2009年9月29日火曜日

二上山城・その2

二上山城・その2


◆解説(参考文献「岩美町誌」)
 前稿で当城の概要を記したが、今稿では補足事項や、当城に関わった周辺の状況を紹介したい。

●二上山城のある岩美町には、南北に流れる小田川という川があるが、昭和10年ごろ同川の改修工事をしていたところ、城の東側にいけられたと思われる経筒(きょうづつ)が発掘された。

 調べたところ、二上山城には城の鎮護のため、東西南北の山麓に法華経の経筒が埋められていたようで、件の物はそのうちの一つだという。

 これまで登城した山城で、そうした経筒が埋められていたという事例はあまりなく、むしろ珍しいものではないだろうか。もっとも当城または山名氏を祀った神社らしきものがないことから、案外こうした行為で代用したかもしれない。

●文政元年ごろに発行された『古城跡志上』に、二上山城について下記のように記されている。

“岩常村二神古城跡
 竹木草有、谷々水多、山の後に林有、山上に以前は井(戸)有由今はなし、山険阻にして巌石有、容易に登山ならず。高百二十二間、山鼻より山上まで上り六町二十五間、大山也。

 東南の前通り小田谷の往来あり。北側山裾に粟谷村に通る山越えの間道あり。南側に蔵見村に越山越えの間道あり。西北山続き岩本村より河崎村まで小船通じ、右村に近く新井村古城に通路よし。”

【写真左】二上山城本丸付近遠望











岩常道場

 文和3年(1354)の神南合戦の際、時氏は因幡勢を引き連れ、淀河畔の山崎西方にある神南山に陣取る佐々木導誉を攻めるべく、翌文和4年2月決行した。最初は山名勢が優勢だったが、次第に劣勢となり、ついに山名氏および因幡勢宗徒の侍84名、その一族郎党263人が討ち死にした。

 大将であった時氏の子・師義はこれをなげき、討ち死にした侍の名を書き残し、因幡岩常の道場へ送り、追善を営んだという。この様子が「太平記巻32、神南(山)合戦ノ事」に記されている。


“一陣二陣忽ちに攻め破られて、山名いよいよに乗ければ、峰々にひかえたる国々の集勢共、未だ戦わざる先に捨て鞭を打て落ち行ける…(以下省略)”


 この「岩常の道場」という場所がどこにあったかについては、明らかにされていないが、現在の二上山城の北北西約1.5㎞付近で、小田川支流である満願寺川上流部の本庄・向山付近であるといわれている。

 満願寺という寺はすでにないが、山名氏の菩提寺とされている。また現在でも地名として玄海坊・大教坊・茶屋谷・マサカリ坊などというものも残っている。


【写真左】前稿で述べた二上山城麓を走る道路の峠付近の二上山トンネル
 写真は鳥取市側からみたもの。二上山城はこの写真の左上に当たる。




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