2014年10月8日水曜日

伊甚神社(島根県松江市宍道町伊志見)

伊甚神社(いじむじんじゃ)

●所在地 島根県松江市宍道町伊志見
●創建 天平5年(733)以前
●主祭神 大歳神(おおとしかみ)
      稲倉魂命(うがのみたまのみこと)
      武御名方命(たけみなかたのみこと)

●境内合祀 美濃神社
●通称 三社大明神

◆解説(参考文献「宍道町史「通史編上巻」」等)
 このところ尼子氏及び京極氏関係の投稿を続けてきているが、今稿ではいささか唐突ながら、以前取り上げた出雲国の伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)に祀られている伊甚神社をアップしておきたい。
 というのも、地元伊志見地区(郷)の氏子の皆さんによって、先般(2014年10月4日、5日)、55年ぶりに遷宮(奉賛事業)が行われたからである。
【写真左】新しくなった伊甚神社本殿
 本殿をはじめ、幣殿・拝殿・玉垣がリニューアルされ、参道・石段・スロープなど外構工事も併せて行われた。




伊甚神社

 前回、遷宮が行われたのは、昭和34年4月だといわれている。当時から氏子は40名前後と少なく、郷社・村社としてもその規模は小さく、当然ながら、昨年行われた式年遷宮の出雲杵築大社のようなものとは比較にならない。

 しかし、伊志見郷の稿でも述べたように、当社氏子でないものの隣接地に住む管理人にとって、伊志見郷は身近な土地であり、それゆえ当地の歴史には年を取るにつれて、より親しみも感じるようになった。
【写真左】拝殿・その1
 西側から見たもの。











 さて、当社そのものについては、前回紹介していなかったが、地元出雲に残された第一級の史料『出雲風土記』に、伊自美社、『延喜式』神名帳では伊甚神社と記録されている。

 『出雲風土記』が編纂されたのは、天平5年(奈良時代・733年)であるから、伊甚神社が創建されたのはこれよりさかのぼった時期と考えられる。推測だが、元明天皇の和銅年間、すなわち第一回目の平城京遷都(710)ごろではないだろうか。創建・造営の主体者は、伊志見(伊甚)国造(くにのみやつこ)とされている。
【写真左】拝殿・その2
 正面から見たもの。











 その後、鎌倉時代になると、当然ながら出雲国においても、幕府御家人関係の諸族が当地に下向し、いわゆる地頭職として主だった地域を支配下に治めることになる。
 具体的には伊志見郷に隣接する佐々布郷は、佐々布左衛門入道子(佐々布氏・佐々布要害山城(島根県松江市宍道町佐々布)その1参照)、来待荘は別府左衛門妻、宍道郷は成田四郎某(『千家文書』)などとなっている。このうち、別府氏や成田氏はともに武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県東部)を本拠とするいわゆる東国御家人である。
【写真左】伊甚神社元宮付近を遠望する。
 当社が現在地に移転されたのははっきりしないが、近世(江戸時代)になってからといわれている。

 それ以前に所在していたというのが、元宮といわれたところで、現在地よりさらに南へ約700m程登ったところといわれている。丁度この付近に南北に伸びた平坦地が認められ、入り組んだ郡境(現在の松江市と出雲市)直下になる。

 奈良・平安期にはおそらく、西隣になる学頭地区(管理人の所在地)は名称から考えて、鰐淵寺を本山とする修験道場の場所(寺領)だったと推測され、それに隣接するのが、杵築大社領の伊志見郷ではなかったかと考えられる。
【写真左】神代神楽
 二日目には奉祝祭として、隣町である雲南市大東町の海潮山王寺神楽が奉納された。






 これに対し、伊志見郷は杵築大社領(国造・出雲氏)とされ、所領支配者が大幅に変わった承久の乱(1221年)後も、以下のように記録されている。

 康元元年(1256)、国造・出雲義孝と惣検注使・証恵、杵築大社領(下記)を注進する
  • 遙堪郷・高浜郷・稲岡郷・鳥屋郷・武志郷(新田郷・別名村)
  • 出西本郷・求院村・北島村・富郷
  • 伊志見村・千家村・石墓村
                        (『出雲大社文書』)(管理人校訂)
【写真左】伊志見の棚田から伊甚神社を遠望する。
 伊志見谷は東側に流れる伊志見川を中心とする谷と、西側に小さな谷が並列し、その中間部に距離の短い舌陵丘陵が突出している。
 現在の伊甚神社はこの丘陵上に祀られている。
【写真左】伊志見郷から東方に佐々布郷方面を見る。
 伊志見谷の東に伸びる丘陵地を過ぎると、中世に支配した佐々布氏の佐々布郷に入る。



阿須伎(あすき)神社との関わり

 おそらくこの段階で、全12郷(村)に祀られた社が、改めて杵築大社の摂社とされたのだろう。その後、南北朝期から室町期にかけては、社領の支配者が定まらぬ状況も見えてくる(伊志見郷参照)が、嘉吉3年(1443)8月付の「安食(阿須伎)神社御神田公事免除状」によれば、当時安来を本拠としていた松田氏(十神山城(島根県安来市安来町)参照)がこの杵築大社領の一つ、阿須伎神社を中心とした遙堪郷を支配していたことが分かる。
【写真左】阿須伎神社
所在地 島根県出雲市大社町遙堪1473
式内社 出雲國出雲郡阿須伎神社
祭神 阿遅鋤高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)
別名 阿受伎社、阿式社
参拝日 2014年10月7日



 遙堪郷は杵築大社の足元である。広義的にいえば杵築大社本殿の境内は、東隣である遙堪の区域も含まれ、阿須伎神社も境内社のような存在だったかもしれない。

 また、阿須伎神社は、古来より杵築大社の遷宮時の際、古宮を移転して社殿とする権限・格式を持っており、他の11社を取りまとめるという役割や窓口的立場であった。そして阿須伎神社は、このころから伊志見郷(伊甚神社)と深くかかわることになる。
【写真左】阿須伎神社参道と鳥居
 南側を走る国道431号線から北に向かった谷沿いにほぼ真っ直ぐな参道が設けられている。






 この流れは戦国期に至っても基本的に変わらず、秀吉が天下統一を果たした翌年の天正19年(1591)、太閤検地にともなって多くの寺社領が削減・消滅された中で、出雲国を領することになった毛利氏(吉川広家)の文書の中で、次のようなものが残されている。

 これはこの年(天正19年)、阿式社(阿須伎社)の神官・寿讃が当社領の承認を得るために毛利氏に提出した文書であるが、これを見ると、
 
 「阿須伎社は、伊志見郷内に、27石5斗1升4合、同じく公文領として、37表1斗2升の知行地を所有…」

 とされている。こののち、江戸時代及び明治初頭まで伊志見郷(伊甚神社)と、阿須伎神社との極めて緊密な関係が保たれ、特に伊甚神社遷宮の際は、その材料となる建材などは杵築大社や阿須伎神社で使われたものが多く再利用されてきたという。
【写真左】阿須伎神社本殿
 杵築大社の摂社としての風格を感じさせる。

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