2009年6月12日金曜日

竹崎城跡(たけさきじょうあと)・(島根県奥出雲町竹崎城山)

竹崎城跡 (たけさきじょうあと)

●登城日 2009年3月15日
●所在地 仁多郡 奥出雲町 竹崎 城山
●時代 中世 
●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林 
●指定 未指定
●標高 498 m
●備考 河副城跡
●構種別 溝 その他 
●遺構概要 郭4 堀切 物見曲輪 溝 その他  郭 腰郭 堀切 櫓台?(以上島根県遺跡データベースより)

◆解説

小国城鬼神神社上へ砦の間を走る印賀横田戦(108号線)をさらに斐伊川に沿って登っていくと、竹崎という地区がある。この108号線の左(北)側の丘陵地に竹崎城がある。

 当城についても、ほとんど史料を持ち合わせていないが、前項した鬼神神社砦の稿でも記したように、永正16年(1519)尼子経久が藤ケ瀬城を攻略した際、当城も焼き打ちに遭っている。

 さらに、天正11年(1542)大内氏の富田城攻め惨敗のあと、尼子方がこの竹崎城(村)に、代官として森脇山城守家貞を置き、その傘下として河本某という武将を配置している。

●なお、当城は別名「河副城」ともいわれているが、これは「尼子家五老臣」の一人で、「仁多竹崎」を領治していた「川副美作守源常重」のことと思われる。

 川副氏がどの時期にこの地を治めていたか不明だが、武将の名前が冠されているところを見ると、かなり長い間この地を治めていたと思われる。

●また、断片的な史料だが、横田町誌によると、

 “遂に「新原くずれ」によって毛利氏を退却させ、銀山をとり返した。為清はこの時先陣を切って参加した。同年、竹崎庄の卜藏栄三は、岩屋寺に土地を寄進した。土地を武士が支配している当時として、武士以外のものが土地を寄進することは破格のことであった。卜藏死の財力がそうさせたものだろう。”
 とある。さらに、

 “富田城陥落のおり、尼子氏に仕えていた伯耆の卜藏義範は、十年畑に逃れて百姓となった。このあとが竹崎村卜藏氏に養子となり、惣兵衛と称した。そしてその孫が荒島村開拓の卜藏孫三郎である。永禄10年、安部源太左衛門は、稲田に新しく居を構え、土居の祖となった。”ある。
【写真左】竹崎城遠望 南側の道路から見る。
 写真はその遠望だが、当日この写真の左側から登って行ったが、どうやら遺構がよく確認できた場所は右側にあるようだ。






【写真左】左側の登り口付近 結局この道を上りつめたところには、地元民家の墓地があり、行き止まりとなっていった。
【写真左】郭の一部 上記の墓地より東(右側)へ強引に入っていくと、郭跡らしき場所へ出る。


 杉の植林と野生の竹が混在して、地面の状況は確認しがたいが、凡その形状は把握できる。
【写真左】土塁の一部 前述したように、東側から登って行けば、もう少し多くの遺構を確認できたと思うが、この位置からはここまで踏み込むのが限界だった。


 写真は、南先端部に区画された曲輪と保存状態のよい土塁。
 この土塁の高さはかなりあり、しかも区画が分かりやすい。

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