2010年4月16日金曜日

二ツ山城(鳥取県鳥取市福部町湯山)

二ツ山城(ふたつやまじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市福部町湯山
●登城日 2010年3月5日
●築城期 天正年間(1573~92)
●築城者 篠部周防守
●標高 109m
●形式 平山城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)

 鳥取県で有名な観光地の一つ「鳥取砂丘」の東方に小ぶりな山が二つある。西の山を二ツ山といい、東の山を一ツ山という。いずれも戦国期の平山城であったという。
 現在その中間の平場にはオアシス広場と命名された公園や運動場が設置されている。
【写真左】二ツ山城遠望
 北東部のオアシス広場側から見たもの









 当城の概要については、余り詳細な記録は残っていないが、「日本城郭大系14巻」(新人物往来社)に次のように記されている。

“二ツ山城は、福部砂丘の中にある標高109mの二ツ山にあった。山上には約10aの平地があり、東北を大手としている。

 当城は篠部周防守の居城で、天正の頃、羽柴(豊臣)秀吉に忠勤を励み、鳥取城攻撃に際しては先頭にたって戦ったが、鉄砲の弾に当たって討死した。そのため、二ツ山城は篠部周防守一代で廃城となった。”
【写真左】鳥取砂丘周辺マップ
 図の中央上部に二ツ山が明記されている。









 また、「因幡誌」には、二ツ山の東方にある一ツ山も、二ツ山の支砦であったと記されている。当時の山の名称は、二ツ山を「小松山」といい、一ツ山を「孤山」としている。

 秀吉の因幡侵攻(鳥取城攻め)が開始されたのは、天正8年(1580)からである。この年1月、以前紹介した三木城の別所長治を攻め、17日に落城させ、同年6月因幡国への本格的な侵攻が始まる。
 この年は結局、鳥取城を落とすことはできなかった。明けて天正9年の秋、同城を包囲し、兵糧攻めを行い、代理城主だった吉川経家が自害し、10月25日落城したとある。
【写真左】二ツ山城の西側から鳥取砂丘を見る
 本丸の西側にも頂部があり、その場所から見たもの。低山の割に眺望はいい。






 二ツ山城の城主・篠部周防守については、その出自などほとんど記録が残っていない。また二ツ山城についても、「因幡誌」には前掲の記述は残っているものの、「因幡民談記・秀吉公鳥取城攻陣取図」などには、地理的に離れていることもあって、図示されていない。

 こうしたことから、使用された期間は、築城から廃城まで極めて短期のものだったと思われる。

【写真左】二ツ山から東方に、一ツ山(右の小山)と、左奥に駟馳山を見る。
 一ツ山の手前の広場がオアシス広場で、駟馳山の奥には以前紹介した「桐山城」が控える。
【写真左】本丸と西側頂部の間の堀切
 麓は鳥取砂丘の近辺であることから砂質系だが、登るにつれて岩盤質のものが多くなる。
 短期間に造られたことから、施工精度はよくない。写真にある堀切も、東部(本丸)と西部(二の丸か)をつなぐ鞍部をさらに掘削したものだろうが、大分堆積してきているようだ。
【写真左】本丸付近
 三角点があるが、実際にはこの写真の左側に大きな岩が突出し、その岩の頂部が最高所になる。
さらに、反対側(下段の写真参照)が切崖状態になっている。
 本丸の規模は小規模で4m四方程度だろうか。
【写真左】本丸下の郭から見上げる
 遺構としては、むしろこの写真の郭付近から北に少し伸びた区域の方がよくわかる。
 この位置から20m程度北に伸びる尾根を進んでいくと、途中で尾根が切れ、断崖絶壁の切崖となっている。
 場所的にも日本海が眼下に見下ろせる位置なので、北(海)からの攻撃を意図したものだろう。

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