2016年6月7日火曜日

花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾)

花尾城(はなおじょう)

●所在地 福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾
●高さ 387m(比高250m)
●築城期 鎌倉初期か
●築城者 宇都宮上野介か
●城主 麻生氏、大内氏など
●遺構 畝状竪堀群、石垣、郭、堀切等
●備考 花尾城公園
●登城日 2015年1月11日

◆解説
 花尾城は、前稿多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)でも紹介しているが、多良倉城の北西麓に所在する山城で、南北朝期から戦国時代にかけて麻生氏が居城とした城砦である。
【写真左】花尾城遠望
 皿倉山頂上から見たもの。











現地の説明板より

 史跡 花尾城跡

 麻生氏の居城跡で、小倉の大三岳城跡や門司の門司城跡と共に中世北九州の代表的な山城の一つ。
 平家滅亡後、宇都宮朝綱の次男家政は鎌倉幕府の命により遠賀山鹿庄に下り、山鹿氏を称したのち、その子時家は次男資時に麻生庄野面(のぶ)庄上津役郷を割譲、よって資時は麻生庄に本拠をおき麻生氏を名乗った。
 この城の築城年代は定かでないが、南北朝時代と推定されており、その頃は麻生山とも呼ばれたという。
【写真左】花尾城(公園)入口付近
 登城コースは北側及び南側に設定されているようだが、この日は北側から向かった。

 写真は公園入口の駐車場で、車は2,3台程度しか停められない。なお、写真右側の道が「西登山道」で、左側の道を進むと、「中登山道」及び「東登山道」に向かう。

 管理人は、花尾城の東側を始点としたかったので、東登山道を選択した。


 ここでは中世に、いくたびかの合戦があったが、なかでも文明10年(1478)麻生氏の家督をめぐって、惣領家弘家と反惣領派家延との内紛は知られており、このとき山口の大内政弘が弘家を援け、当城にこもる家延を攻めたため、家延は和議を乞い城を開けた。

 その後、麻生氏は家氏のとき、豊臣秀吉の九州征伐のおり、軍監黒田孝高(通称官兵衛、出家後如水)に従い開城、天正15年(1587)筑後に所(ところ)替えとなり、三百数十年にわたる当地でのその歴史をとじた。
 平成25年7月3日
   北九州西ライオンズクラブ 寄贈”
【写真左】石垣跡
 東登山道を少し歩くと、右手に見えたもので、何らかの建物があったものかもしれない。






麻生氏

 現地の説明板では、宇都宮朝綱の次男家政が遠賀山鹿庄に下ったとあるが、一説には家政は朝綱の嫡男ではなく、朝綱の猶子となった高階忠業の子・重業が筑前遠賀郡に領地を賜り、後に麻生郷に花尾城を築き、山鹿氏・麻生氏の祖となったというのもある。
【写真左】竪堀
 東登山道はしらく平坦な道が続くが、途中で右手に見えたもので、割と明瞭に残る竪堀跡








 さて、説明板にもあるように、花尾城の築城期は南北朝時代とされている。正平11年(1356)、およそ20年にわたり九州鎭西管領として任にあった一色範氏(吉原山城(京都府京丹後市峰山町赤坂)参照)は、懐良親王を支援しつづけた菊池氏などの圧力に押され、この年の4月から5月にかけてついに帰京した。

 しかし、範氏の子・直氏、範光らは長門の厚東氏(霜降城(山口県宇部市厚東末信)参照)を頼り、その前年(正平10年・文和4年)11月、筑前遠賀郡山鹿庄を根拠としていた麻生氏に豊前・筑後の地を与え、懐柔しようとしていた。ところが、その後範光は病気に罹り、軍を動かすことは出来なかった。
【写真左】堀切
 東登山道の東端部に当たる個所で、この付近から道は右に旋回し、登り坂となる。その手前に見えた堀切だが、この堀底を直接登らず、一旦東側に回り込み、櫓台側に進む。




 さらには、翌文和5年の秋、それまで一色氏の傘下にあった豊後の大友氏一族は南朝方に属してしまった。それを裏付けるように、懐良親王の最大の支援者菊池武光(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)の働きによって、このころ北九州一帯は南軍の勢力下に入っていた。さらに、一時は関門海峡を渡って長門にまで攻めようとする勢いだったという。

 これに対し、しばらく帰京していた一色直氏は、陣を立て直し再び西下し、長門から筑前の山鹿山に向かい、麻生氏の軍勢と合流、そして麻生山(花尾城)に陣を構えた。同年(文和5年・延文元年/正平11年:1356年)10月13日のことである。
【写真左】ヤグラ台跡
 現地の周囲には樹木が繁茂しているため、ヤグラとしての物見台的な状況は確認できないが、当時は東方を俯瞰できる場所だったのだろう。
 なお、この付近には近世に建立されたと思われる墓石が数基建立されている。




 同月26日、菊池の軍「数千騎」が麻生山の一色・麻生軍を攻撃、激戦が展開された。それから約1ヶ月経った11月24日、一色軍の山鹿筑前守・同越前守が寝返り、菊池方に内応、菊池軍を麻生の山営に導きいれたため、直氏軍は奮戦空しく総崩れとなって、再び長門に敗走した。
【写真左】堀切
 ヤグラ台から降りていくと、堀切にたどり着く。
 ここから再び上がり、馬場・出丸方面に向かう。
【写真左】馬場跡
 綺麗に整地された箇所で、長さは50m前後はあろうか。
 
【写真左】大堀切
 当城最大の堀切で、右側が馬場跡になる。なお、この近くには人馬用として利用されていたのだろう石組による古井戸があるということだが、この日は向かっていない。
【写真左】下の段・その1
 堀切からさらに西に向かうと、いよいよ当城の中心部が見えてくる。最初に出迎えたのは本丸の東隣にある郭、通称「下の段」といわれるものである。
【写真左】下の段・その2
 下の段から振り返ると、東の方向に前稿で紹介した多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)が見える。
【写真左】下の段から本丸に向かう。
 本丸は下の段より5m前後高くなっており、写真に見える階段部とは別に、北側にも本丸と連絡する道が設置されている。
【写真左】本丸・その1
  下の段との境には石積跡が残るが、花尾城の石碑部分は少し高くなっており、土塁があったようだ。
【写真左】本丸・その2
 花尾城は東西に伸びる尾根筋上に築かれたいくつかの郭群で構成されている。本丸はそのほぼ中央部に配置され、長さ30m×幅20m前後の規模を持つ。
【写真左】本丸・その3
 西側にも土塁が残る。
【写真左】北に洞海湾を俯瞰する。
 多良倉城ほどではないが、本丸跡からも北九州市の町並みが眺望できる。
【写真左】二の丸
 本丸から西に進むと、二の丸・三の丸と繋がる。本来は西側の「中登山道」から登城した方が、大手道のコースとなって分かりやすいかもしれない。
【写真左】石積
 二の丸から三の丸の間に残るもので、石垣による小郭が残る。
【写真左】三の丸
 二の丸から三の丸の間の比高差はかなりある。
 長径40m弱、短径20mほどか。なお、三の丸の周囲には竪堀群が配されているが、整備されていないため確認していない。
【写真左】石垣群
 三の丸から更に西に下がっていくと、ご覧のようなまとまった石積の遺構が残っている。
【写真左】竪堀
 三の丸から四の丸へ向かう途中に見えたもので、この竪堀は比較的良好に残っている。
【写真左】四の丸
 先ほどの三の丸とほぼ同じ規模のものだが、長さはこちらの方が長いようだ。
 なお、四の丸の西側にはこれとは別に長さ20mほどの小郭が付随している。
【写真左】ヤグラ台
 花尾城は東端部にヤグラ台を兼ねた郭があるが、西端部にもご覧のようなヤグラ台を備えた郭がある。

 以上のように、花尾城は東西に伸びる尾根筋に主要な郭を8か所設けており、郭ごとに高低差があることから、総延長はおそらく700m前後はあるだろう。

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