2009年10月21日水曜日

芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)

芦屋城(あしやじょう)

◆登城日  2008年6月16日(月曜日)曇り
◆城主   塩冶周防守
◆標高   175.7m
◆所在地  兵庫県美方郡新温泉町浜坂城山公園

◆解説(現地説明板より)

町指定史跡 芦屋城跡
    指定年月日 昭和60年3月1日
    所有者・管理者 芦屋区 他


 芦屋城は、戦国時代の武将・塩冶周防守が居城にしていた城で、周囲を断崖絶壁に囲まれた地形は、天然の要害となっており、海上交通を抑えるために築かれた城である。

 芦屋城は、天正8年(1580)、羽柴秀吉が但馬を攻めたとき落城した。城主・塩冶周防守は、鳥取城主・吉川経家を頼り、翌年羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、再び鳥取の雁金城と丸山城で戦ったが、いずれも落城し、自決した。

 昭和59年発掘調査が本丸部分について行われ、建物跡や青磁・白磁・天目茶碗、古銭・硯などが多数出土した。

平成9年3月 ○●教育委員会“(雑草のため読めず)
【写真左】芦屋城の配置図
 相当年数の経った案内配置図で、ツギハギの個所もあるが、参考になる。















◆追加資料
 地元・新温泉町教育委員会のサイトから転載の情報を下記に追加する。

“「塩冶周防守顕彰碑


 塩冶周防守は芦屋城を居城とした城主で、天文8年(1539)に亡くなり、芦屋の龍潜寺に開基として位牌が祀られています。 この碑は、昭和4年昭和天皇御大典記念に芦屋区が塩冶周防守の治世を偲び建てたものです。

 芦屋城は、周囲を海と断崖絶壁に囲まれた標高170mの山頂にあり、海上交通を押さえるために築かれた城です。

 子孫の塩冶周防守高清は城主として水軍の将・奈佐日本助、佐々木三郎左衛門と共に活躍しました。天正9年(1581)羽柴秀吉軍が但馬を攻めたとき芦屋城は落城し、高清は鳥取城主吉川経家を頼り、翌年鳥取城の出城雁金城や丸山城を守りました。


 再び羽柴秀吉軍と戦ったが、鳥取城の落城により高清は、奈佐日本助とともに丸山城で自決しました。高清と奈佐日本助の墓は、丸山城の麓に祀られています。

・建立年月日 昭和4年
・碑文 碑面 城主塩冶周防守之碑   碑陰 光照院殿梅月宗香大禅定門
         天文八年己亥五月八日逝去
・揮毫 不明
・建立者 芦屋区
-問い合わせ-
新温泉町教育委員会 社会教育課”



なお、龍潜寺という場所にはこの日は向かっていない。
【写真左】車で登った駐車場から見た「風待ち湊 諸寄港」という場所
 北前舟などの寄港地でもあったようで、江戸時代はかなりの繁栄を見せていた。

 なお、この駐車場までは車でいけるが、その先もポールと鎖で通行止めがしてあるものの、頂上部にテレビ塔があるためか、軽自動車の四駆なら登れそうな道である。



【写真左】駐車場から見た芦屋城遠景
 駐車場は展望台と兼ねている。写真はその場所から見た芦屋城の光景。


 高さは175m余りなので、この駐車場でほぼ半分の80mぐらいの高さに来ていると思う。

【写真左】登城口付近の看板
 左方向: 城山園地と岡垣徹冶歌碑
 右方向: 塩谷海水浴場0.4キロ
 加藤文太郎記念碑0.9キロ
 右斜め方向: 芦屋城跡0.6キロ


 ポールそのものには、「近畿自然歩道」とある。
なお、この地域一帯には歌碑が多くあり、俳句や川柳などが盛んのようだ。


【写真左】登城途中の道路面
 簡易舗装でコンクリートになっているが、周辺の雑草は相当延びている。近年はあまり整備されていないようだ。

【写真右】頂上付近の下にあるテレビ塔2基のうちの一つ
 このテレビ塔はたしか、NHK用だったと思う。おそらく当時は郭の一部だったかもしれない。

【写真左】本丸跡
 広さは雑草が多くてつかみにくいが、幅10m、奥行30mぐらいだろうか。写真の奥にあるものは、もう一つのテレビ塔。

【写真右】本丸跡で見つけた石垣の跡と思われる数個の石
 写真では分りにくいが、北側の海端の位置にまとまった石の塊があった。


【写真左】本丸跡から見た新温泉町・浜坂の港(東方面)
 向こうに見える山は、観音山というらしい。頂上部には、観音山相應峰寺本堂というものがある。

【写真左】本丸跡から見た北にある山
 この山の名前は不明だが、おそらくこの山も当時芦屋城の出城や砦の役割を果たしていたと思われる。
【写真右】本丸の東側に見えた登山道路?
 一般の登城者は、舗装された道を登っていくが、雑草に覆われた本丸の東側崖に写真のようなロープが設置してあり、登山専門の道のように見えた。
【写真左下】本丸の場所とは別の西に郭があり、その脇に見えた井戸跡
 どちらにしても訪れた時期も悪いが、雑草や藪こぎ状態の山城で、下の看板では「公園」と表示している割にほとんど清掃されていないので、遺構の確認さえも困難。


 唯一、この井戸付近は岩が多かったこともあり、はっきりと確認できた。この周りにも休憩用のベンチが設置してあるが、草やカヤなどが繁茂していて、よっぽど草刈り機で刈り取りしたい気持ちになった。





◆まとめ

 現地の状況は写真で示した通りで、2008年の6月に訪れている。時節柄周辺の雑草が繁茂しているが、しばらく手入れがされていないような雰囲気だった。

 この山城もだんだんと忘れ去られようとしているような感じがする。やはり地元に郷土史家や山城の愛好者がいないと、こうした史跡の保存管理はなかなか容易でないようだ。しかも昨今の自治体の財政難もあり、こうした史跡の方にカネが回らないのだろう。

 さて、この芦屋城の城主・塩冶周防守については、以前から気になっていた。というのも、後醍醐天皇が隠岐から脱出して京へ上洛し、建武の新政をおこなった南北朝初期、出雲の塩冶高貞が活躍しており、この塩冶氏との関係がどうなのか、興味があった。

 その結果、結論からいえば、史料がなくはっきりしたことはいまだに分からない。 塩冶という姓名から、出雲・塩冶氏と関係があるかと思われるのだが…

 考えられる説は次の二つだろう。

① もともとこの塩冶周防守と名乗っている人物は、地元の海賊・水軍の出自で、出雲の塩冶の名を名乗っただけのもの、という説。

② この芦屋城主・塩冶の系譜をたどると、やはり塩冶高貞につながるという説。

 ただ、私は②の説のほうをとりたい。というのも、①のような説ではあまりにも雑な論で、意味もなく「塩冶」という姓を名乗ることはないと思われる。また、時代がすでに高貞時代から200年以上も経っているが、本人(高貞)の庶流は残っていたはずで、中で同じ山陰沿岸にすむ者が出てきてもおかしくないからである

 今回もう一人の「 奈佐日本助(ナサニホンノスケ、またはナサヤマトノスケ)」という人物も興味ある人物である。

 これまで主に西日本の戦国記関係の資料を読んでいるとき、時々登場していたこの「奈佐日本助」という人物が、名前からして特異に思われ、興味を持っていたが、やっとこの男の人物像が分かってきた。

 それは、地元の海賊で一説には「但馬の水軍」又は「丹後の水軍」といわれたらしい。近くにこの彼の本城「奈佐城」というのもあったらしく、村上水軍ほどでないにせよ、山陰東部の沿岸部では相当の支配力を有していたようだ。

 最後は、塩冶氏と同じく、秀吉の鳥取城攻めの際、毛利方に与し、ふたりとも出城の「丸山城」で、吉川経家と同じく自刃する。その供養塔が現地にもある(探訪済み)。

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