城山城(きやまじょう)
●所在地 香川県坂出市府中町
●高さ 標高462m
●築城期 白鳳時代(668~670)ごろ
●築城者 不明
●遺構 城門・水口・石塁・土塁・車道その他
●形態 朝鮮式山城
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年11月12日
◆解説
今稿の山城は一般的に知られている中世山城ではなく、古代朝鮮式山城といわれた城砦である。
香川県にある古代朝鮮式山城としては、以前取り上げた東かがわ市にある引田城跡(香川県東かがわ市 引田)もあるが、この他同県には源平合戦で有名な屋島の屋島城もある。
【写真左】城山(城)山頂部
山頂部にはご覧のような展望台が設置してある。
現地の説明板より
“史跡 城山
城山は標高462.5m、この付近における最高峰で、視野が極めて広く景勝の地である。山腹は比較的急峻であるが、山上部は緩やかに起伏している。南方部の急斜面を背に北方を正面とし、山頂および西北に向かって口を開く凹地を囲むように遺構が残る。
主として北面に城門・水口などの施設があり、石塁・土塁は断続しつつも、稜線に沿い谷を横切って続いている。
また、土塁の内側は城山長者の伝説と関連して、車道(くるまみち)と称せされる帯状の平坦地となっている。この車道付近の所々にホロソ石、カガミ石、マナイタ石と呼ばれる石造加工物が点在するが、その用途は未だ不明である。
【写真左】城山城遺構所在図
城山城の城域とほぼ重なるように、現在はゴルフ場(高松カントリー倶楽部)があるため、遺構のすべてを踏査することはできない。
ただ、主だった遺構は残っているようだ。
築城の時期は明らかでないが、朝鮮式山城の様式を踏襲した古代山城と認められる。また、菅原道真の漢詩集『菅家文章』に、城山神社と記されている古代祭祀遺跡も存在する。
所々に改変跡はあるが、よく旧規模をとどめており、古代史研究上重要な遺跡である。
昭和26年6月9日史跡に指定された。
平成21年3月31日
坂出市教育委員会”
【写真左】石塁・その1
西側の道(城山川津線:189号線)から登っていくと、途中で見える箇所だが、看板があるわりには「石塁」の管理はあまりよろしくない。
白鳳期(飛鳥時代)
「引田城」でも述べたように、天智2年(663)8月末、日本と百済軍の連合軍隊は、朝鮮半島の白村江において唐・新羅の軍隊との戦い(白村江の戦い)で大敗、9月日本軍は百済の遣使とともに急ぎ帰国した。翌年、勝利した唐・新羅の連合軍が日本を攻め寄せることを想定し、対馬・壱岐・筑紫などに水城を築いた。
引田城や屋島城の築城期は、天智6年(667)といわれているので、今稿の「城山城」の築城期もほぼこれらと同時期と思われる。
【写真左】石塁・その2
車道があるため、当時の規模がこの大きさだったかわからないが、高さ1.5~2.0m程度で場所によっては数十メートル伸びている箇所もある。
讃岐の地勢
ところで、引田城や屋島城などは、現在でも瀬戸内海に面した位置にあるが、城山城は現在坂出市の内陸部に所在している。したがって、古代朝鮮式山城がほとんど水城とされていることから当城については、不可解な場所に思える。
しかし、飛鳥時代の白鳳期における讃岐・坂出付近の地勢を検証すると、現在の城山は北東部の五色台とともに瀬戸内に浮かぶ島であって、丸亀港・宇多津町などは瀬戸内の海の底にあった。
【写真左】もう一つの説明板
山頂部に設置されたもので、この図でもわかるように、城域全体がゴルフ場となっているので、遺構を踏査できるのは限られている。
なお、山頂部における石塁は二重に取り囲んでいるが、現場はほとんど手付かずの状態のようだ。
記録上、山頂部の礎石群は11か所あると記されている。
城山城の西麓(川津町)にある瀬戸内中央自動車道の坂出IC~同JCT間は、南方の飯野山(讃岐富士)とに挟まれた遠浅の入江であったことがわかる。
そして屋島の水城(屋島城)が北方にあることから、おそらく屋島城を前線基地の城砦として、城山城はそれを後方から支援するものとして築城されたものと思われる。
白村江の戦いのあと、唐・新羅の日本国侵攻を恐れた天智天皇は、それまで難波にあった都を内陸部の近江大津宮に遷都している。
【写真左】三角点
山頂部は険峻な山容とは逆に広い平坦部となっている。
また、下段に示すように眺望はほぼ360度俯瞰できるが、この日はだいぶ靄がかかっており、今一つだった。
【写真左】山頂部
長径100m余、短径50m前後の規模。
【写真左】山頂部から東方に鷲ノ山城、および府中湖を見る。
坂出市府中町にあるダム湖で、正面の鷲ノ山(H322m)は、新名氏の居城とされた鷲ノ山城で、地元登山愛好家に親しまれているようだ。
機会があれば、登城してみたい。
●所在地 香川県坂出市府中町
●高さ 標高462m
●築城期 白鳳時代(668~670)ごろ
●築城者 不明
●遺構 城門・水口・石塁・土塁・車道その他
●形態 朝鮮式山城
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年11月12日
◆解説
今稿の山城は一般的に知られている中世山城ではなく、古代朝鮮式山城といわれた城砦である。
香川県にある古代朝鮮式山城としては、以前取り上げた東かがわ市にある引田城跡(香川県東かがわ市 引田)もあるが、この他同県には源平合戦で有名な屋島の屋島城もある。
【写真左】城山(城)山頂部
山頂部にはご覧のような展望台が設置してある。
現地の説明板より
“史跡 城山
城山は標高462.5m、この付近における最高峰で、視野が極めて広く景勝の地である。山腹は比較的急峻であるが、山上部は緩やかに起伏している。南方部の急斜面を背に北方を正面とし、山頂および西北に向かって口を開く凹地を囲むように遺構が残る。
主として北面に城門・水口などの施設があり、石塁・土塁は断続しつつも、稜線に沿い谷を横切って続いている。
また、土塁の内側は城山長者の伝説と関連して、車道(くるまみち)と称せされる帯状の平坦地となっている。この車道付近の所々にホロソ石、カガミ石、マナイタ石と呼ばれる石造加工物が点在するが、その用途は未だ不明である。
【写真左】城山城遺構所在図
城山城の城域とほぼ重なるように、現在はゴルフ場(高松カントリー倶楽部)があるため、遺構のすべてを踏査することはできない。
ただ、主だった遺構は残っているようだ。
築城の時期は明らかでないが、朝鮮式山城の様式を踏襲した古代山城と認められる。また、菅原道真の漢詩集『菅家文章』に、城山神社と記されている古代祭祀遺跡も存在する。
所々に改変跡はあるが、よく旧規模をとどめており、古代史研究上重要な遺跡である。
昭和26年6月9日史跡に指定された。
平成21年3月31日
坂出市教育委員会”
【写真左】石塁・その1
西側の道(城山川津線:189号線)から登っていくと、途中で見える箇所だが、看板があるわりには「石塁」の管理はあまりよろしくない。
白鳳期(飛鳥時代)
「引田城」でも述べたように、天智2年(663)8月末、日本と百済軍の連合軍隊は、朝鮮半島の白村江において唐・新羅の軍隊との戦い(白村江の戦い)で大敗、9月日本軍は百済の遣使とともに急ぎ帰国した。翌年、勝利した唐・新羅の連合軍が日本を攻め寄せることを想定し、対馬・壱岐・筑紫などに水城を築いた。
引田城や屋島城の築城期は、天智6年(667)といわれているので、今稿の「城山城」の築城期もほぼこれらと同時期と思われる。
【写真左】石塁・その2
車道があるため、当時の規模がこの大きさだったかわからないが、高さ1.5~2.0m程度で場所によっては数十メートル伸びている箇所もある。
讃岐の地勢
ところで、引田城や屋島城などは、現在でも瀬戸内海に面した位置にあるが、城山城は現在坂出市の内陸部に所在している。したがって、古代朝鮮式山城がほとんど水城とされていることから当城については、不可解な場所に思える。
しかし、飛鳥時代の白鳳期における讃岐・坂出付近の地勢を検証すると、現在の城山は北東部の五色台とともに瀬戸内に浮かぶ島であって、丸亀港・宇多津町などは瀬戸内の海の底にあった。
【写真左】もう一つの説明板
山頂部に設置されたもので、この図でもわかるように、城域全体がゴルフ場となっているので、遺構を踏査できるのは限られている。
なお、山頂部における石塁は二重に取り囲んでいるが、現場はほとんど手付かずの状態のようだ。
記録上、山頂部の礎石群は11か所あると記されている。
城山城の西麓(川津町)にある瀬戸内中央自動車道の坂出IC~同JCT間は、南方の飯野山(讃岐富士)とに挟まれた遠浅の入江であったことがわかる。
そして屋島の水城(屋島城)が北方にあることから、おそらく屋島城を前線基地の城砦として、城山城はそれを後方から支援するものとして築城されたものと思われる。
白村江の戦いのあと、唐・新羅の日本国侵攻を恐れた天智天皇は、それまで難波にあった都を内陸部の近江大津宮に遷都している。
【写真左】三角点
山頂部は険峻な山容とは逆に広い平坦部となっている。
また、下段に示すように眺望はほぼ360度俯瞰できるが、この日はだいぶ靄がかかっており、今一つだった。
【写真左】山頂部
長径100m余、短径50m前後の規模。
【写真左】山頂部から東方に鷲ノ山城、および府中湖を見る。
坂出市府中町にあるダム湖で、正面の鷲ノ山(H322m)は、新名氏の居城とされた鷲ノ山城で、地元登山愛好家に親しまれているようだ。
機会があれば、登城してみたい。
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