2009年6月12日金曜日

弘長寺(こうちょうじ)・島根県松江市宍道町東来待

弘長寺(こうちょうじ)

●所在地 島根県松江市宍道町東来待854●開創 弘長3年(1263)
●建立開基 藤原満資(弘長寺院院殿満資道圓大居士)
●備考 北条氏
●探訪日 2008年11月1日

◆解説(参考文献『宍道町史』等)
 山城とは直接関係ないが、前稿まで取り上げてきた奥出雲(横田・仁多)の三沢氏と関係のあった寺院が、当地から相当離れた地である宍道湖岸に建立されている。それが、この「弘長寺」である。

 以下、『宍道町史』を参考に、おもだった流れを記す。
【写真左】弘長寺遠望
 この寺院の奥(南)にさらに行くと、数段の削平地がある。おそらく最盛期には多くの堂や坊があったものと思われる。







 同院の願主となって建立したのは、武蔵国の出身の成田氏で、弘長3年(1263)、同氏総領・左衛門尉藤原朝臣通資(満資)とある。同氏が勢威を保持していた時期は、鎌倉・南北朝期といわれ、その後次第に衰えが出始める。

 途中の経緯は省くが、明応5年(1496)、当時の弘長寺住職・宗順は、縁起以下19通の文書目録、及び10通の文書を作成し、三沢氏に提出している。時期を考えれば、当時三沢氏は、三沢城、すなわち仁多に在城していたころである。

 弘長寺のある宍道来待と、奥出雲仁多・三沢城までの距離は、当時の街道を利用したとすると50キロ前後はあったものと思われる。なぜ、弘長寺が三沢氏に対してこのような行為を行ったか。同町史によると、少し長いが引用させてもらう。
【写真左】当院の由来を記した石碑
 この由来では、承久の乱の後、入部とあるので、論功行賞として地頭を賜り当地へ来た、ということになる。
 また主君である北条重時・時頼の菩提を弔うため当寺を建立した、とある。このことから「寺紋」は北条氏の紋である「丸に三鱗」となっている(下の写真参照)。




”弘長寺が三沢氏と何らかのつながりがあって、その保護と支援を得ようとしたのは間違いないところであろう。

 この時期、来海荘はすでに宍道氏の支配下に置かれていたと考えるが、宍道氏でなく、あえて三沢氏に保護を求めたのにはそれなりの理由があったものと思われる。


 この点で注目されるのは、時代が少し下がるが、戦国期の三沢氏の家臣の中に「成田氏」がおり、それがかつての来海荘・宍道郷地頭・成田氏の末裔と考えられることである。

 南北朝期の成田氏が、奥出雲地方などの領主と結んで、反幕府的な行動を展開し、そのために没落を余儀なくされたと推定されることについては前節で述べた。こうした経過を踏まえて考えると、没落した成田氏一族の中には、奥出雲地方の有力国人・三沢氏の家臣となって、わずかに命脈を保ち、戦国期に至って三沢氏の奉行人として活躍する者もいて、かつての氏寺・弘長寺を再興したいという強い意向があり、弘長寺の側でもこれに頼って寺を再興しようとしたのではないか。


 一方、出雲の鉄を抑えている三沢氏の側にあっても、中海・宍道湖から日本海への流通ルートを確保するため、宍道湖に面して位置する弘長寺との連携には、大きな魅力があり、むしろ積極的にその支援と保護を申し出たのではないか。

 こうした相互の利害や要求が、噛み合うことによって、弘長寺文書の三沢氏への提出ということが起こったのではないか。そして、これを機に、弘長寺は、三沢氏の氏寺・晋叟寺(しんそうじ)(現仁多郡横田町)の管理下に置かれ、したがってまたその宗派も、かつての浄土宗系から、現在のように禅宗(曹洞宗)へと変更されることになったのではないか。とりあえずこのように考えておきたい。”



 こうした流れがあったため、同院の墓地には、三沢氏の始祖名である「飯島氏」や、同氏の家臣であった「石原氏」などの檀家墓が残っている。(下の写真参照)

【写真左】飯島姓の墓














【写真左】石原姓の墓













 なお、現在この地域の名称も「弘長寺」という名称で、寺領的な場所だったかもしれない。成田氏が入部した際、館もしくは山城のような施設を設けていたのではないかと思われるが、島根県遺跡データベースを見る限り、周辺にそうした遺構は記録されていない。


 初期の段階で、地頭クラスのものがどの程度の要害施設を保持していたのかわからないが、弘長寺の南方の山地に、あるいは設置していた可能性もある。


◎関連投稿

 伝・土御門の墓(島根県松江市宍道町東来待浜西)
 土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)

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