松嶽城(まつたけじょう)
●所在地 広島県東広島市河内町入野
●別名 松ヶ嶽城、入野松嶽城
●築城期 建長8年・康元元年(1256)1月
●築城者 大多和季盛
●城主 入野氏(平賀氏庶家)
●高さ 450m(比高240m)
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 松嶽城:2012年12月14日、竹林寺:2007年7月21日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
前稿小田城の麓を流れる沼田川を下り、入野川が合流する地点に行くと、南方に篁山(竹林寺)が聳えている。松嶽城は、この南尾根に築かれた山城である。
【写真左】松嶽城遠望
南麓側から見たもので、松嶽城は尾根筋にあり、そのまま尾根を登ったところにる篁山(竹林寺)がある。
築城者について
松嶽城の築城者については、下段に示す現地の説明板のものと、『日本城郭体系第13巻』(以下「城郭体系」とする)に記されている内容と若干合致していない点がある。
先ず現地にある二つの説明板を記しておく。
現地の説明板(その1)より
“松ヶ嶽城址
松ヶ嶽城の築城年代は明らかでないが、南北朝初期から室町戦国期に存在していたものと推定される。なお、この城は、大多和八郎太郎・小池大輔房等が拠城したと伝えられる。
郷土誌「芸藩通志」によれば入野民部少輔貞景(1518~50年代)の居城とある。
松ヶ嶽城址は、竹林寺南西の支峰の山頂(標高450m)にあり、本丸・二の丸・三の丸と階段状の郭よりなり城内には石積みの井戸が残っている。
別に南方の台地にも郭があり、往時の城郭がうかがわれる。
またこの北方入口の防備として土塁・空堀の跡も見られる。ここから城までは約400mである。”
【写真左】麓にある石碑・その1
下段に示した説明板(その2)のもので、この日は時間がなく、麓から見上げただけで登城はしていない。
右の石碑には、
松嶽城 城主 神武天皇の子孫
大多和八郎太郎入道之墓
紀元2013年12月13日
南北朝廷の争いにて自刃
とある。
現地の説明板(その2)より
“眺望 松嶽城跡
大多和季盛は鎌倉時代に左衛門尉を賜り、入野地頭となる。
宝治元年6月、三浦泰村の最期を痛み志芳を目指して、建長8年1月、山頂に松嶽城を築く。季盛・為盛・八郎太郎入道と3代に渡り、家臣小池と陣を取る小早川実義は、足利将軍の通報で思留慂取計も八郎太郎聞入れず遂に正平8年12月、自決。平賀文書三号に城は、翌年9月12日将軍から平賀貞宗へ充行と記あり 正信”
とあり、築城者は建長8年に大多和季盛としている。
【写真左】麓にある石碑・その2
道路脇に建立されているが、この場所には松嶽城へ向かう登城案内などの標識はない。
これに対し、「城郭体系」では次のように記されている。
“…(中略)東広島市高屋町と隣接する賀茂郡河内町入野(にゅうの)を領地とした平賀氏が、入野地区を確保するために築いた城であるが、築城の時期は明らかでない。…(以下略)
ここでは、平賀氏を築城者としている。ただ時期が不明である。
大多和氏と平賀氏
大多和氏は、説明板にもあるように、元は三浦氏すなわち、桓武平氏系の三浦氏の流れで、相模国三浦郡大多和村(現在の神奈川県横須賀市太田和)の出である。
【写真左】御薗宇城遠望
平賀氏については、以前御薗宇城(広島県東広島市高屋町高屋堀)でも紹介したように、同氏が最初に本居城としたのは、この御薗宇城である。平賀氏が安芸に下向した動機は、文永の役による元軍来襲の防備のためであった。
従って時期は文永11年(1274)頃と考えられ、前段の大多和氏が来住した時期より約20年後となる。ただ、平賀氏が御薗宇城を築いた時期に合わせてすぐに松嶽城を築いたとは即断できない。
おそらく、松嶽城を最初に築いた大多和氏は、説明板(その2)にもあるように、初代季盛から始まり、為盛・八郎太郎入道と続いたが、正平8年(1353)3代八郎太郎入道の自決によって安芸大多和氏は滅び、そのあと平賀氏がはいったものと思われる。
この間の流れをみると、おそらく3代八郎太郎入道は南朝方であったと思われ、この年の9月21日、足利尊氏・義詮は後光厳天皇を奉じて入京しているので、安芸国における南朝の勢いが衰退した時期と重なる。
【写真左】竹林寺 本堂・厨子
松嶽城に向かう一つのルートがこの竹林寺境内を始点とするものだが、当院を探訪したのは2007年7月で、蒸し暑く、登城していない。
サイト『城郭放浪記』氏が詳細に踏査しておられるので、遺構についてはこちらをご覧いただきたい。
入野保継と入野貞景
戦国期に至った永正15年(1518)、白山城(東広島市高屋町:未登城)を居城としていた平賀弘保とその子興貞は、平賀惣領家を離れ小早川氏に属そうとした庶子家・入野保継を攻め滅ぼしている。
この保継が当時居城としていたのが松嶽城といわれ、平賀弘保はその後次男の貞景を松嶽城に入れている。ただ、平賀氏はこの貞景の姓名を平賀ではなく、前城主であった入野氏の名を冠し、入野民部少輔貞景としている。
おそらく、平賀氏はこの戦いの結果、強制的に自分の子を入野氏の養子として入れる条件を飲ませたものと思われる。
竹林寺と小野篁(おのの たかむら)
参考までに、竹林寺と小野篁について、現地の説明板より紹介しておく。
【写真左】竹林寺庭園
如何にも古刹といった雰囲気がある。
現地の説明板より
“小野 篁
芸州入野の郷に、その頂上より夜々光を放ち、日々紫雲たなびく山があった。
730年(天平2年)行基上人がこの山に登られ、霊光を放っていた桜の大樹を切り、「千手観音尊像」を刻みお堂を建て、「桜山花王寺」と名付けられた。これが「竹林寺」の始まりである。
当時この山の麓に竹野辺秀識なる人に仕える、八千代という女性があった。八千代は常にこの寺の御本尊を信仰し千日の参詣を続けていたが、満願の日の夜半お堂の中から童子が現れ五色の玉を彼女に授けた。やがて八千代は802年(延暦21年)の春、男子を出産したが、その子が自ら「吾れはこれ篁なり」と名乗った。八千代は不思議に思いながらよろこんで養育につとめたところ、幼時よりまことに聡明で竹野辺殿にいつくしまれたという。
【写真左】松嶽城遠望
松嶽城の北西に位置する平賀氏の居城・頭崎城から見たもの。
頭崎城についてはいずれ紹介する予定である。
長じて12才の時、東の平安京(京都)をめざして郷里を出発した。都での篁はいよいよ勉学に励み学芸、詩歌に優れた有名な人となり、関白小野大臣良相の娘と結婚して小野家を継ぎ「小野篁」と号した。
篁は、時の嵯峨天皇に仕え、参議に登用され、さらに文学博士に任ぜられたという。また、篁は、非凡の人で昼はこの世で人々のために働き、夜は冥途に至って冥官として罪の軽量を裁いたといわれ、852年(仁寿2年)51歳の時、京都愛宕寺前で大地を蹴破り地底に入られたという。更に篁は、百年後再びこの世に生まれ僧となって、郷里の当寺(竹林寺)で冥途の十王尊像の内9体を刻み、残り1体は自ら生身の仏となられたという。
その時から寺号も「篁山竹林寺」と改められた。この物語は、県重要文化財「紙本著色竹林寺縁起絵巻」のあらましである。
河内町
河内町観光協会”
●所在地 広島県東広島市河内町入野
●別名 松ヶ嶽城、入野松嶽城
●築城期 建長8年・康元元年(1256)1月
●築城者 大多和季盛
●城主 入野氏(平賀氏庶家)
●高さ 450m(比高240m)
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 松嶽城:2012年12月14日、竹林寺:2007年7月21日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
前稿小田城の麓を流れる沼田川を下り、入野川が合流する地点に行くと、南方に篁山(竹林寺)が聳えている。松嶽城は、この南尾根に築かれた山城である。
【写真左】松嶽城遠望
南麓側から見たもので、松嶽城は尾根筋にあり、そのまま尾根を登ったところにる篁山(竹林寺)がある。
築城者について
松嶽城の築城者については、下段に示す現地の説明板のものと、『日本城郭体系第13巻』(以下「城郭体系」とする)に記されている内容と若干合致していない点がある。
先ず現地にある二つの説明板を記しておく。
現地の説明板(その1)より
“松ヶ嶽城址
松ヶ嶽城の築城年代は明らかでないが、南北朝初期から室町戦国期に存在していたものと推定される。なお、この城は、大多和八郎太郎・小池大輔房等が拠城したと伝えられる。
郷土誌「芸藩通志」によれば入野民部少輔貞景(1518~50年代)の居城とある。
松ヶ嶽城址は、竹林寺南西の支峰の山頂(標高450m)にあり、本丸・二の丸・三の丸と階段状の郭よりなり城内には石積みの井戸が残っている。
別に南方の台地にも郭があり、往時の城郭がうかがわれる。
またこの北方入口の防備として土塁・空堀の跡も見られる。ここから城までは約400mである。”
【写真左】麓にある石碑・その1
下段に示した説明板(その2)のもので、この日は時間がなく、麓から見上げただけで登城はしていない。
右の石碑には、
松嶽城 城主 神武天皇の子孫
大多和八郎太郎入道之墓
紀元2013年12月13日
南北朝廷の争いにて自刃
とある。
現地の説明板(その2)より
“眺望 松嶽城跡
大多和季盛は鎌倉時代に左衛門尉を賜り、入野地頭となる。
宝治元年6月、三浦泰村の最期を痛み志芳を目指して、建長8年1月、山頂に松嶽城を築く。季盛・為盛・八郎太郎入道と3代に渡り、家臣小池と陣を取る小早川実義は、足利将軍の通報で思留慂取計も八郎太郎聞入れず遂に正平8年12月、自決。平賀文書三号に城は、翌年9月12日将軍から平賀貞宗へ充行と記あり 正信”
とあり、築城者は建長8年に大多和季盛としている。
【写真左】麓にある石碑・その2
道路脇に建立されているが、この場所には松嶽城へ向かう登城案内などの標識はない。
これに対し、「城郭体系」では次のように記されている。
“…(中略)東広島市高屋町と隣接する賀茂郡河内町入野(にゅうの)を領地とした平賀氏が、入野地区を確保するために築いた城であるが、築城の時期は明らかでない。…(以下略)
ここでは、平賀氏を築城者としている。ただ時期が不明である。
大多和氏と平賀氏
大多和氏は、説明板にもあるように、元は三浦氏すなわち、桓武平氏系の三浦氏の流れで、相模国三浦郡大多和村(現在の神奈川県横須賀市太田和)の出である。
【写真左】御薗宇城遠望
平賀氏については、以前御薗宇城(広島県東広島市高屋町高屋堀)でも紹介したように、同氏が最初に本居城としたのは、この御薗宇城である。平賀氏が安芸に下向した動機は、文永の役による元軍来襲の防備のためであった。
従って時期は文永11年(1274)頃と考えられ、前段の大多和氏が来住した時期より約20年後となる。ただ、平賀氏が御薗宇城を築いた時期に合わせてすぐに松嶽城を築いたとは即断できない。
おそらく、松嶽城を最初に築いた大多和氏は、説明板(その2)にもあるように、初代季盛から始まり、為盛・八郎太郎入道と続いたが、正平8年(1353)3代八郎太郎入道の自決によって安芸大多和氏は滅び、そのあと平賀氏がはいったものと思われる。
この間の流れをみると、おそらく3代八郎太郎入道は南朝方であったと思われ、この年の9月21日、足利尊氏・義詮は後光厳天皇を奉じて入京しているので、安芸国における南朝の勢いが衰退した時期と重なる。
【写真左】竹林寺 本堂・厨子
松嶽城に向かう一つのルートがこの竹林寺境内を始点とするものだが、当院を探訪したのは2007年7月で、蒸し暑く、登城していない。
サイト『城郭放浪記』氏が詳細に踏査しておられるので、遺構についてはこちらをご覧いただきたい。
入野保継と入野貞景
戦国期に至った永正15年(1518)、白山城(東広島市高屋町:未登城)を居城としていた平賀弘保とその子興貞は、平賀惣領家を離れ小早川氏に属そうとした庶子家・入野保継を攻め滅ぼしている。
この保継が当時居城としていたのが松嶽城といわれ、平賀弘保はその後次男の貞景を松嶽城に入れている。ただ、平賀氏はこの貞景の姓名を平賀ではなく、前城主であった入野氏の名を冠し、入野民部少輔貞景としている。
おそらく、平賀氏はこの戦いの結果、強制的に自分の子を入野氏の養子として入れる条件を飲ませたものと思われる。
竹林寺と小野篁(おのの たかむら)
参考までに、竹林寺と小野篁について、現地の説明板より紹介しておく。
【写真左】竹林寺庭園
如何にも古刹といった雰囲気がある。
現地の説明板より
“小野 篁
芸州入野の郷に、その頂上より夜々光を放ち、日々紫雲たなびく山があった。
730年(天平2年)行基上人がこの山に登られ、霊光を放っていた桜の大樹を切り、「千手観音尊像」を刻みお堂を建て、「桜山花王寺」と名付けられた。これが「竹林寺」の始まりである。
当時この山の麓に竹野辺秀識なる人に仕える、八千代という女性があった。八千代は常にこの寺の御本尊を信仰し千日の参詣を続けていたが、満願の日の夜半お堂の中から童子が現れ五色の玉を彼女に授けた。やがて八千代は802年(延暦21年)の春、男子を出産したが、その子が自ら「吾れはこれ篁なり」と名乗った。八千代は不思議に思いながらよろこんで養育につとめたところ、幼時よりまことに聡明で竹野辺殿にいつくしまれたという。
【写真左】松嶽城遠望
松嶽城の北西に位置する平賀氏の居城・頭崎城から見たもの。
頭崎城についてはいずれ紹介する予定である。
長じて12才の時、東の平安京(京都)をめざして郷里を出発した。都での篁はいよいよ勉学に励み学芸、詩歌に優れた有名な人となり、関白小野大臣良相の娘と結婚して小野家を継ぎ「小野篁」と号した。
篁は、時の嵯峨天皇に仕え、参議に登用され、さらに文学博士に任ぜられたという。また、篁は、非凡の人で昼はこの世で人々のために働き、夜は冥途に至って冥官として罪の軽量を裁いたといわれ、852年(仁寿2年)51歳の時、京都愛宕寺前で大地を蹴破り地底に入られたという。更に篁は、百年後再びこの世に生まれ僧となって、郷里の当寺(竹林寺)で冥途の十王尊像の内9体を刻み、残り1体は自ら生身の仏となられたという。
その時から寺号も「篁山竹林寺」と改められた。この物語は、県重要文化財「紙本著色竹林寺縁起絵巻」のあらましである。
河内町
河内町観光協会”
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