2016年10月25日火曜日

備後・旗返山城(広島県三次市三若町)・その2

備後・旗返山城(びんご・はたがえしやまじょう)・その2

●所在地 広島県三次市三若町
●別名 三若城、江田城、昌通城
●高さ 434m(比高200m)
●築城期 不明(南北朝後期から室町初期か)
●築城者 江田氏
●形態 山城
●遺構 郭・堀切・土塁・井戸等
●登城日 2015年3月6日

◆解説(参考文献「知将・毛利元就」池享著、HP「城郭放浪記」等)
 前稿に引き続いて旗返山城をとりあげるが、前述したように、元就にとってこの旗返山城での戦いは大きな節目となった。
【写真左】旗返城主郭付近遠望
 登城したこの日(2015年3月)、下山したあと東麓の375号線側から撮影。
 この時期以外では新緑に覆われてしまい、露出した主郭の岩肌は見えないだろう。



元就たな体制づくり

 江田氏を滅ぼす2年前の天文20年、山口の大内義隆は陶晴賢のクーデータによって滅びていくが、以前にも述べたように、この計画は晴賢より元就に事前に知らされており、元就も晴賢を支援すべく、自らは障害となっていた井上一族の誅伐も終えていた。
【写真左】土塁か
 前稿の略測図には載っていないが、下山に使った大回りコースの途中で左手に見えたもので、城域からは北西方向の尾根伝いに約400m程向かった位置だったと記憶している。

 これは西谷に当たる白糸滝側からの侵入を防ぐために築いたものかもしれない。


 義隆の死によって、特に安芸国ではそれまで大内氏に属していた主だった国人は尼子氏に走る者も出た。というのも、晴賢自身は足元の防長の安定をはかるため、安芸国に介入する余裕はなく、さらには備後国はこれ以前の天文18年(1549)、尼子方であった山名理興(ただおき)の拠る神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)が大内氏の攻略によってに陥落し、大内家臣の青景隆著(たかあきら)が城将となっていたが、義隆が亡くなると、備後国の国人領主たちは動揺したからである。

 このチャンスを好機ととらえた元就は、大内義長の命(晴賢)によるものだが、天文21年7月備後国に進出し、宮光寄の志川滝山城(写真参照)を攻め、備中に奔らせ、翌22年4月になると、元就は今度は自主的に江田氏攻略を計った。
【写真左】志川滝山城遠望
 所在地:福山市加茂町字北山。H:390(比高250m)
別名・四川滝山城。高尾三郎左衛門義兼(宮氏一族)明応8年(1499)築城。

 天文21年の戦いは毛利氏が勝ったものの、本隊は7人の戦死、負傷者156人という犠牲を払った。要害堅固な城である。


 注目されるのは、このころ元就は238名の家臣たちに連署させた起請文を残していることである。そして、具体的な動きとしては、毛利氏一族を中心とした新たな組織体制の強化と、それに伴う領地の管理、並びに戦の際その動員についての制度化(「具足注文」)を行い、指揮命令系統の遵守徹底を図った。つまり現代風に言えば、行政と軍事の両面を確立していったことになる。
【写真左】主郭跡先端部
 主郭先端部で、この下にも腰郭がある。また鉄パイプで造られた展望台も設置されている。





姫塚

 ところで、旗返城の東北東麓沖庄の田圃の脇に「姫塚」という小さな祠が祀られている。これは下段の説明板にも紹介されているように、天文22年の毛利氏による旗返城攻めにおいて、隆連の妻と娘が戦の最中、甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の山内氏を頼って逃げようとしたが、途中で娘が産気づき、出産したものの既に逃れるほどの体力がなく、母(隆連妻)と共に自刃した場所といわれている。
【写真左】姫塚
 北側から375号線を南下していくと、右手に見える。掛田川沿いの農道をゆっくりと進むとこの小さな祠が祀られ、脇には下段の説明板が設置してある。


現地の説明板・その2

“姫塚の由来

 旗返城主江田隆連は、庄原の山之内氏に誘われて、ひそかに山陰の尼子氏と通じたことが発覚すると、毛利元就は山口の大内氏に救援を求め、1万数千の大軍をもって江田領に攻め込んできました。天文22(1553)7月には隆連の家臣武田祝氏(たけだほうりし)の居城高杉城を全滅させ、その勢いで旗返城に攻め寄せてきました。隆連は尼子軍の救援を唯一の頼りに1千1百の軍勢で籠城しました。
【写真左】旗返城本丸から「姫塚」を遠望する。
 左側の川が美波羅川で、姫塚の脇を掛田川が流れている。






 毛利軍は、要害堅固な旗返城を攻略するため、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を構え、食糧や水を断つ作戦にでました。
 隆連は、唯一の頼りだった尼子の援軍が来ないため、落城も覚悟したのであろうか。包囲されて間もなく、妻と娘(姫)に一人の家来をつけて、庄原の山之内まで逃がそうとしました。

 始め廻神(めぐりかみ)を通ろうとしましたが、この道は既に敵軍の手に落ちており、仕方なく加風呂谷(かぶろだに)を下って、掛田(かけだ)に降り、夜陰にまぎれて石原から寄国(寄国)を通り、山之内に逃げようとしました。そして、掛田川の川端までたどり着きましたが、娘(姫)は身ごもっており、ここまで来て急に産気づきました。
【写真左】姫塚から旗返城を遠望する。
 旗返城は中央やや左の低い山に当たる。現在は田圃の脇に祀られているが、当時この付近は掛田川の河原だったと思われる。

 せっかく生まれた赤ん坊も道連れに自害していったとは、なんとも憐れである。


 そして苦しみながらかわいい娘の子を出産しましたが、敵陣の中を潜んでの逃亡で体力も尽き果ててしまいました。
 兼ねてより父隆連から、途中逃げ切れぬ時は自刃せよと諭されていたこともあり、妻と娘(姫)赤子ともども、この地で自刃して果てました。

 後、邑人(むらびと)たちはこのあわれな人たちのために祠を建てて供養しました。この祠を「姫塚」と呼びこの一帯を「姫原」と呼ぶようになりました。
 旗返城は、水と食料を断たれ、終に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

     川西郷郷土史研究会”

七森塚

 先ほどの姫塚よりさらに旗返城側に向かった位置に祀られているもので、「七森塚」と呼ばれている。これは、尼子氏側から援軍として派遣されていた弓の達人が、誤って味方を射抜いてしまったというもので、一矢で田楽刺しされたという。強弓の士といえど、かなり誇張された話だが、敵か味方か判断できず射ってしまったということを考えると、夜間の出来事だったのかもしれない。
【写真左】七森塚
 塚は山側にそってはしる道路沿いに祀られている。










現地の説明板・その3

“七森(盛)塚の由来

 旗返城主江田隆連は、これまで毛利氏と同盟関係にありましたが、庄原の山之内氏に誘われ、4月初旬山陰の尼子氏に味方しました。この事を知った毛利元就は山口の大内氏に援軍を求め、たちまちのうちに江田領に進攻して来ました。7月には隆連の家臣で神杉の武田氏が守る高杉城を全滅させ、その勢いで1万数千の兵をもって、1千百人が守る旗返城に攻め込んできました。
 旗返城は堅固な山城であったため、毛利軍は、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を築き、食糧や水を断つ作戦をとったと思われます。
【写真左】七森塚から旗返城を見る
 











 隆連の唯一の頼りは尼子氏の援軍でしたが、毛利軍に阻まれて容易には来られませんでした。
 城中にはすでに尼子晴久の家臣で強弓で知られた坂田原蕃(げんばん)を差し向けていましたが、ある日、旗返城の東方を見ると、数十の敵兵が攻め寄せて来るのを確認して、坂田原蕃は弓を満月の如く引き絞り、よき敵ござんなれと、ひょーと打ち放てば前方よりの7人が田楽刺しに一矢で射ぬかれました。けれどもこれは手柄でもなんでもなかったのです。

 射抜かれた武士は、隆連救援のために駆けつけた尼子の援軍だったのです。(言い伝えによると、高杉城の援軍だったともいわれている)後、邑人は(むらびと)は、このあわれな武士たちを厚く葬りました。これを七森(盛)塚と呼ぶようになりました。(圃場整備により現在位置に移されたが、元は高さ1m・直径5mくらいの塚の上に祠が建っていた。)

 旗返城は、水と食料を断たれ、遂に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

    川西郷土史研究会”


出雲市江田村(町)

 旗返城落城後、妻とその娘は当地で自刃しているが、それ以外の江田氏の動向については不明な点があるもの、江田氏(隆連)一族がこの戦のあと、出雲国に逃れ、その末裔が現在でも住んでいるという地区がある。
 その場所が、現在の島根県出雲市江田町といわれている。
【写真左】江田町北側
 北側からみたもの。
江田町の周囲は田園が広がり、広域農道161号線を西に向かうと、杵築大社に繋がる。






現地の説明板・その4

“旗返城落城とその江田氏について

 天文22年(1553)、尼子氏に味方をしたために毛利元就・山口の大内勢(1万6千の兵)に囲まれた。これに対し、江田勢は尼子の援軍あわせ千百余りで籠城すること4カ月、10月19日に落城した。「城兵は、夜陰にまぎれ敵の囲いを切り抜けて落ちのびていった。」とあります。
 ここに鎌倉時代以来備後国北部で、その名を馳せた広沢江田氏は滅亡しました。その後の江田隆連家族一族の行方については、諸説あるが、不明な点も多くあります。

※現在島根県出雲市に「江田家」があり、この家の庭先に、江田隆連外一族の墓がたっています。また近くに江田村もあります。

    平成24年(2012)7月
       川西郷土史研究会”
(註:下線は管理人による)
【写真左】江田町南側
 江田交差点の南側付近で、東方には出雲ドームが見える。






 上記の説明板は本丸の北側に設置されているが、※印の記事を目にしたとき驚いたものである。私事で恐縮だが、連れ合いの同級生の中に、出雲市江田町に「江田君」が居たと聞かされ、数日後、その「江田隆連外一族の墓」を訪ねるべく当地に向かった。
【写真左】恵比寿神社
 江田の集落北西端には恵比寿神社が祀られている。
 江田氏一族が勧請したものかもしれない。






 以前は江田村だった現在の出雲市江田町は、旧出雲市と大社町の境にあり、広域農道161号線を挟んで北と南に分かれ、東は常松町、南西の八島町に挟まれている。
 161号線と276号線が交差するところが江田交差点で、江田の主だった集落はそこから北に伸びる276号線の西側に密集して住居が建ち並ぶ。
 路地のような狭い道を歩きながら探したのだが、残念ながらその場所を突き止めることができなかった。おそらくこの集落の中の一軒に、江田隆連外一族の墓があるのだろう。
【写真左】恵比寿神社本殿
 創建期は不明だが、おそらく当社は美保関神社から分祀されたものかもしれない。
 






坪内宗五郎

 ところで、何故落ち延びていった江田氏一族がこの地を選んだのだろうか。江田一族が何のツテもなく見知らぬ出雲の地に赴くことは出来ない。当然かれらを導いてくれた仲介者が居たはずである。それを解明する一つの糸口と考えられる人物が坪内宗五郎である。

 坪内氏については、これまで平田城・その2(島根県出雲市平田町)宇龍城(島根県出雲市大社町宇龍)でも紹介したように、尼子氏はおろか、のちには敵対する毛利氏とも太いパイプを持つ杵築大社を本拠とした有力商人で、杵築相物親方職として出雲大社周辺の商人を統括する特権商人であった。

 尼子氏と毛利氏が旗返城並びに高杉城を巡って、激しい戦いをしていた天文21年(1552)、「坪内文書」の10月10日の日付として以下のものが残されている。

“尼子晴久、坪内宗五郎が使者としてたびたび備後江田氏のもとへ赴いたことを賞し、林木荘・朝山郷の内で一名を宛行うことを約束する。”

 この文書は直接江田氏が江田村に落ち延びたことを示すものではないが、坪内氏が当時置かれていた裁量権と併せ、そのころ斐伊川が杵築(大社)方面に蛇行して流れ、中州から陸地へと変わっていった新しい土地(江田村)ができ、それを同氏が確保し、尼子氏の承認を得て上で江田一族に宛がったものだろう。

2 件のコメント:

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    1. 拝復 コメントありがとうございます。
      「一族の墓」とは江田氏のことだろうと思います。墓の在処について直接家内の同級生の石田さんという方に聞けばいいのですが、連絡先もよくわからないため保留している状況です。現在の江田町(村)には実際何件かの江田姓を名乗る家があり、件の末裔であることはほぼ間違いないと思います。当事者の「江田」さんからご連絡があると嬉しいのですが…
       トミー 拝

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