草畿山城(さきやまじょう)
・関金要害山城(せきがねようがいさんじょう)
●探訪日 2009年9月25日
●所在地 鳥取県関倉吉市関金町
●城主 三浦景元
●関金要害山城 標高399m
◆解説(参考:関金町誌第3集等)
現在倉吉市と合併している関金町は、倉吉市中心部から国道313号線(旧美作街道:備中街道)を南下し、蒜山の岡山真庭市に向かう途中の場所で、旧久米郡といわれたところの一部になる。旧久米郡には記録(『伯耆民談記』)によると、主な古城としては次のものがある。
①岩倉山城(小鴨城) : 小鴨荘岩倉村 (中祖小鴨左衛門尉元康築城)
②市場城 : 小鴨荘市場村 (小鴨氏家臣岡田某居城)
③北の城 : 灘郷田村 (城主不明・①の伴城)
④今倉城 : 八代郷今倉村 (吉川元春①の向城として築く)
⑤唯落城(高城 ): 楯縫郷同土村 (国府伯耆守親俊居城)
⑥茶磨山(茶臼山)城 : 北条郷国坂村 (増田玄蕃允、在沢左京亮居城)
⑦堤城 : 北条郷嶋村 (山田出雲守重直累代居城)
⑧倉吉城(打吹山城) : 灘郷倉吉 (山名氏累代居城)
⑨田内城 : 灘郷田内村 (山名時氏居城:投稿済み)
⑩小土産(さつと)山城 : 北条郷小田村 (詳細不明)
このうち、旧関金町については、
①草畿山城、②関金要害山城(仮称)、③亀山城の3カ所が主な古城として記録されている。ただ、関金町誌によると、各山城の比定が確定していないところがあって、今稿取り上げる「草畿山城」も、関金要害山城と混在している点があり、それらを踏まえた上で、紹介したい。
寛保年間(1740年代)に記された『伯耆民談記』という史料には、①と③について次のように記されている。
“草幾山城 南ノ郷泰久寺村にあり。当城には三浦景元居住す。天正の頃南条伯耆守か為に滅亡し畢(おわ)んぬ。当邑(むら)に続きたる大鳥井と云ふ村に、藤井治兵衛と号する百姓あり。
渠か先祖景元籠城の時、粮米を続け志浅からざるにより、景元より太刀一腰を遣わす。其刀今に治兵衛所持すとかや。落城の節、籠城の女童、足弱の族彼藤井か宅へ暫く滞居して、其後方々へ退散すと云えり。近邑に今西と云ふ山里あり。此里に城跡二か所あり。景元要害の砦なりと称す。
【写真左】草畿山城といわれているところの東端部
昭文社版「県別マップル道路地図・鳥取県」などに記されている場所で、清水川(手前)が本流の小鴨川と合流する西南の丘陵地上の山である。
ちなみに明治22年ごろの字名でこの付近も「要害」という地名になっている。以前、この山の登城を試みたが、登り口が分からず断念している。
【写真左】上記東端部に残っている五輪塔
この五輪塔は道端の民家入り口付近にある。
【写真左】同じく、同上の五輪塔より山裾のほうにある五輪塔
これも道路端であるが、一般の畑地の東側で、数は上記の場所より多く、10数基鎮座している。
亀山城
矢遣郷金屋村にあり。当城には外(そと)木(き)久右衛門在住す。亀山元は山王権現の社地なりしを、無双の要害なりとて、社を外へ移し、城を築いて居住せり。然るに幾程もなく尼子の為に落城亡命して跡を断ちければ、全く社地を穢せし神罰ならんと人民沙汰す。其後神の教(さとし)有て、城跡を清め、元の如く山王の社を建て今に権現の宮殿あり。城を築く時社を移せし処を取(とり)越(こし)と云ふ。
社を別所へとりこせし地なるに依って爾称し来るとかや。亀山を今後(ごう)亀山(きやま)と云ふ。是は作州往来の径道を作る時、亀山の頭を平(なら)すに依り、亀頭滅して後(しり)残(へ)ると云ふ意にて後亀山と改称するとなり。近邑に湯関と云ふ処あり。爰(ここ)に八幡の小祠あり。山名小太郎を祝する社なりと称す。当所に温泉有り。並にエグ芋あり。委く郡郷の部に誌す。”
戦国時代から約150年経ってから著されたものであるから、史実をどこまで伝えたものか確証はないが、同町誌によってまとめられた内容をさらに簡単にすると、おおむね次のようなことだと思われる。
①草畿山城について
●三浦景元という武将の居城で、天正の頃(1573~91)、南条伯耆守(羽衣石城)に攻められ滅亡した。
●泰久寺村に近い大鳥居村というところに、藤井治兵衛という百姓がいるが、その者の先祖が草畿山城籠城の時、兵量米を差出しその功によって、三浦景元から太刀を一振りもらったその子孫・治兵衛はそれを現在も持っている。
②関金要害山城について
ところで、『伯耆民談記』とほぼ同じころ記された史料で、元文2年(1737)書記の『伯州村分帳』という史料の中で、この地域である山守郷今西村の条について、以下の記述がある。
【写真左】現地の道路三叉路付近に設置してある山守地区案内図
この図では、中央左の鳥居の絵が描かれている「八幡神社(要害山)」というのが、今稿の「関金要害山」の場所になる。
また、「草畿山城」を祀ったのが、右斜め上にある「唐王権現」ではないかと思われる。 さらに一番左にある「亀井(居)公園」が亀山城跡になる。
“今西村 軒数40軒余 高300石余 高300石余
国司大明神 山口村金屋(谷)村へ丗丁湯関村へ一リヒルセン山ノ麓也
村ヨリ南ニ當テ古城跡アリ城主三浦弾正景元 城内ニ八幡宮有之先年社壇拵申所村方ノ者ニ祟リ有之ニ付社人ニ申付御鬮ヲ引候得バ五尺八寸ノ太刀ヲ帯 居申ニ付小キ社ニテハ難叶候間其通致置候様ニト有之今ニ社無之 並ニ城山ノ 上ノ木ヲ伐レハ祟リ有之由依之木ヲ切事不叶 城山 松河原村 今西村山口村三ヶ村ニテ構申由 南谷也”
【写真左】北側からみた「要害山」遠望
この写真にはないが、前段の「草畿山城」は写真右のほうにある谷をひとつ越えた丘陵地にある。
この記述による同誌の結論は
「村より南に当たって古城跡」の村とは、今西村字本村をいったもので、文面の「南に当たるところに古城跡あり」は、字要害に今も存置されている八幡の小祠を中心とした一帯のことである。
そこが古城の跡で、城主は三浦弾正景元であった。その城内に八幡宮あり、先年その社殿を改修しようとした時、村人に祟りがあるのでクジによって占ったところ、祭神は五尺八寸の太刀を帯びているので、小さい社では相かなわないから、そのままにしておくようにとのことで、今に至るも社は従前通りである。
①の場所から東にある山(八幡山)を指す。便宜上今稿では「関金要害山城」という名称を用いている。
【写真左】登城道付近
要害山に向かう主な道は2カ所あり、今回は東側(関金小学校側)から登る「林道山守矢送線」から向かった。
なお、亀山城については、関金温泉の町東端にそびえる日吉神社の境内付近が城址であったことはほぼ間違いなく、伝承では山名小太郎という山名氏一族の武将が城主だったという。残念ながら当城には現在遺構らしくものはなく、展望台と祠程度が残っているだけである。
【写真左】登城口付近 林道を走っていると、登城口案内板が2カ所あるが、東側のものは看板はあるものの、雑草に覆われていて進入できない。
写真は、西側のもので、車は少し下がったところに空き地があり、そこに停めることができる。
案内板には「八幡神社」というものが建っている。
【写真左】登城途中の案内板
急こう配の道には写真のような階段が設置されているので、登りやすい。ほぼ登り切った付近が尾根になっており、反対側には何もないが、櫓程度のものがあったような雰囲気が残っている。
【写真左】本丸跡その1
上りこう配が終わると、すぐに削平された本丸が見える。奥行きは100m程度はあるとおもわれる。
【写真左】本丸跡その2
右側(北)に展望台兼休憩場があり、左側(南)に社(八幡神社)が祀ってある。
この日訪れたときは、御覧の通り下草が刈られており、歩きやすくなっていた。
【写真左】本丸跡その3
八幡神社の祠
大きさは小さなものだが、かなり年数の経ったものにみえた。倒壊を防ぐために、ごらんのとおり四方から支え柱が設置してある。おそらくこのあたりの積雪や、風雨が厳しいものであるからであろう。
【写真左】本丸跡その4
現地にある説明板。昔は毎年秋になると、一年の収穫に感謝する奉納相撲が行われたという。
地元の情報を詳しくは知らないが、おそらく今でもこの要害山で何かの行事をしているものと思われる。
・関金要害山城(せきがねようがいさんじょう)
●探訪日 2009年9月25日
●所在地 鳥取県関倉吉市関金町
●城主 三浦景元
●関金要害山城 標高399m
◆解説(参考:関金町誌第3集等)
現在倉吉市と合併している関金町は、倉吉市中心部から国道313号線(旧美作街道:備中街道)を南下し、蒜山の岡山真庭市に向かう途中の場所で、旧久米郡といわれたところの一部になる。旧久米郡には記録(『伯耆民談記』)によると、主な古城としては次のものがある。
①岩倉山城(小鴨城) : 小鴨荘岩倉村 (中祖小鴨左衛門尉元康築城)
②市場城 : 小鴨荘市場村 (小鴨氏家臣岡田某居城)
③北の城 : 灘郷田村 (城主不明・①の伴城)
④今倉城 : 八代郷今倉村 (吉川元春①の向城として築く)
⑤唯落城(高城 ): 楯縫郷同土村 (国府伯耆守親俊居城)
⑥茶磨山(茶臼山)城 : 北条郷国坂村 (増田玄蕃允、在沢左京亮居城)
⑦堤城 : 北条郷嶋村 (山田出雲守重直累代居城)
⑧倉吉城(打吹山城) : 灘郷倉吉 (山名氏累代居城)
⑨田内城 : 灘郷田内村 (山名時氏居城:投稿済み)
⑩小土産(さつと)山城 : 北条郷小田村 (詳細不明)
このうち、旧関金町については、
①草畿山城、②関金要害山城(仮称)、③亀山城の3カ所が主な古城として記録されている。ただ、関金町誌によると、各山城の比定が確定していないところがあって、今稿取り上げる「草畿山城」も、関金要害山城と混在している点があり、それらを踏まえた上で、紹介したい。
寛保年間(1740年代)に記された『伯耆民談記』という史料には、①と③について次のように記されている。
“草幾山城 南ノ郷泰久寺村にあり。当城には三浦景元居住す。天正の頃南条伯耆守か為に滅亡し畢(おわ)んぬ。当邑(むら)に続きたる大鳥井と云ふ村に、藤井治兵衛と号する百姓あり。
渠か先祖景元籠城の時、粮米を続け志浅からざるにより、景元より太刀一腰を遣わす。其刀今に治兵衛所持すとかや。落城の節、籠城の女童、足弱の族彼藤井か宅へ暫く滞居して、其後方々へ退散すと云えり。近邑に今西と云ふ山里あり。此里に城跡二か所あり。景元要害の砦なりと称す。
【写真左】草畿山城といわれているところの東端部
昭文社版「県別マップル道路地図・鳥取県」などに記されている場所で、清水川(手前)が本流の小鴨川と合流する西南の丘陵地上の山である。
ちなみに明治22年ごろの字名でこの付近も「要害」という地名になっている。以前、この山の登城を試みたが、登り口が分からず断念している。
【写真左】上記東端部に残っている五輪塔
この五輪塔は道端の民家入り口付近にある。
【写真左】同じく、同上の五輪塔より山裾のほうにある五輪塔
これも道路端であるが、一般の畑地の東側で、数は上記の場所より多く、10数基鎮座している。
亀山城
矢遣郷金屋村にあり。当城には外(そと)木(き)久右衛門在住す。亀山元は山王権現の社地なりしを、無双の要害なりとて、社を外へ移し、城を築いて居住せり。然るに幾程もなく尼子の為に落城亡命して跡を断ちければ、全く社地を穢せし神罰ならんと人民沙汰す。其後神の教(さとし)有て、城跡を清め、元の如く山王の社を建て今に権現の宮殿あり。城を築く時社を移せし処を取(とり)越(こし)と云ふ。
社を別所へとりこせし地なるに依って爾称し来るとかや。亀山を今後(ごう)亀山(きやま)と云ふ。是は作州往来の径道を作る時、亀山の頭を平(なら)すに依り、亀頭滅して後(しり)残(へ)ると云ふ意にて後亀山と改称するとなり。近邑に湯関と云ふ処あり。爰(ここ)に八幡の小祠あり。山名小太郎を祝する社なりと称す。当所に温泉有り。並にエグ芋あり。委く郡郷の部に誌す。”
戦国時代から約150年経ってから著されたものであるから、史実をどこまで伝えたものか確証はないが、同町誌によってまとめられた内容をさらに簡単にすると、おおむね次のようなことだと思われる。
①草畿山城について
●三浦景元という武将の居城で、天正の頃(1573~91)、南条伯耆守(羽衣石城)に攻められ滅亡した。
●泰久寺村に近い大鳥居村というところに、藤井治兵衛という百姓がいるが、その者の先祖が草畿山城籠城の時、兵量米を差出しその功によって、三浦景元から太刀を一振りもらったその子孫・治兵衛はそれを現在も持っている。
②関金要害山城について
ところで、『伯耆民談記』とほぼ同じころ記された史料で、元文2年(1737)書記の『伯州村分帳』という史料の中で、この地域である山守郷今西村の条について、以下の記述がある。
【写真左】現地の道路三叉路付近に設置してある山守地区案内図
この図では、中央左の鳥居の絵が描かれている「八幡神社(要害山)」というのが、今稿の「関金要害山」の場所になる。
また、「草畿山城」を祀ったのが、右斜め上にある「唐王権現」ではないかと思われる。 さらに一番左にある「亀井(居)公園」が亀山城跡になる。
“今西村 軒数40軒余 高300石余 高300石余
国司大明神 山口村金屋(谷)村へ丗丁湯関村へ一リヒルセン山ノ麓也
村ヨリ南ニ當テ古城跡アリ城主三浦弾正景元 城内ニ八幡宮有之先年社壇拵申所村方ノ者ニ祟リ有之ニ付社人ニ申付御鬮ヲ引候得バ五尺八寸ノ太刀ヲ帯 居申ニ付小キ社ニテハ難叶候間其通致置候様ニト有之今ニ社無之 並ニ城山ノ 上ノ木ヲ伐レハ祟リ有之由依之木ヲ切事不叶 城山 松河原村 今西村山口村三ヶ村ニテ構申由 南谷也”
【写真左】北側からみた「要害山」遠望
この写真にはないが、前段の「草畿山城」は写真右のほうにある谷をひとつ越えた丘陵地にある。
この記述による同誌の結論は
「村より南に当たって古城跡」の村とは、今西村字本村をいったもので、文面の「南に当たるところに古城跡あり」は、字要害に今も存置されている八幡の小祠を中心とした一帯のことである。
そこが古城の跡で、城主は三浦弾正景元であった。その城内に八幡宮あり、先年その社殿を改修しようとした時、村人に祟りがあるのでクジによって占ったところ、祭神は五尺八寸の太刀を帯びているので、小さい社では相かなわないから、そのままにしておくようにとのことで、今に至るも社は従前通りである。
①の場所から東にある山(八幡山)を指す。便宜上今稿では「関金要害山城」という名称を用いている。
【写真左】登城道付近
要害山に向かう主な道は2カ所あり、今回は東側(関金小学校側)から登る「林道山守矢送線」から向かった。
なお、亀山城については、関金温泉の町東端にそびえる日吉神社の境内付近が城址であったことはほぼ間違いなく、伝承では山名小太郎という山名氏一族の武将が城主だったという。残念ながら当城には現在遺構らしくものはなく、展望台と祠程度が残っているだけである。
【写真左】登城口付近 林道を走っていると、登城口案内板が2カ所あるが、東側のものは看板はあるものの、雑草に覆われていて進入できない。
写真は、西側のもので、車は少し下がったところに空き地があり、そこに停めることができる。
案内板には「八幡神社」というものが建っている。
【写真左】登城途中の案内板
急こう配の道には写真のような階段が設置されているので、登りやすい。ほぼ登り切った付近が尾根になっており、反対側には何もないが、櫓程度のものがあったような雰囲気が残っている。
【写真左】本丸跡その1
上りこう配が終わると、すぐに削平された本丸が見える。奥行きは100m程度はあるとおもわれる。
【写真左】本丸跡その2
右側(北)に展望台兼休憩場があり、左側(南)に社(八幡神社)が祀ってある。
この日訪れたときは、御覧の通り下草が刈られており、歩きやすくなっていた。
【写真左】本丸跡その3
八幡神社の祠
大きさは小さなものだが、かなり年数の経ったものにみえた。倒壊を防ぐために、ごらんのとおり四方から支え柱が設置してある。おそらくこのあたりの積雪や、風雨が厳しいものであるからであろう。
【写真左】本丸跡その4
現地にある説明板。昔は毎年秋になると、一年の収穫に感謝する奉納相撲が行われたという。
地元の情報を詳しくは知らないが、おそらく今でもこの要害山で何かの行事をしているものと思われる。
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