2009年6月21日日曜日

全隆寺城跡(ぜんりゅうじあと)・島根県松江市八束町波入

全隆寺城跡(ぜんりゅうじじょうあと)

●登城日 2008年4月21日
●所在地 島根県松江市八束町 波入
●別名 波入城
●築城期 不明(戦国期と思われる)
●築城主 小川右衛門?
●標高 5m
●遺構 郭、土塁 堀

◆はじめに
 島根県東部には、二つの大きな湖がある。宍道湖と中海である。いずれも塩分を含んだ汽水湖である。その中の中海には大根島、江島という小さな二つの島がある。
 現在は中海西岸の松江市側からの堤防と、鳥取県境港市側からのそれとがつながり、直接車で往来できるようになっている。
 大根島が江島より大きいが、それでも面積は約6k㎡という小さな島である。

 この中海は、中世の歴史からみても、後鳥羽上皇や、後醍醐天皇などが配流された際や、また山中鹿助らが尼子再興を図ったときなど、たびたび史料に出てくる水域である。
 今回取り上げるのは、その中海に浮かぶ大根島にある水城・全隆寺城(波入城)である

 
解説(境内にあった小川氏の墓の裏にある説明文より)

“姫は毛利軍との戦いで、父・小川右衛門の訃報を聞き、出屋敷の海に身を投じたとのこと。波入□(判読不能)鳥の出屋敷に供養塔が建てられていたが、長年の風雪で破損し、荒地になったためここに新塔を建てる。
全隆寺開基・小川右衛門頌は安来市広瀬町冨田城主・尼子氏の家臣で大根島城主としてこの地を治める。“


◆コメント
 そもそも大根島に城があったということ自体が驚きだが、この城は地形的に見てもいわゆる「山城」ではなく、「水城」というべきものと思われる。筆者の少ない資料の中から関係する事項を拾ってみると、妹尾豊三郎氏編著「尼子盛衰人物記」の中に、「尼子時代及びその以前・以後 出雲国内の城とその城主」の項で、

「森山城主 秋上伊織介其の後、小川右エ門兵衛勝久

 という記事がある。森山城というのは美保関地域の城で、小川右衛門は当初から中海地域が担当だったようだ。
【写真右】全隆寺入口付近
 この日は島根半島付近の山城を探索したついでにこの寺(城址)に立ち寄ったのだが、御覧のとおりきれいな桜の花が咲き、思わずデジカメでたくさん撮った。
 この写真の右にある石碑を拡大したものを下に貼る。
 「尼子富田城出城址 全隆寺」と刻まれている。














【写真左】境内の西側にあった石垣
 この城址(寺)に関する説明文のようなものがないため、この石垣が当初からのものか不明だが、大根島の石は特徴的な火山岩のもので、この寺以外に、一般の民家でも石垣が多く見える。



【写真右】境内にある小川右衛門の石碑
 前項に載せた文面は、この石碑の裏に刻印してある。

【写真左】全隆寺本堂全景
 最近改修されたようで新しい。この建物も立派だが、むしろ住職さんの自宅がかなりの年代物で、写真に撮るのはプライバシーの面から遠慮した。建築史的には貴重な建物と思えるのだが…。
【写真左】全隆寺の桜
 入口から本堂までの周囲に多くの桜が咲いていた。とても手入れが行き届いていて、気持ちのいい時間を過ごせた。


◆感想
 残念ながら、城としての遺構はほとんど確認できるものはなかったが、写真にもあるように、寺院全体が非常にきれいで、しかも寺の前が波入という地の湊になっており、前方(南方向)には中海を挟んで、本城である月山富田城のある広瀬方面が見える。

 記録では宍道湖も中海も「海戦」が、度々繰り返されたので、湖底には多くの屍が残っていると思われる。合掌

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