2009年10月10日土曜日

里見屋敷(鳥取県倉吉市関金町)

里見屋敷(さとみやしき)

●探訪 2009年9月25日
●所在地 鳥取県倉吉市関金町 字宮の平

◆解説(参考文献:「関金町誌第3集」、「悲運の武将 里見忠義の生涯」中村見自著、など)

 当ブログが取り上げる時代としては、タイトルの性質上中世がその対象となるが、取り上げる武将や一族を追っていくと、この範囲だけでは完結しない場合がある。つくづく、歴史の連続性を感じる。

安房国里見氏

 江戸後期の劇作家・滝沢馬琴(1767~1847)が創作した伝奇小説「南総里見八犬伝」は、永享の乱(1438年ごろ)を題材としているが、この中で登場する人物に安房国(千葉県館山)の里見義実がいる。もともと里見氏は、新田氏を祖とし、新田氏は足利氏とともに源義家を元祖としている。  
 その里見氏はその後、安房を平定後、上総・下総と勢力を伸ばし、6代・義堯のときには、越後の上杉謙信と「房越同盟」を結んで、武田信玄や北条氏康などと交戦した。このころ(天文23年・1554年)が同氏の絶頂期である。

 9代・義康のとき、秀吉の陣に馳せ参ずる機会を逃したことが原因で、上総・下総を取り上げられ、再び安房9万石余となる。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、功をあげ、常陸国鹿島郡3万石を加算、合計12万石の大名となった。

 しかし、義康が31歳で死亡し、10歳の嫡男・梅鶴丸が継ぎ、慶長11年(1606)11月、将軍秀忠の前で元服し、安房守に任じられ、将軍の諱(いなみ)を貰って「忠義」と名乗った。それから5年後の慶長16年、忠義18歳のとき、相模国小田原の城主・大久保相模守忠隣(ただちか)の娘を娶る。(ちなみに、忠隣は大久保彦左衛門の兄・忠世の子である。つまり忠隣は、彦左衛門の甥にあたる。)当時、大久保家は徳川将軍家と縁戚であり、幕閣に絶大な勢力を保持していた。

里見氏伯耆国へ転封

 その忠隣が二代将軍・秀忠のとき、老中であったが、同じ老中である本多忠信と対立、しばしば中傷され、しかも大久保長安の不正事件によって、改易され、近江国に配流される。この事件によって縁戚であるがゆえに、忠義も慶長19年(1614)、安房国9万2千石を没収され、鹿島領の3万石の替地として、山陰伯耆国倉吉に3万石で転封されるちなみに、忠隣は近江彦根の井伊家に預けられたまま、寛永5年(1628)、76歳で亡くなる。

 直接事件にも関わっていないのに、縁戚ということだけで改易され、しかも千葉房総半島の先端から、とんでもなく遠い山陰の地に移住させられたわけである。こうしてみると、後醍醐天皇や後鳥羽上皇などの配流とほとんど変わらない処置である。

 将軍秀忠の前で元服し、偏諱を受け忠義と名乗ったとはいうものの、幕府からみれば里見氏は外様大名の扱いで、江戸からさほど遠くない安房国にいること自体がどうやら邪魔だったようだ。

 慶長19年ごろの幕府の動きをみると、家康最晩年で、2年後の元和2年(1616)に亡くなるが、最大の課題が大阪城にいる豊臣秀頼など豊臣方の扱いだった。

 その前に国内に依然として活動していた高山右近をはじめとするキリスト教徒の弾圧・追放を行い、そのあと11月には大阪冬の陣を開始する。翌元和元年5月、大坂夏の陣で秀頼・淀君を自害させ、豊臣一族を滅亡させる。その1カ月後には、「一国一城令」を布告し、諸大名の動きを完全に抑え込む政策をとっていく。
【写真左】大岳院全景
 倉吉市東町にある。関ヶ原合戦の功により慶長5年、中村伯耆守忠一が米子城にくるが、忠一幼少のため、叔父の中村彦左衛門一栄が後見人として八橋城に入る。
 
一栄慶長9年に卒去し、その子・中村伊豆守栄忠が倉吉に移り、父一栄菩提として「大岳院」を建立している。なお、その後中村氏は嗣子がないため、改易し、倉吉の中村伊豆守も失脚している。

 こうした動きの中で行われた里見氏に対する処置は、幕府にとっては当然の流れだったかもしれない。


館山城の破却

 改易を命ぜられた慶長19年9月9日、幕府は直ちに城請取りとして本多出雲守忠朝、内藤佐馬介政長らを派遣。29日には破却されたという。

 幕府方が当城にやってきたとき、家臣たちは何も抵抗もせず城を明け渡したといわれていたが、一説には、城請取りにきた役人たちと一戦を交え、384人が討ち死にしたという。請取り時、城主・忠義らは江戸にいたものと思われるが、この知らせを当然耳にしたはずで、討ち死にした家臣をそのままにして、素直に幕府の命に従ったのだろうか。384人という具体的な数字が出ていることを思うと、事実のようでもあるが、主君がそのまま何もしなかったというのも不自然である。

【写真左】里見家墓所
 大岳院境内に安置されている。忠義ほか、伯父の正木大膳および里見家家老・堀江能登守も埋葬されている。





伯耆国での忠義その後

 忠義が伯耆国にやってきたのは、同年(慶長19年)の秋の頃で、最初に到着した場所は、大岳院門前神坂村で、現在の倉吉市東町・住吉町の付近、すなわち打吹山城の北麓に当たる。忠義に従い同伴した家臣は20人前後だったという。

 前段で「3万石で転封される」と記したが、この時点では実質4千石または1千石程度だったという。元和3年(1617)3月、池田光政が因幡・伯耆の領主として封ぜられるが、その中の倉吉については家臣の伊木長門守忠貞が同地域を治めることになった。それまでは、建前上忠義が領主だったが、長門守がきたことにより、客分扱いとなり、住まいはさらに東方にある当時の下田中村という場所に移された。ここで約2年程度居住することになる。

 新領主である長門守からは客分扱いとはいえ、実質上幽閉と監視の扱いで、おそらく耐えがたい屈辱感に苛まれたと思われる。2年後、自ら選んだのか、さらなる配流の末か不明だが、忠義らは小鴨川上流部、すなわち久米郡堀村というところに移る。
【写真左】大岳院からみた「打吹山城」遠望





忠義主従終焉地・安房守屋敷

 堀村は現在の関金町にあたり、蒜山(ひるぜん)山麓の北になる。この地に移住した理由は、前記したように不明だが、一般的には鳥取藩による敬遠策といわれている。要するに、里見氏一族を二度と再び公の場に出られないような環境に追いやったわけである。

 元和8年(1622)6月19日、忠義は病魔に侵され、わずか29歳で卒去する。別の伝聞では自刃して果てたというのもある。ほとんどそれに近い状況であったろう。遺骸は公儀の検死を受け、定光寺(倉吉市和田)の河原で荼毘に付され、遺言によって大岳院で葬られた。
 大岳院に祀られている忠義の法名は、以下の通り。

 「雲晴院殿前拾遺心叟凉大居士尊儀」

 忠義が亡くなった跡の処置は、遺臣である印東采女、板倉内記らが行った。
その3カ月後の命日、つまり9月19日、主君忠義の後を追って近臣8人が殉死した
 武士(もののふ)とはいえ、文字通り主君への「忠義」である。
【写真左】里見忠義最後の地とされている旧関金町堀の付近(その1)【写真左】その2:山郷神社
 この神社は、忠義が創建したといわれているが、生活にも困窮していたということから考えると、無理がある。むしろ、のちに地元の人々が同氏を祀るために建立したのではないだろうか。














◆里見八犬伝伝説

 この8人の法名にはすべて、忠義の法名の一字「」がつけられた。大岳院過去帳に次のように記されている。

里見殉死由緒の事
雲凉院 心晴海居士  殉死   徳治郎 事
     心相龍居士  殉死   権八郎 事
     心龍盛居士  殉死   権之丞 事
     心凉晴居士  殉死   安太郎 事
     心晴叟居士  殉死   総五郎 事
     心房州居士  殉死   房五郎 事
     心盛宗居士  殉死   総太夫 事
     心顔梅居士  殉死   堀之丞 事
右殉死八霊戒名也

 現在、当地倉吉堀村では、六人塚、位牌には七霊位、過去帳には八人の名がみえる。

 さて、冒頭で示した滝沢馬琴の伝奇小説「南総里見八犬伝」は、文化11年(1814)から28年もかけて創作されたものである。里見八犬伝の話の時代設定は、永享の乱の頃だが、現在ではこの「八犬」と忠義の後を追い殉死した八人の法名の中の「賢」を、「八賢士」とし、里見八犬伝ゆかりの地として、この倉吉市関金町では紹介している。
【写真左】里見屋敷と呼ばれていたところ
 写真の奥が山郷神社で、写真手前の屋根が下の写真の祠の一部である。

 神社付近からこの場所まで約200m程度もあり、幅は100m程度はある。屋敷の大きさからいえばかなり広い。現在は御覧のように田んぼとなっているが、奥に数軒の家があり、当時忠義を含めた家臣20人前後の屋敷があったというから、幽閉されていたとはいえ、ほどよい所領だったかもしれない
【写真左】屋敷跡西端部にある里見氏を祀った小祠

【写真左】里見屋敷跡から、関金要害山方面を見る
 里見屋敷は写真に見えるように、南方の「関金要害山城」や「草畿山城」を見る位置にあり、丘陵面に立地している。おそらく、忠義らも戦国期の当地(久米郡)の様子を地元の者に聞いていたのであろう。








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