2009年10月26日月曜日

中倉城跡(鳥取県日南町印賀)

中倉城跡(なかくらじょうあと)

●探訪日 2009年10月23日
●所在地 鳥取県日南町印賀
●城主  一条肥前守

◆解説
 前稿「印賀宝篋印塔」の中で、「中倉城跡」のことを少し述べたが、当城に関する史料があまりないため、詳細は不明なものの、関係すると思われることを述べたい。

 所在地である、日南町印賀という場所は、地元の呼び名で別名「日南町大宮」という。前にも述べたように、奥出雲から伯耆にかけては昔から良質の鉄が採れることから、「印賀鋼」発祥の地でもある。

 中倉城については、戦国時代「一条肥前守」の居城であったという。別の資料によると、この印賀地区に、応永年間(1394~1428)に「一条山城」を居城とした同名の「一条肥前守某」がいたとある。

 前記の記録は、印賀宝篋印塔が設置してある「案内板」のもので、後記のものは出典が不明。
 応永年間は足利義満が征夷大将軍を辞任し、その子・義持が後任となったころで、伯耆では、応永元年(1394)8月1日付で、義満が山内通忠に忠節の賞として、同国日野郡伊(印)賀村などを宛行う(山内首藤家文書)とある。

 応永年間に一条氏が最初に入部し、おそらくそのまま戦国期まで同氏が続いてきたということだろう。永禄年間に、日本海側にある「八橋城」を尼子側から奪った毛利元就は、その後同城を南条宗勝に命じて死守すべく、その武将の一人として「一条一助」らを派遣させている。その後天正年間になると、一条氏は南条氏の家臣として活躍しているようで、「一条清綱」という名が見える。

 さて、今回の中倉城だが、そういったことも含めると、中倉城は別名「一条山城」である可能性が高い。
【写真左】印賀宝篋印のある八幡山からの眺め
 中倉城の位置は図の場所だが、どうやら、この山全体が一条山のようだ。後ろの大きな山は鷹入山という。
【写真左】八幡山から中倉城遠望
 中央部の高くなったところがおそらく本丸と思われる。

【写真左】中倉城の左側を見る。
 左の中段部に平坦地が見えるが、公園のようになっていて、その左側傾斜部はスキーができるような大きなスロープがある。

 下の白い建物は、廃校になった旧大宮小学校。
【写真左】上記公園から中倉城麓付近を見る。
 この日は、登城していないが、案内板もなく現在では整備された登城路はないかもしれない。
 本丸の高さは八幡山よりはだいぶ高く見えた。

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