2011年9月4日日曜日

古屋城(広島県神石高原町小畠)

古屋城(こやじょう)

●所在地 広島県神石高原町小畠
●別名 固屋城
●築城期 南北朝期
●築城者 馬屋原光忠
●遺構 郭・空堀・礎石
●高さ 標高640m(比高130m)
●登城日 2010年11月23日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 源平合戦後、論功行賞として東国から備後国にやってきた一族の一人である上総国(現千葉県)の馬屋原氏が、地頭職を得て当地(旧三和町)に入り、その後南北朝期に分家筋にあたる秀忠が当城の基礎を造ったといわれている。
【写真左】現地南麓に設置された説明板
神石高原町役場の東側に駐車場があり、その地に設置されている。この場所に車を停め徒歩で向かう。


 現地には巨大な説明板が設置されている。下段にその内容を転載しておく。

“古屋城跡由来


 海抜643mの峻嶮な雄姿を誇る古屋城跡は、中世の典型的な山城跡の風格を備えている。本丸・二ノ丸・三ノ丸に出丸・烽台が削平された頂上に築かれ、本丸から志麻里ノ庄(小畠・上・光信・光末・常光・亀石)を一望に収めることができる。


 宮谷川の渓流は自然の濠として活され、北西面は断崖絶壁、東北面は尾根伝いに退くに容易である。東と南面は谷をなし、空濠りの役目をなしている。
 南麓の平地(中学校々庭付近)は、下屋敷や兵糧兵馬の集合集積地などに使われたと考えられ、現在のつづじが丘公園の台地は、最初の固屋跡で、古屋城が築かれたのちは出城として使われたものと思える。
【写真左】古屋城遠望
 南西麓側からみたもので、右側が出城(屋敷跡)、左側が本丸になる。
 なお、写真右下の広場が中学校の校庭で、当時、下屋敷、兵糧兵馬の集合集積地だったところに当たる。


【写真上】古屋城(出城)遠望
 南側から見たもので、この写真にみえる小丘は館跡(のちに出城)といわれる。


 城主馬屋原左衛門太夫光忠は、清和天皇(858~75)の後胤(源氏)八幡太郎義家の弟義綱より17世にあたる。
 もと上総の国(千葉県)馬屋原ノ庄にあったが、故あって備後の国に流され同姓の上村有井城主馬屋原氏に預けられ、その庇護のもとに志麻里ノ庄の小畠に固屋をつくり住んだのが始まりといわれる。


 元亨3年(1323)、後醍醐天皇は鎌倉(北条氏)幕府討伐のため、日野俊基を密かに西国に行脚させた頃より、豪族は戦乱の兆しを感じ山城の造築にかかった固屋の光忠の嫡子秀広も、正中年間(1324)有井城主の許を受けて、古屋城を築いた。


 元弘元年(1332)、河内ノ国楠木正成などに呼応して、北条討伐に旗揚げした備後ノ国宮内櫻山茲俊は、北条の配下を討つため、嫡子平太郎盛重を総大将として、御殿山城主椙原(杉原)高平等総勢5千騎をもって、神石郡第一の豪勇神石郡執行職(志麻里ノ庄地頭職)亀石城主岡田孫八郎員盛を攻め破り、その勢いで古屋城・有井城を攻めた。
【写真左】古屋城館跡
 現在「古屋城跡自然公園」という名称の施設となっている。この館跡(出城)付近は大分改変されているようだが、南北に3段の郭を構成している。


 なお、この場所には作家井伏鱒二の「黒い雨」となった主人公の舞台でもあり、「文学碑」が建立されている。
刻文は次の通り。

“文学碑

    戦争はいやだ
      勝敗はどちらでもいい 早く済みさえすればいい
いわゆる正義の戦争よりも 不正義の平和がいい


 日本の中世・武者の時代に、こうした価値観をもっていた武将が多くいたなら、あるいは歴史は随分と変わったものになったかもしれない。
【写真左】五輪塔
 館跡地にひっそりとたたずんだ小規模な五輪塔


 当時、古屋城主成宗(秀広の子)は、有井城主とともに京都の六波羅に招かれており、急を聞いて直ちに帰城したが、北条氏にそむいて朝臣櫻山盛重の配下となり、忠勤に励んだといわれる。


 この元弘の乱より170~180年間戦国時代は続き、永正6年(1507)馬屋原但馬守正国が、九鬼城を築くまで古屋城は続いたと思われる。”
【写真左】堀切跡
 南方の館跡(出城)から北の本丸に向かう途中にあるもので、現在その箇所を東西に道路が走る。
 なおこの堀切には写真に見えるように、橋がかけられ、直接本丸へ向かうことができるようになっている。
 写真右側が出城、左側が本丸方向。


馬屋原氏

 説明板にもあるように、馬屋原(うまやはら)氏の出自は、上総国(千葉県)の馬屋原の荘で、源平合戦の功により、鎌倉初期に備後国の志麻里荘(神石高原町三和)に地頭職として入部している。

 この志麻里荘に入った馬屋原氏が最初に築いたのが、古屋城のある小畠より南西3キロほど向かった上村字城江にある有井城(未登城)である。初代馬屋原備前守貞宗から始まり、2代重宗・3代宗清・4代成宗と続いた。この一族を志麻里(利)馬屋原氏と呼ぶ。

 今稿の古屋城は、志麻里馬屋原氏が入部してから大分経った南北朝期に、同族の馬屋原光忠が上総国から志麻里馬屋原氏を頼って当地に入部し築城したとされている。

 築城期が正中年間(1324~25)ということを考えると、上総国にあった馬屋原氏は、恐らく元鎌倉御家人であったものの、北条執権体制になってから次第に距離を置かれ、已む無く全国に四散していった諸族の一人と思われる(戸田備中守森正(「鎌倉山城」2010年4月14日投稿参照)など)。
【写真左】登城途中の岩
 堀切を過ぎてからが当城の本格的な登城道となるが、ここからは急坂が多いためつづら折りとなる。
 途中でこうした岩肌が見えたりするが、道そのものは管理が行き届いていて歩きやすい方だ。



 このため、説明板にもあるように、途中から北条氏に背いて討幕方に属したのだろう。
このとき、本家筋である志麻里馬屋原氏(有井城主)と同一行動をとったことが、当地三和を戦国期に至るまで同氏が扶植した最大の理由かもしれない。
【写真左】南の郭段から本丸を見る
 古屋城の頂部は、中央に本丸を置き、南に写真にみえる郭(二ノ丸か)があり、西に3,4段の郭群を伸ばしている。
 また、北面にも広い郭を持っている。


 この写真にある小屋は休憩小屋のような建物で、この位置からは南麓に三和の街並みを俯瞰できる(下の写真参照)。
【写真左】南麓に三和の街並み
 三和小学校や神石高原町役場などの建物が見える。
 手前の小丘が先程のぼって来た城館跡(出丸)。


 なお、写真の奥・南方は府中市・福山市方面の山並。
【写真左】本丸・その1
 本丸付近には写真にみえるように石垣が残る。
【写真左】本丸・その2
 長さ30m、幅20m程度の大きさで、この写真の右にも1m程度の段差で帯郭状のものが控えている。
【写真左】本丸から西にのびる郭
 細長い馬蹄形のもので、長径30m程度か。この下にも小規模な腰郭がある。

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