2018年8月17日金曜日

山名寺・山名時氏の墓・その2(鳥取県倉吉市厳城)

山名寺・山名時氏墓・その2

●所在地 鳥取県倉吉市磐城
●山名寺創建 延文4年(1359)光孝報恩禅寺、戦国末期衰退し、慶長10年(1605)再興。
●創建者 山名時氏(光孝報恩禅寺)、倉吉城主中村伊豆守再興(山名寺)
●参拝日 2009年8月26日、及び2018年8月10日

◆解説
 山名寺・山名時氏の墓については、既に山名寺・山名時氏墓・その1(鳥取県倉吉市巌城)で紹介しているが、今回9年ぶりに再訪したので、前稿で紹介していなかった事柄などを中心に述べたいと思う。
【写真左】山名時氏の墓
 墓石の前には、「六分ノ一殿 山名家始祖 山名伊豆守時氏公之墓」と刻銘された石碑が建つ。
 左奥の墓が時氏の墓。




 先ず、縁起等については、前稿で触れていなかったので、当院境内に設置されている梵鐘の説明板を参考に触れておきたい。

“梵鐘再鋳の記

 当寺の淵源は、延文4年(1359)山名時氏公により創建されし、光孝報恩禅寺にあり。戦国末期、山名氏の滅亡により衰退、慶長10年(1605)倉吉城主中村伊豆守再興して、清淨山山名寺としょうせらる。
【写真左】山門
 山名寺は東方を流れる天神川と合流する支流小鴨川の北岸に所在し、それと並行する三明寺用樋門から流れてくる北条用水を渡り、厳城の山の斜面に建立されている。


 嘉永年間、伽藍焼失し明治維新を迎え、廃寺とされしも天瑞龍雲大和尚は、檀徒を糾合して明治12年(1879)大本山總持寺独住第一世旃崖奕堂(せんがいえきどう)禅師を拝請開山となして再興して現在に至る。
 明治16年に梵鐘を鋳造、その妙音は近郷に響けり、然るに大東亜戦争末期供出を命ぜられ雄途につき遂に再び妙音を聞く能わず。
 戦後幾度か再鋳の議起こるも機未だ熟さず、今漸く機縁熟し、檀信挙って喜捨し、再鋳の運びとなる。
【写真左】新しく設置された梵鐘
 平成の世になってやっと再鋳となった梵鐘。
右側には「ご自由にお撞きください」とかかれた標示がある。




銘白
一撞梵音  為海潮音  撞者聴者  

浄心一現  心身平安  種智円満

銘ニ曰く
ヒト撞キノ梵音ハ  海潮音トナリ  撞ク者モ聴ク者モ
浄心ハ一現シ  身モ心モ平安ニシテ  種智円満ナランコトヲ

平成15年夏

   幻住  黙山俊堂   誌”

【写真左】山名寺本堂
 山号:清淨山(しょうじょうさん)
 落ち着いた境内である。










光孝寺と山名寺

 この説明板によれば、現在の山名寺が創建されたのは、倉吉城主であった中村伊豆守が慶長10年(1605)に再興したとされる。倉吉城とは打吹山城(鳥取県倉吉市)のことだが、中村伊豆守は、関ヶ原後伯耆米子城(鳥取県米子市久米町)に入封した中村一忠の一族である。

 これに対し、山名寺が再興される前にあったのが、脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)でも述べたように、光孝報恩禅寺(光孝寺)である。
 これは、山名時氏が延文4年(1359)、上野国(群馬県)から臨済宗の時の名僧・南海宝州を招いて建てたもので、南海宝州は、上野国世良田の長楽寺単寮より法を受けたのち、正中2年(1325)、小倉村(現桐生市川内町)に摂化伝道に努め瑞雲山東禅寺を開創した。
【写真左】時氏の墓に向かう。
 本堂の手前にある道を西に向かう。左側に案内板があるが、これには「ハイキングコース 三明寺古墳上り口」と書かれ、時氏の墓の案内は出ていない。


 因みに、時氏は幕府成立直後から尊氏に属していたが、観応の擾乱の際には直義側に加わり、尊氏派と激しい戦いを繰り広げていた。また一時は直冬派にも加勢していたが、最終的には貞治2年(1363)幕府の軍門に降ることになる。

 従って、光孝寺を創建したころは不安定な時機であったが、この前年(延文3年・1358)足利尊氏が京都二条萬里小路で没したことや、時氏と同じ新田一族で興国3年(1342)に亡くなった脇屋義助の菩提を供養する思いもあり、わざわざ自らの出身地・上野国から南海宝州を呼び、光孝寺を建てたものと推測される。
【写真左】墓石群・その1
 途中には歴代住職の墓などが点在している。
 写真の右側には五輪塔群などもある。

【写真左】歴代住職の墓
 上の墓石群とは別に、住職の墓が整然と並んでいるが、これらは山名寺時代のものだろう。このため、上の写真のものは光孝寺時代の住職のものかもしれない。


 因みに、時氏は応安4年(1371)に亡くなることになるが、「光孝寺殿鎮国道静大禅定門」の戒名はこの光孝寺、及び貞治5年(1366)に出家したときの法名「道静」から来ている。

 ところで、光孝寺の所在地についてははっきりしないが、現在の山名寺とほぼ同じ場所とされている。ただ、山名寺の裏に建立されている時氏の墓がもともと、山名寺の所在する厳城から東麓を流れる天神川を北へ凡そ2.5キロほど下った小田のJR山陰線沿いにあったことから、光孝寺もその近くにあったという可能性もある。
【写真左】山名氏関係の墓石群
 歴代住職の墓石群の近くには「山名氏関係の墓石群」が置いてある。
 墓石部位が散在したような状況だが、現地には次のような説明文が掲示してある。


“山名氏関係の墓石群
 境内のあちこちにあったのを集めたもの。室町時代の特徴を表す一石五輪塔や宝篋印塔がある。
 また生前に造った逆修塔には「慶長」の年号が入っている。
 奥に宝篋印塔の笠の部分だけたくさん残っているが、四角い塔身や台座は他に使用したようだ。
 前列の頭の丸い石塔は、卵塔とよび歴代住職の墓石である。
    平成23年4月”


 なお、明治12年、現在の山名寺を再興したときの拝請開山である独住第一世旃崖奕堂禅師の大本山總持寺とは、曹洞宗大本山總持寺のことで、所在地は神奈川県横浜市鶴見区鶴見にあり、曹洞宗の二大本山の一つである(もう一つは福井県の永平寺)。
【写真左】更に上に向かう。
 この坂を登ると時氏の墓に到る。
【写真左】山名時氏の墓・その1
 以前訪れたときとほとんど変わらないが、中央部の塔身がさらに細くなった印象がある。
 おそらく上部の相輪と下部の基礎・返花座の石質とは違って、劣化・摩耗しやすい石材が使われているのだろう。
【写真左】山名時氏の墓・その2
 横から見たもので、塔身部がさらに細く見える。
 ところで、山名寺・山名時氏墓・その1では触れていなかったが、時氏が亡くなった場所は当地(伯耆国)ではなく、京都であったといわれる。

 現地の石碑横にも、戒名と併せ、「応安4年4月28日 京に於て歿す」と記されている。そして当時守護国の一つであった丹波で荼毘に付され、遺骨がこの光孝寺に運ばれ埋葬されたわけである。

 なお、時氏の墓の傍らには左右に小さな五輪塔が寄り添っているが、おそらく時氏の身の回りの世話をしていた家臣(小姓か)のものだろう。時氏亡きあと、殉死したのだろう。


花かつみ由来

 ところで、山名寺境内には伯耆国からもたらされたアヤメ科の一種・花かつみの由来が記されている。
説明板より

“山名寺 花かつみ由来
       倉吉市教育委員会

 古歌に詠う「花かつみ」は諸説あるが、愛知県阿久比町ではアヤメ科のノハナショウブを「花かつみ」と呼んでいる。
 この花は、室町時代に伯耆国からもたらされたと伝わっており、伯耆国守護山名教之の娘、鶴姫が慕い続けた武将一色詮徳(あきのり)に手渡し息絶えたという伝説がある。
【写真左】花かつみの説明板
 境内周辺部をざっと見渡したが、この日は花かつみを確認できなかった。



 今のところ市内での自生は確認できないが、この由来を知った東海鳥取県人会のお力により、平成22年6月13日同町から倉吉市に贈呈され、ここ山名寺に移植した。
 この寺は山名氏の始祖で伯耆守護でもあった山名時氏が創建した光孝寺に由来し山名氏ゆかりの寺である。
 ここ500年の時を経て「花かつみ」は故郷に里帰りした。
    平成23年3月25日設置”

 山名教之は瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)で紹介したように、山名時氏の子・師義から数えて4代目の伯耆守護職で、応仁の乱で活躍した。
【写真左】打吹山城遠望
 山名寺の梵鐘付近から南に打吹山城が見える。

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