千手寺(せんじゅじ)と
長尾隼人の五輪塔
●探訪日 2009年10月16日
●所在地 広島県庄原市東城町川東123
●創建 天平年間(729~749年)
●宗派 臨済宗⇒曹洞宗
千手寺と長尾隼人
前稿の「五品嶽城」を取り上げた際、少し触れているが、今稿では当寺と五品嶽城主・長尾隼人について触れてみたい。
千手寺の創建時は前記したように天平年間で、中世前期(貞治年間1360年代)にこの地域を治めた宮氏が開基となり、道済開山により中興され、臨済宗の寺となる。
その後一時寂れたが、戦国期石見から赴任してきた佐波氏によって、永禄年間(1560年~)復興される。このとき、よくあるパターンだが、臨済宗から曹洞宗へと改宗される。
五品嶽城との関係は、佐波氏時代に寺領を寄進されたことがあるが、現在では関ヶ原合戦後、芸備の太守となった福島正則の家老の一人・長尾隼人正一勝が当城の城主となったことが縁で、彼を偲ぶ行事がいまでも行われているという(毎年秋に行われる「お通り」の武者行列など)。
長尾隼人正一勝は、東城町の街づくりを計画し、その原型が今日まで残っている(武家屋敷跡)という。また、彼は菩提寺をこの千手寺とし、祈願寺を法恩寺として、大般若経を寄進した。さらに徳了寺の敷地を寄進、帝釈の永明寺には鰐口を寄進するなど、寺院の保護にも務めた。
【写真左】東城町周辺案内図
町の道の駅駐車場内に設置されている。この図では千手寺は書かれていないが、「長尾隼人の墓」は中央の上段に示してある。
長尾隼人の元の名は、「山路久之丞」というものだったが、福島正則がその名前は、相性が悪いといって改名させたという。
どういう根拠で変えさせたのか分からないが、その後彼は福島正則を生涯の主として仕えようとした。戦の際は常に先陣を切って功をあげるが、たび重なる負傷で、特に口の周りには戦の際、矢が突き刺さり、不具合な面相(欠唇)だったという。
彼については未だいろいろなエピソードがあるようだが、機会があったらもう少し彼について調べてみたい。
【写真左】千手寺の塀
この寺は五品嶽城の東で、ちょうど正対する位置になる。
ところで、福島正則の家来には彼のほかに、福島丹波や塙(ばん)団右衛門など、人を引き付ける武将が多くいたようだ。
塙団右衛門は改易後、広島可部郷で野だたらの経営を行い、のちに島根県奥出雲仁多で「奥出雲三大鉄山師」の一人・桜井氏の祖となっている。
【写真左】千手寺からみた五品嶽城遠望
千手寺の場所も高台にあるため、眼下には東城の町並みが見え、西正面に五品嶽城が見えるという眺望のいい場所である。
【写真左】千手寺本堂
【写真左】長尾隼人の五輪塔
当院の墓所の一角にあるが、この位置からも五品嶽城が見える。建立したのは、息子であるが、そのスケールの大きさはこの地方では最大ではなかろうか。
墓の大きさで実績を評価するわけではないが、どちらにしても並の武将ではなかったようだ。
【写真左】上記に続く 文字を判読しようとしたが、かなり溝がつぶれていて読めない。
※関連投稿
本願禅寺及び衆楽園(岡山県津山市山)参照
長尾隼人の五輪塔
●探訪日 2009年10月16日
●所在地 広島県庄原市東城町川東123
●創建 天平年間(729~749年)
●宗派 臨済宗⇒曹洞宗
千手寺と長尾隼人
前稿の「五品嶽城」を取り上げた際、少し触れているが、今稿では当寺と五品嶽城主・長尾隼人について触れてみたい。
千手寺の創建時は前記したように天平年間で、中世前期(貞治年間1360年代)にこの地域を治めた宮氏が開基となり、道済開山により中興され、臨済宗の寺となる。
その後一時寂れたが、戦国期石見から赴任してきた佐波氏によって、永禄年間(1560年~)復興される。このとき、よくあるパターンだが、臨済宗から曹洞宗へと改宗される。
五品嶽城との関係は、佐波氏時代に寺領を寄進されたことがあるが、現在では関ヶ原合戦後、芸備の太守となった福島正則の家老の一人・長尾隼人正一勝が当城の城主となったことが縁で、彼を偲ぶ行事がいまでも行われているという(毎年秋に行われる「お通り」の武者行列など)。
長尾隼人正一勝は、東城町の街づくりを計画し、その原型が今日まで残っている(武家屋敷跡)という。また、彼は菩提寺をこの千手寺とし、祈願寺を法恩寺として、大般若経を寄進した。さらに徳了寺の敷地を寄進、帝釈の永明寺には鰐口を寄進するなど、寺院の保護にも務めた。
【写真左】東城町周辺案内図
町の道の駅駐車場内に設置されている。この図では千手寺は書かれていないが、「長尾隼人の墓」は中央の上段に示してある。
長尾隼人の元の名は、「山路久之丞」というものだったが、福島正則がその名前は、相性が悪いといって改名させたという。
どういう根拠で変えさせたのか分からないが、その後彼は福島正則を生涯の主として仕えようとした。戦の際は常に先陣を切って功をあげるが、たび重なる負傷で、特に口の周りには戦の際、矢が突き刺さり、不具合な面相(欠唇)だったという。
彼については未だいろいろなエピソードがあるようだが、機会があったらもう少し彼について調べてみたい。
【写真左】千手寺の塀
この寺は五品嶽城の東で、ちょうど正対する位置になる。
ところで、福島正則の家来には彼のほかに、福島丹波や塙(ばん)団右衛門など、人を引き付ける武将が多くいたようだ。
塙団右衛門は改易後、広島可部郷で野だたらの経営を行い、のちに島根県奥出雲仁多で「奥出雲三大鉄山師」の一人・桜井氏の祖となっている。
【写真左】千手寺からみた五品嶽城遠望
千手寺の場所も高台にあるため、眼下には東城の町並みが見え、西正面に五品嶽城が見えるという眺望のいい場所である。
【写真左】千手寺本堂
【写真左】長尾隼人の五輪塔
当院の墓所の一角にあるが、この位置からも五品嶽城が見える。建立したのは、息子であるが、そのスケールの大きさはこの地方では最大ではなかろうか。
墓の大きさで実績を評価するわけではないが、どちらにしても並の武将ではなかったようだ。
【写真左】上記に続く 文字を判読しようとしたが、かなり溝がつぶれていて読めない。
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本願禅寺及び衆楽園(岡山県津山市山)参照
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