頭崎城(かしらざきじょう)
●所在地 広島県東広島市高屋町貞重
●築城期 大永3年(1523)
●築城者 平賀弘保
●指定 広島県指定史跡
●高さ 標高504m(比高250m)
●遺構 郭・堀切・竪堀・石積み・土塁その他
●備考 明治神宮
●登城日 2012年12月14日
◆解説(参考文献(『日本城郭体系第13巻』等))
頭崎城は、前稿松嶽城(広島県東広島市河内町入野)でも少し紹介したように、平賀氏の居城である。
【写真左】頭崎城遠望
南麓側から見たもの。
登城口は南側に2か所あり、貞重集会所あたりから北に向かう農道を進むと、途中で手造りの案内板が2,3か所設置してある。
この日は、そのうちの西側の箇所から登ったが、棚田の奥に駐車スペースがあるものの狭い。また、農繁期トラクターなどが往来すると思われるので、注意が必要。
現地の説明板より
広島県史跡 頭崎城跡(平賀氏の遺跡)
昭和44年(1969)4月28日指定
頭崎城は、中世安芸国の有力な国人領主平賀氏の築いた山城です。平賀氏は出羽国平鹿郡(ひらがぐん)から移り、高屋町高屋堀の御薗宇城を拠城としました。その後平賀弘保は、文亀3年(1503)に白市の白山城に本拠を移しましたが、さらに戦乱の激化に対処するため大永3年(1523)に白山城の北方約4kmにある、比高差約200mの頭崎山頂に頭崎城を築き、その子興貞が居城しました。
【写真左】鳥居の段
一般的な登城コースと思われる大手道を進むと、最初にこの郭が見える。
幅7,8m×奥行5,6m程度のもの。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ、毛利氏に従って萩に移るまで、頭崎城は平賀氏の本城として使用されました。その間、何度も改修を重ねたと思われ、その城域は東西900m、南北600mに及び、中世の山城としては広島県内では毛利氏の郡山城に次ぐ広さがあり、平賀氏の支配領域のほぼ中心に位置しています。
現在も多くの曲輪が残っていて、名前を伝えるものに、本丸に当たる「甲(つめ)の丸」や「西の丸」「太鼓の段」「煙硝の段」「稽古場」「大将陣」などがあります。
また、付近には「御屋敷」「蔵屋敷」という地名や常楽寺跡などが残り、居館や寺院、家臣の屋敷を配置していたことがわかります。このように、頭崎城は戦国時代末期の国人領主を考えるうえで、非常に貴重な遺跡です。
平成5年(1993)3月31日
東広島市教育委員会”
【写真左】城域手前の鳥居など
下段で紹介する三の丸東にある頭崎神社の鳥居や、勧請された明治神宮の鳥居と思われる鳥居跡が入口付近に建立されている。
平賀氏歴代の居城
平賀氏が次に築城したのが白山城であるが、いよいよ高まってきた戦国動乱の世にあって、当城の守りは脆弱でかつ小規模なものだった。平賀氏は永正年間(1504~21)大内氏に従っていた。その後、鏡山城落城後、尼子に従属する状況に追い込まれ、このため、天険にめぐまれた標高504mの頭崎山に3番目の居城を築いた。
【写真左】頭崎城要図
現地に設置されている図で、上方が北を示す。
残念ながら本丸等の位置が図示されておらず、分かりずらいが、中央部が本丸(甲の丸)で、その下方に二の丸及び、三の丸があり、本丸側から上に離れた郭群は西の丸を示す。
【写真左】頭崎神社・三の丸
登り切って最初に見えるのがこの頭崎神社である。
長さ40m×幅8~14mの細長い変形した郭の三の丸の東側に祀られている。
この左側の上に二の丸や本丸が位置している。また、右側に向かうと、下段の「太鼓の段」がある。
【写真左】三の丸
頭崎神社側から振り返ってみたもので、正面に「太鼓の段」がある。
なお、この写真の左側に「三の丸」の表示板があり、その脇には「西尾根三百米先 大将陣 西下百米 極楽寺経由下山道アリ」という表示板があり、その先を進んでみたが、藪コギ状態の郭段が残っている。
平賀氏父子の対立
しかし、このころから平賀氏一族の間では、尼子方及び大内方のいずれに属するか意見がまとまらず、白山城には大内派の弘保が、頭崎城には尼子派の嫡男・興貞が拠り、父子の対立が生じていた。
天文4~5年(1535~36)、父子による衝突は避けられなくなり、それぞれ大内方・尼子方の援軍を交えた戦端が開いた。同6年になると、大内方の杉隆宣が志和の米山城・生城山城(おおぎやまじょう)の城主天野興定と共に頭崎城を攻めたが不成功に終わった。しかしそれから3年後の天文9年、大内方に与していた毛利元就が、頭崎城の背後を突いた夜襲をかけ、ついに陥落させた。
【写真左】太鼓の段
東南部に配置された郭で、2段の構成となっている。
位置から考えて、東から南を扼する目的の郭と考えられ、ここから常に監視をしていたのだろう。
【写真左】太鼓の段から松嶽城などを遠望する。
前稿で紹介したように、松嶽城や竹林寺がよく見える場所である。
この結果、毛利元就は興貞を出家させ、興貞の子・隆宗(弘保の嫡孫)に家督を継がせた。しかしそれから9年後の天文18年(1549)、隆宗が備後の神辺城攻めにおいて討死すると、白山城にあった祖父弘保は、平賀氏の行く末を案じたのだろう、大内義隆に対し、隆宗の実弟・広相(ひろすけ)を跡継ぎとするよう願い出た。
【写真左】二の丸
三の丸の西側から細い階段があり、それを登っていくと二の丸に繋がる。手前の幅は10m程度あるが、次第に細くなって本丸に繋がる。
この写真は手前付近に見えた大岩だが、削平された場所に不自然に残っているところを見ると、何等かの目的で積み上げられたものかもしれない。
このあと、本丸に向かう。
大内氏による平賀氏への圧迫
しかし、平賀氏の弱体化をねらっていた義隆はこの願いを受け入れず、小早川常平の次男で、義隆の寵童としていた亀寿丸を弘保の養子とし、新たに平賀隆保と名乗らせ、家督を相続させた。
なお、隆宗の実弟・広相については、『日本城郭体系第13巻』では、隆宗の子としているが、状況から考えて、隆宗はまだ幼少の時期と思われ、広相が子であったというのは無理がある。
平賀氏本流の継嗣が一時途絶え、小早川庶流であった隆保が頭崎城主になってから2年後の天文20年(1551)、大内氏の重臣であった陶晴賢の謀反により長門大寧寺で義隆が亡くなると、毛利元就は安芸東西条の大内方の諸城を攻略し始めた。
【写真左】本丸の石垣
本丸手前に小郭があり、そこから4,5mほどの高さの階段を登ると、本丸にたどり着く。
この石垣はその脇に見えたもの。
そして大内方であった平賀隆保の籠る頭崎城を攻めることになった。弘保は平賀氏居城とはいえ、既に血縁を持たない城主・隆保の籠る頭崎城に対し、全く援助の手を差し伸べようとしなかった。これにより、頭崎城は落城し、隆保は討死したといわれているが、一説には、この後隆保は槌山城へ奔ったのち、当城で亡くなったともいわれている。
【写真左】本丸
32m×35mの規模のもので、現在桜の木などが植えてあるが、「太鼓の段」や下段の「硝煙の段」に比べるとあまり手入れはされていないようだ。
本丸の西側には細長い帯郭が二の丸に向かって伸びている。
なお、本丸の北側には西の丸が控えているが、切崖であるため、一旦引き返して、三の丸側から向かう。
毛利氏への帰順
隆保討死後、平賀氏は前記した隆宗の実弟・広相が改めて家督を認められ、小早川隆景とは兄弟の契りを結び、以後毛利氏に属することになる。
平賀広相については、三ツ城(広島県東広島市西条中央7 三ツ城古墳)でも紹介したように、当城の城主でもあった。
【写真左】煙硝の段・その1
三の丸側から細い道を進むと南西突端部に「煙硝の段」がある。
ところで、平賀氏には隆宗・広相兄弟とは別に、平賀隆直という武将の名も残る。
出雲国の白鹿城(島根県松江市法吉町)・その2で触れたように、永禄年間に松江の白鹿城に向けて赤穴の瀬戸山城を発向する段階で、毛利方の中に「平賀太郎左衛門隆直」という名が見える。
おそらく、隆直も隆宗らと兄弟であったかもしれない。
【写真左】煙硝の段・その2
煙硝の段には大岩があり、その脇に小社が祀られている。
これは昭和4年に明治神宮から分祀勧請されたもののようで、もとは上部の方にあったようだが、平成12年の鳥取県西部地震で倒壊したため、現在の下部に移築されている。
【写真左】煙硝の段・その3
大岩(社)の先には、ご覧の郭が南西に伸びている。
【写真左】頭崎城から東広島市市街地を見る。
おそらくこの視界の中に、平賀氏の白山城もはいっているものと思われるが、どのあたりかわからない。
【写真左】西の丸
本丸の北側に位置し、石垣によって3区画されているとのことだが、明瞭でない。
遺構としては、むしろこの辺りが最も種類が多く、竪堀・土塁・堀切・稽古場・馬乗場などといった曲輪群が点在している。
●所在地 広島県東広島市高屋町貞重
●築城期 大永3年(1523)
●築城者 平賀弘保
●指定 広島県指定史跡
●高さ 標高504m(比高250m)
●遺構 郭・堀切・竪堀・石積み・土塁その他
●備考 明治神宮
●登城日 2012年12月14日
◆解説(参考文献(『日本城郭体系第13巻』等))
頭崎城は、前稿松嶽城(広島県東広島市河内町入野)でも少し紹介したように、平賀氏の居城である。
【写真左】頭崎城遠望
南麓側から見たもの。
登城口は南側に2か所あり、貞重集会所あたりから北に向かう農道を進むと、途中で手造りの案内板が2,3か所設置してある。
この日は、そのうちの西側の箇所から登ったが、棚田の奥に駐車スペースがあるものの狭い。また、農繁期トラクターなどが往来すると思われるので、注意が必要。
現地の説明板より
広島県史跡 頭崎城跡(平賀氏の遺跡)
昭和44年(1969)4月28日指定
頭崎城は、中世安芸国の有力な国人領主平賀氏の築いた山城です。平賀氏は出羽国平鹿郡(ひらがぐん)から移り、高屋町高屋堀の御薗宇城を拠城としました。その後平賀弘保は、文亀3年(1503)に白市の白山城に本拠を移しましたが、さらに戦乱の激化に対処するため大永3年(1523)に白山城の北方約4kmにある、比高差約200mの頭崎山頂に頭崎城を築き、その子興貞が居城しました。
【写真左】鳥居の段
一般的な登城コースと思われる大手道を進むと、最初にこの郭が見える。
幅7,8m×奥行5,6m程度のもの。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れ、毛利氏に従って萩に移るまで、頭崎城は平賀氏の本城として使用されました。その間、何度も改修を重ねたと思われ、その城域は東西900m、南北600mに及び、中世の山城としては広島県内では毛利氏の郡山城に次ぐ広さがあり、平賀氏の支配領域のほぼ中心に位置しています。
現在も多くの曲輪が残っていて、名前を伝えるものに、本丸に当たる「甲(つめ)の丸」や「西の丸」「太鼓の段」「煙硝の段」「稽古場」「大将陣」などがあります。
また、付近には「御屋敷」「蔵屋敷」という地名や常楽寺跡などが残り、居館や寺院、家臣の屋敷を配置していたことがわかります。このように、頭崎城は戦国時代末期の国人領主を考えるうえで、非常に貴重な遺跡です。
平成5年(1993)3月31日
東広島市教育委員会”
【写真左】城域手前の鳥居など
下段で紹介する三の丸東にある頭崎神社の鳥居や、勧請された明治神宮の鳥居と思われる鳥居跡が入口付近に建立されている。
平賀氏歴代の居城
頭崎城はこれまで、平賀氏の墓地(広島県東広島市高屋町高屋堀)の稿でも記したように、平賀氏は代を重ねる間に次の3か所の居城を築いていく。
- 御薗宇城 東広島市高屋町高屋堀 居城期間 1278~1503年 (225年間)
- 白山城 東広島市高屋町白市 居城期間 1503~36年ごろ (33年間)
- 頭崎城 東広島市高屋町貞重 居城期間 1523~1600年 (77年間)
最初に拠った城館が御薗宇城である。これについては既に御薗宇城(広島県東広島市高屋町高屋堀)で紹介しているのでご覧いただきたいが、同氏がもっとも長く居城として使用したもので、小規模な城砦(城館)ながら、安芸国における平賀氏の基礎がこの期間に出来上がっていく。
【写真左】登城道右側の断崖
この付近からこうした岩肌が露出して見える。
大内氏と尼子氏の狭間で
【写真左】登城道右側の断崖
この付近からこうした岩肌が露出して見える。
大内氏と尼子氏の狭間で
やがて戦国期に至ると、山陰の雄・尼子経久が南下し、西方からは大内氏が東西条の鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)を攻略してきた。このため、隣接していた平賀氏は否応なく両氏のいずれかに与することを余儀なくされた。
平賀氏が次に築城したのが白山城であるが、いよいよ高まってきた戦国動乱の世にあって、当城の守りは脆弱でかつ小規模なものだった。平賀氏は永正年間(1504~21)大内氏に従っていた。その後、鏡山城落城後、尼子に従属する状況に追い込まれ、このため、天険にめぐまれた標高504mの頭崎山に3番目の居城を築いた。
【写真左】頭崎城要図
現地に設置されている図で、上方が北を示す。
残念ながら本丸等の位置が図示されておらず、分かりずらいが、中央部が本丸(甲の丸)で、その下方に二の丸及び、三の丸があり、本丸側から上に離れた郭群は西の丸を示す。
【写真左】頭崎神社・三の丸
登り切って最初に見えるのがこの頭崎神社である。
長さ40m×幅8~14mの細長い変形した郭の三の丸の東側に祀られている。
この左側の上に二の丸や本丸が位置している。また、右側に向かうと、下段の「太鼓の段」がある。
【写真左】三の丸
頭崎神社側から振り返ってみたもので、正面に「太鼓の段」がある。
なお、この写真の左側に「三の丸」の表示板があり、その脇には「西尾根三百米先 大将陣 西下百米 極楽寺経由下山道アリ」という表示板があり、その先を進んでみたが、藪コギ状態の郭段が残っている。
平賀氏父子の対立
しかし、このころから平賀氏一族の間では、尼子方及び大内方のいずれに属するか意見がまとまらず、白山城には大内派の弘保が、頭崎城には尼子派の嫡男・興貞が拠り、父子の対立が生じていた。
天文4~5年(1535~36)、父子による衝突は避けられなくなり、それぞれ大内方・尼子方の援軍を交えた戦端が開いた。同6年になると、大内方の杉隆宣が志和の米山城・生城山城(おおぎやまじょう)の城主天野興定と共に頭崎城を攻めたが不成功に終わった。しかしそれから3年後の天文9年、大内方に与していた毛利元就が、頭崎城の背後を突いた夜襲をかけ、ついに陥落させた。
【写真左】太鼓の段
東南部に配置された郭で、2段の構成となっている。
位置から考えて、東から南を扼する目的の郭と考えられ、ここから常に監視をしていたのだろう。
【写真左】太鼓の段から松嶽城などを遠望する。
前稿で紹介したように、松嶽城や竹林寺がよく見える場所である。
この結果、毛利元就は興貞を出家させ、興貞の子・隆宗(弘保の嫡孫)に家督を継がせた。しかしそれから9年後の天文18年(1549)、隆宗が備後の神辺城攻めにおいて討死すると、白山城にあった祖父弘保は、平賀氏の行く末を案じたのだろう、大内義隆に対し、隆宗の実弟・広相(ひろすけ)を跡継ぎとするよう願い出た。
【写真左】二の丸
三の丸の西側から細い階段があり、それを登っていくと二の丸に繋がる。手前の幅は10m程度あるが、次第に細くなって本丸に繋がる。
この写真は手前付近に見えた大岩だが、削平された場所に不自然に残っているところを見ると、何等かの目的で積み上げられたものかもしれない。
このあと、本丸に向かう。
大内氏による平賀氏への圧迫
しかし、平賀氏の弱体化をねらっていた義隆はこの願いを受け入れず、小早川常平の次男で、義隆の寵童としていた亀寿丸を弘保の養子とし、新たに平賀隆保と名乗らせ、家督を相続させた。
なお、隆宗の実弟・広相については、『日本城郭体系第13巻』では、隆宗の子としているが、状況から考えて、隆宗はまだ幼少の時期と思われ、広相が子であったというのは無理がある。
平賀氏本流の継嗣が一時途絶え、小早川庶流であった隆保が頭崎城主になってから2年後の天文20年(1551)、大内氏の重臣であった陶晴賢の謀反により長門大寧寺で義隆が亡くなると、毛利元就は安芸東西条の大内方の諸城を攻略し始めた。
【写真左】本丸の石垣
本丸手前に小郭があり、そこから4,5mほどの高さの階段を登ると、本丸にたどり着く。
この石垣はその脇に見えたもの。
そして大内方であった平賀隆保の籠る頭崎城を攻めることになった。弘保は平賀氏居城とはいえ、既に血縁を持たない城主・隆保の籠る頭崎城に対し、全く援助の手を差し伸べようとしなかった。これにより、頭崎城は落城し、隆保は討死したといわれているが、一説には、この後隆保は槌山城へ奔ったのち、当城で亡くなったともいわれている。
【写真左】本丸
32m×35mの規模のもので、現在桜の木などが植えてあるが、「太鼓の段」や下段の「硝煙の段」に比べるとあまり手入れはされていないようだ。
本丸の西側には細長い帯郭が二の丸に向かって伸びている。
なお、本丸の北側には西の丸が控えているが、切崖であるため、一旦引き返して、三の丸側から向かう。
毛利氏への帰順
隆保討死後、平賀氏は前記した隆宗の実弟・広相が改めて家督を認められ、小早川隆景とは兄弟の契りを結び、以後毛利氏に属することになる。
平賀広相については、三ツ城(広島県東広島市西条中央7 三ツ城古墳)でも紹介したように、当城の城主でもあった。
【写真左】煙硝の段・その1
三の丸側から細い道を進むと南西突端部に「煙硝の段」がある。
ところで、平賀氏には隆宗・広相兄弟とは別に、平賀隆直という武将の名も残る。
出雲国の白鹿城(島根県松江市法吉町)・その2で触れたように、永禄年間に松江の白鹿城に向けて赤穴の瀬戸山城を発向する段階で、毛利方の中に「平賀太郎左衛門隆直」という名が見える。
おそらく、隆直も隆宗らと兄弟であったかもしれない。
【写真左】煙硝の段・その2
煙硝の段には大岩があり、その脇に小社が祀られている。
これは昭和4年に明治神宮から分祀勧請されたもののようで、もとは上部の方にあったようだが、平成12年の鳥取県西部地震で倒壊したため、現在の下部に移築されている。
【写真左】煙硝の段・その3
大岩(社)の先には、ご覧の郭が南西に伸びている。
【写真左】頭崎城から東広島市市街地を見る。
おそらくこの視界の中に、平賀氏の白山城もはいっているものと思われるが、どのあたりかわからない。
【写真左】西の丸
本丸の北側に位置し、石垣によって3区画されているとのことだが、明瞭でない。
遺構としては、むしろこの辺りが最も種類が多く、竪堀・土塁・堀切・稽古場・馬乗場などといった曲輪群が点在している。
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