岩倉城(いわくらじょう)
●所在地 徳島県美馬市脇町田上
●築城期 鎌倉期
●築城者 小笠原長房
●城主 三好徳太郎康俊、長宗我部親吉
●高さ 標高110m(比高50m)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2011年6月25日
◆解説(参考文献『サイト:城郭放浪記』等)
吉野川市の川島城(徳島県吉野川市川島町川島)でも少し触れているが、川島城から吉野川をさかのぼり、「うだつの町並み」で有名な脇町(美馬市)の吉野川北岸に築かれた山城である。
【写真左】岩倉城遠望
北東部からみたもので、ご覧の通り遠望する限りではこの小丘が山城とは思えない。
写真手前に車1台分の駐車スペースがあるが、この位置の頭上(北側)は徳島自動車道が走っており、当城に向かうには、この自動車道下のトンネルを潜る。
北東部からみたもので、ご覧の通り遠望する限りではこの小丘が山城とは思えない。
写真手前に車1台分の駐車スペースがあるが、この位置の頭上(北側)は徳島自動車道が走っており、当城に向かうには、この自動車道下のトンネルを潜る。
現地の説明板より
“岩倉城跡
所在地 徳島県美馬市脇町田上
岩倉城は、中世に築城された阿波国西部地区を代表する城の一つです。阿波国西部の戦略的要衝である脇・岩倉点在する城館群の中核的機能を果たす城であり、最盛期には六坊を備えた広大な城域を持っていたといわれます。
代表的な城主として、三好長慶の叔父の三好康長(笑岩)が挙げられます。
正確な築城年代は不明ですが、一説によると、阿波国守護の小笠原長房が、文永4年(1267)に居城していたとされていることから、古くから阿波西部の防衛拠点としての重要な役割を果たしていた城郭といえます。
正確な築城年代は不明ですが、一説によると、阿波国守護の小笠原長房が、文永4年(1267)に居城していたとされていることから、古くから阿波西部の防衛拠点としての重要な役割を果たしていた城郭といえます。
東の脇城とは密接な関係にあり、岩倉城と東の脇城の二城は、地理的に近く相互連携することで、防衛拠点機能を果たしていましたが、次第に主たる機能は、脇城へと移行していきます。
現在までの地形改変により、本来の岩倉城の姿は大きく失われており、現在その痕跡が確認できるのは、本丸跡と思われるこの位置のみである。
美馬市教育委員会”
阿波・小笠原氏
中世阿波国を最初に支配したのは、説明板にもあるように守護として下向してきた小笠原長房とされている。承久の乱による論功行賞によるものと思われるが、当初長房の兄・長忠が阿波国守護として任ぜられたものの、長忠は生まれ故郷の信濃国へ戻り、代わりに弟の長房が当地に入った。
説明板には、長房が文永4年(1267)には居城していた、となっているので、下向してきたのはこれよりだいぶ前のことと思われる。
戦国期
戦国期に至って当城の代表的な城主として、三好氏の名が挙げられている。
ところで、この阿波三好氏は先述した小笠原氏の末裔といわれている。小笠原氏から三好氏に改称した時期は、南北朝後期の義長のころといわれ、三好郡に住んで三好氏の祖となった。したがって、小笠原長房が阿波国守護となって以来、小笠原・三好一族は、およそ300年近く同氏が当地を支配していたことになる。
戦国期の三好氏といえば、三好長慶がもっとも有名であるが、岩倉城主として名が残るのは、三好康長とされている。
説明板にもあるように、かれは長慶の叔父にあたり、長慶の父は元長である。従って、元長と康長は兄弟で、元長が長子である。
三好氏が阿波国に勢威を張り出したのは、この元長の代からである。彼は、特に吉野川流域の支配拡大を行い、戦国期阿波三好氏の基礎を築いたともいえる。
【写真左】石碑
南側に設置されたもので、小規模な五輪塔形式の墓石が2,3基祀ってある。
室町期における三好氏は、細川家の家臣として仕え、之長の子長秀は、細川政元に重用された。
この政元は室町幕府の重鎮で事実上幕府を牛耳っていた。しかし、晩年にいたると後継者問題に嫌気がさしたのか、厭世観が次第に強くなり、都を離れ修験者になりたいと言い出した。これに対し、之長・長秀がその都度諌めることがあったというが、最期は行水をしていたところを襲われ、殺された。享年42歳。
このあたりから細川家における後継者問題が拡大していき、三好長慶の時代になると、同氏は畿内を長慶が、阿波国を弟の実休が治めるようになる。
畿内における長慶や、のちに出てくる松永久秀の活躍については他の史料で度々取り上げられているので割愛させていただく。
【写真左】郭跡
現在の岩倉城跡は南と北にそれぞれ郭が残り、その間に前掲した堀切が介在している。
この写真は南側の郭だが、墓石のようなものが倒れたままになっている。
この郭の規模はおよそ15m四方程度か。
東側には土塁のような高まりを残していた。
さて、岩倉城に関する資料はほとんど持ち合わせていないが、前記した三好康長の子・康俊が城主となった天正年間、東方の脇城(城主武田信顕)とともに、南方から侵攻してきた長宗我部氏に降り、同族の三好氏をおびき寄せ勝利したという。おそらくこのときと思われるのが、天正7年(1579)12月の岩倉合戦といわれるものだろう。
敗死した側の阿波の諸将の中には、上述した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)の川島兵衛之進がいた。
【写真左】西側の郭
西方に少し伸びた郭だが、この写真では単なる藪に見えるかもしれない。
一旦長宗我部氏に降った康俊らだったが、再び三好氏に復帰するも、長宗我部氏に攻められ、康俊らは降伏し討死したともいわれている。
【写真左】南側から南東麓を見る。
南端部には現在朽ち果てた小屋があるが、農業用の施設跡のようだ。
この位置から吉野川が見える。
【写真左】岩倉城から東方を見る
写真に見える川は吉野川で、遠くに見える橋は国道193号線にかかる穴吹橋。
【写真左】岩倉城から東方に「脇城」方面を見る
脇城は岩倉城から1キロ程度離れているが、この写真では左側になる。
◎関連投稿
飯山城(鳥取県米子市久米町)
池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)
白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)
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【写真左】石碑
南側に設置されたもので、小規模な五輪塔形式の墓石が2,3基祀ってある。
室町期における三好氏は、細川家の家臣として仕え、之長の子長秀は、細川政元に重用された。
この政元は室町幕府の重鎮で事実上幕府を牛耳っていた。しかし、晩年にいたると後継者問題に嫌気がさしたのか、厭世観が次第に強くなり、都を離れ修験者になりたいと言い出した。これに対し、之長・長秀がその都度諌めることがあったというが、最期は行水をしていたところを襲われ、殺された。享年42歳。
このあたりから細川家における後継者問題が拡大していき、三好長慶の時代になると、同氏は畿内を長慶が、阿波国を弟の実休が治めるようになる。
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【写真左】郭跡
現在の岩倉城跡は南と北にそれぞれ郭が残り、その間に前掲した堀切が介在している。
この写真は南側の郭だが、墓石のようなものが倒れたままになっている。
この郭の規模はおよそ15m四方程度か。
東側には土塁のような高まりを残していた。
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【写真左】西側の郭
西方に少し伸びた郭だが、この写真では単なる藪に見えるかもしれない。
一旦長宗我部氏に降った康俊らだったが、再び三好氏に復帰するも、長宗我部氏に攻められ、康俊らは降伏し討死したともいわれている。
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南端部には現在朽ち果てた小屋があるが、農業用の施設跡のようだ。
この位置から吉野川が見える。
【写真左】岩倉城から東方を見る
写真に見える川は吉野川で、遠くに見える橋は国道193号線にかかる穴吹橋。
【写真左】岩倉城から東方に「脇城」方面を見る
脇城は岩倉城から1キロ程度離れているが、この写真では左側になる。
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