置され、本丸から中央部および東端部の物見櫓の間には明確な堀切は置かれていない。このことからこれら3か所の郭群は単一の城郭として同時期に築城された可能性が高い。
【写真左】左側の竪堀
頂部のすぐ真下には左右に竪堀が見える。写真は左(北)のもの。
【写真左】右側の竪堀
【写真左】堀切
この個所には3,4か所の堀切や竪堀があるが、写真はそのうちの2番目のもの。
【写真左】先端部
先ほどの箇所から更に先端部まで向かう。
当城の北東端に当たる箇所で、当時は円山川の周辺部まで見渡せたことだろう。
このあと、Uターンして本丸側に向かう。
【写真左】本丸周辺部
この個所に行くまでにも数か所の竪堀や郭段があるが、全体に雑木に覆われていい写真が撮れていなかったので省略している。
この個所は本丸の西側にある長い郭で、北側の斜面から回り込んでこの位置にたどり着いた。右側に本丸が控える。
【写真左】本丸に向かう道
脇には御覧のように歩きやすい道があり、分かりやすい。
【写真左】本丸・北の段
本丸の北側の下段にあるもので、腰郭となる。
【写真左】本丸・その1
長径(南北)30m×短径(東西)25m前後の規模。
【写真左】本丸・その2
三角点
【写真左】土塁
南から西にかけて本丸を囲繞しているもので、竹が繁茂しているため分かりずらいが、高さ1m前後のもの。
【写真左】再び西側の郭へ
本丸から西に降り、再び長大な郭に向かう。
長さは100m前後はあるだろう。
【写真左】但馬空港
木立の間から北西方向に但馬空港が見える。
因みに、この但馬空港の北西側にも「岩井城」というかなり広範囲に広がる城郭があったとわれ、その手前には後述する「竹貫城」という城郭もあり、本稿の水生城との関連もうかがわれる。
【写真左】堀切
西端部に残るもので、奥には小規模な郭が配置されている。
城域は縄張図によれば、西側はここまでとなっている。
ここからさらに西の尾根伝いに向かうと、「竹貫城」に繋がる。当城については次稿で取り上げる予定である。
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