牛首城(うしくびじょう)
●所在地 広島県安芸高田市高宮町佐々部五十貫部●別名 若狭城・龍之尾城・龍之口城
●築城期 永正年間~大永年間(1504~27)
●築城者 龍尾氏か
●城主 龍尾高之助、佐々部若狭守等
●形態 平山城
●高さ 標高240m(比高30m)
●登城日 2008年6月24日
◆解説
前稿面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)でも紹介したように、城主佐々部氏が面山城から移って来た城砦である。
所在地は面山城と同じく、旧佐々部村にあり、説明板にもあるように、耕地が開け、交通の便がよいという理由から当地に移ったとされる。
同氏が当城へ移った具体的な時期は明らかでないが、若狭守承世の代に行われたということから、永正から大永年間(1504~27年)の頃だろう。
【写真左】本丸跡地に立つ小社
現地の説明板より
“牛首城(うしくびじょう)跡
(佐々部氏の遺跡)
佐々部氏は、はじめ高階姓を名乗っていたが、志部府面山に城を築き、佐々部地方を支配したことから、地名をとって佐々部氏と称した。
初代若狭守承代(世)(?~1527年)は、耕地が開け交通の便がよく、また、生田川を天然の堀とするこの地(五十貫分)に城を移した。以後5代、100年間の居城であった。
佐々部氏は近郷の諸豪族、阿須那の高橋氏・甲立の宍戸氏などと姻戚関係を結び、地位の保全を図った。毛利氏台頭後はその麾下に入った。
牛首城は、若狭城・龍之尾城・龍之口城などともいい、要害堅固につくられていた。山城と平城の中間的な平山城(丘城)で、8つの郭と土塁・石塁・竪堀、などの遺構が現存する。
「御殿屋敷」と呼ばれる郭の30mに及ぶ石塁、南東側山麓の20条の土塁(畝堀)は特徴的である。
最高所の郭は、大手筋を見下ろす櫓台で、城主を祀る「辰之尾(龍能)権現社」がある。
平成14年3月25日
高宮町教育委員会
高宮町文化財保護審議会”
【写真左】牛首城登城口付近
県道322号線がカーブする地点にあり、右側には民家が建っている。
この写真の右奥がすでに当城の城域となっている。
牛首城の特徴
牛首城は説明板にもあるように、平山城である。当時の他の豪族が一般的な山城を本拠城としたのに対し、特異なケースといえる。
ただ、当時の地勢を見てみると、牛首城の東麓から南麓にかけて生田川がえぐるようなコースで流れ、西麓の田圃となっているところもおそらく生田川の河川の一部で、牛首城そのものは殆ど生田川に浮かぶ中洲的城砦ではなかったと思われる。
【写真左】本丸下付近
写真右側が本丸になり、切崖脇を通る。
なお、この時の登城日も山城探訪には最も条件の悪い梅雨時で、雑草が繁茂しあまりいい写真が撮れなかった。
また、唯一西側を走る県道322号線付近(牛首城入口付近)が高くなっているが、この場所は牛首城の西に突き出している舌状丘陵と連続する部分で、鞍部となっていたのを堀切としていた可能性も考えられる。
これによく似たケースとしては、比高の面で違いがあるものの、以前取り挙げた石見国三隅の石見・河内城(島根県浜田市三隅町河内)が挙げられる。
【写真左】石積
土塁の一部と思われるが、石積みの痕跡が残る。
縄張構成
説明板にもあるように、当城は8箇所の郭と土塁・石塁等で構成されているが、基本的な遺構区域としては、北端部に本丸(「辰之尾権現社」)を置き、南に向かって二の丸・三の丸が控え、更に生田川川岸まで「御殿屋敷」が配置されている。
そして、平山城であったこともあり、特に南東側については一段と高い土塁を築き、ほぼ全周囲にわたって防御状の遺構が認められる。
【写真左】三の丸から御殿屋敷跡付近
登城する1年前の他のサイトの写真ではきれいに除草してあったのだが、御覧の通りの状況。
写真の小屋が建つ付近が三の丸もしくは御殿屋敷といわれた郭群の位置になる。
二の丸から三の丸にかけては1m程度の高低差があり、三の丸から御殿屋敷の段差はさらに高くとってある。
光明寺
佐々部氏の菩提寺といわれ、牛首城から東北1キロの地点にあったといわる。すでに廃寺となっており、管理人は未だ訪れていないが、寺跡には一本の大木が残り、傍らには苔むした五輪塔があるという。
ところで、前稿「面山城」で、戦国期佐々部氏の系譜を紹介したが、この中で承世(つぐよ)は、播磨守及び若狭守を官位されている。
『芸藩通志』によれば、
「牛首城主佐々部若狭は、家人信木に殺さる、今信木という処に墓あり」
と記されている。
おそらく、この佐々部若狭とは、承世のことと思われるが、彼は家臣であった信木に殺されたという。
【写真左】本丸跡
本丸跡の規模はさほど大きくはないが、この付近はさらに高くなっている。
この小社は恐らく佐々部氏を祀ったものだろう。
この事件は、後に佐々部氏にまつわる伝説「白衣の騎士:牛首城物語り」として語り継がれているが、この経緯を史実とすると、下段の大要にもあるように、牛首城の最初の城主は、佐々部氏ではなく、龍尾氏(高之助)という武将ということになるが、確証はない。
大要は以下の通り。
“面山城に当初独身だった若狭守(承世)が在城し、牛首城には老練な城主・龍尾高之助がいた。若狭守はしばしば牛首城に出かけて、牛首城主の話を聞くのを楽しみにしていた。牛首城には、城主の娘・玉手姫(たまてひめ)という美しい姫がいた。
若狭守と玉手姫が目出度く結ばれることになったが、牛首城主高之助が病気のため急死した。急遽若狭守は玉手姫と結婚し、牛首城主となることを家来たちに報告した。
そして、牛首城主(高之助)の一番の家来だった但馬守を、北方の江の川沿いにある信木の土地と城(信木城)を分け与えた。しかし、この但馬守はもともと玉手姫に恋慕して、あわよくば姫を妻にして自らが牛首城の城主となりたいと思っていた。
【写真左】二の丸から本丸にかけての淵から下方を見る。
本丸の真下との高低差はかなりあり、険峻な切崖を構成している。
若狭守が玉手姫を娶ってから2年後、備南(福山方面)に戦に出かけることになり、その戦で若狭守は手柄を立て、牛首城で祝杯があげられた。信木城の城主但馬守は、その戦勝祝いを当城でも開きたいとして、若狭守を信木城に招いた。
信木城で宴がおこなわれ、酔いが回った若狭守に対し、突然但馬守らが切りつけ、殺害した。そのあと、但馬守らは牛首城をも包囲し、玉手姫を拉致しようとした。
その知らせを聞いた玉手姫は、
「憎い但馬守、私が男なら但馬守の首をたたき落として、わが殿の恨みを晴らそうものを。おなごであることが口惜しい」
と叫びながら、機織についている糸巻棒を持って、城の崖をかけ下り、生田川の淵に身を投じた。
その後、姫が身を投じた生田川の淵のことを「ちきり淵」というようになったという。また、信木街道辺りでは、霧が立ち込める日には、白い着物をまとった若いお殿様が白馬に乗って通り過ぎていくのを見かけるようになり、無念のうちに但馬守に殺害され、信木城から牛首城へと帰ろうとする若狭守の亡霊だといわれるようになった。
ところで、若狭守を殺害した但馬守は、その後面山城の家来たちによって捕えられ、誅殺されたという。”
【写真左】東端部にある土塁
生田川と境を接する箇所で、高さ2m近い土塁もあり、ほぼ全周囲を取り巻く。
中の方は削平地となっており、川に近いこともあり馬場跡とも考えられる。
信木城
上記した伝説の中に出てくる「信木城」は、高宮町信木というところに所在し、現在の江の川南岸に築城された。この付近の地勢は両岸とも険峻な場所が多く、信木城の北麓を江の川と並行してJR三江線(三次江津線)が走っている。
東麓には「垣の内」という地名が残り、井戸跡があるという。また、城砦遺構として記録に残るのは、本丸・二の丸・三の丸及び、三の丸の南に平壇(郭)があるという。本丸南には土塁も残っていると記されている。いつ頃の調査か分からないが、焼米も出土したという。
2,3年前に登城を試みたが、周囲は人家も少なく、ほとんど野放図状態で登城口も分からず断念した。
【写真左】牛首城入口付近
写真右側に登城口がある。写真中央に見える山は、山城ではない「面山」で、面山城は残念ながらこの写真には映っていない。
また。中央の道路をまっすぐ向かうと、尼子の出城(一時期、和智氏の陣所)であったという「仁後城」がある。
旧佐々部村の山城
参考までに旧佐々部村に残る山城を挙げておく。
備前・茶臼山城主 笹部氏
前稿でも少し述べたが、備前国赤磐の茶臼山城の城主笹部(佐々部)氏は、安芸国からやってきた一族である。
当城の築城年が天文初年(1532)ごろといわれているので、中国地方では大内氏や尼子氏の二大勢力が拮抗している時である。佐々部氏が備前にやってきて、すぐに茶臼山城を築くことはできないと思われるので、同氏が備前に入国した時期は、築城期である天文初年より大分前と考えられる。
そのきっかけは、やはりそれまで属していた高橋氏の滅亡によるものだろう。つまり大永5年(1525)のことである。このとき、安芸国にあった佐々部氏の中で、当地に残って近隣の宍戸氏や毛利氏などと手を結ぶことを選ぶ者と、意見の一致を見ず安芸国を去っていった者とに分かれたのではないだろうか。
【写真左】石積み
土塁ヶ所にみえたもので、大分崩落しているが、長さはかなりある。
映画監督・佐々部清氏
ところで、話題が変わるが、拙ブログのリンクの一つ、「sasabe.net」の映画監督・佐々部清氏は、山口県下関市出身だが、同氏の先祖はおそらく今稿で取り上げた安芸国面山城及び牛首城の城主・佐々部氏と思われる。
後に佐々部氏は毛利氏の三奉行の一人となって活躍していくが、慶長年間関ヶ原の戦いののち、毛利氏ほか主だった他の家臣と同じく、長門国などへ移ることになる。そして、今日にまで同氏の末裔が当地(山口県)を中心に住んでおられるようだ。
●築城期 永正年間~大永年間(1504~27)
●築城者 龍尾氏か
●城主 龍尾高之助、佐々部若狭守等
●形態 平山城
●高さ 標高240m(比高30m)
●登城日 2008年6月24日
◆解説
前稿面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)でも紹介したように、城主佐々部氏が面山城から移って来た城砦である。
所在地は面山城と同じく、旧佐々部村にあり、説明板にもあるように、耕地が開け、交通の便がよいという理由から当地に移ったとされる。
同氏が当城へ移った具体的な時期は明らかでないが、若狭守承世の代に行われたということから、永正から大永年間(1504~27年)の頃だろう。
【写真左】本丸跡地に立つ小社
現地の説明板より
“牛首城(うしくびじょう)跡
(佐々部氏の遺跡)
佐々部氏は、はじめ高階姓を名乗っていたが、志部府面山に城を築き、佐々部地方を支配したことから、地名をとって佐々部氏と称した。
初代若狭守承代(世)(?~1527年)は、耕地が開け交通の便がよく、また、生田川を天然の堀とするこの地(五十貫分)に城を移した。以後5代、100年間の居城であった。
佐々部氏は近郷の諸豪族、阿須那の高橋氏・甲立の宍戸氏などと姻戚関係を結び、地位の保全を図った。毛利氏台頭後はその麾下に入った。
牛首城は、若狭城・龍之尾城・龍之口城などともいい、要害堅固につくられていた。山城と平城の中間的な平山城(丘城)で、8つの郭と土塁・石塁・竪堀、などの遺構が現存する。
「御殿屋敷」と呼ばれる郭の30mに及ぶ石塁、南東側山麓の20条の土塁(畝堀)は特徴的である。
最高所の郭は、大手筋を見下ろす櫓台で、城主を祀る「辰之尾(龍能)権現社」がある。
平成14年3月25日
高宮町教育委員会
高宮町文化財保護審議会”
【写真左】牛首城登城口付近
県道322号線がカーブする地点にあり、右側には民家が建っている。
この写真の右奥がすでに当城の城域となっている。
牛首城の特徴
牛首城は説明板にもあるように、平山城である。当時の他の豪族が一般的な山城を本拠城としたのに対し、特異なケースといえる。
ただ、当時の地勢を見てみると、牛首城の東麓から南麓にかけて生田川がえぐるようなコースで流れ、西麓の田圃となっているところもおそらく生田川の河川の一部で、牛首城そのものは殆ど生田川に浮かぶ中洲的城砦ではなかったと思われる。
【写真左】本丸下付近
写真右側が本丸になり、切崖脇を通る。
なお、この時の登城日も山城探訪には最も条件の悪い梅雨時で、雑草が繁茂しあまりいい写真が撮れなかった。
また、唯一西側を走る県道322号線付近(牛首城入口付近)が高くなっているが、この場所は牛首城の西に突き出している舌状丘陵と連続する部分で、鞍部となっていたのを堀切としていた可能性も考えられる。
これによく似たケースとしては、比高の面で違いがあるものの、以前取り挙げた石見国三隅の石見・河内城(島根県浜田市三隅町河内)が挙げられる。
【写真左】石積
土塁の一部と思われるが、石積みの痕跡が残る。
縄張構成
説明板にもあるように、当城は8箇所の郭と土塁・石塁等で構成されているが、基本的な遺構区域としては、北端部に本丸(「辰之尾権現社」)を置き、南に向かって二の丸・三の丸が控え、更に生田川川岸まで「御殿屋敷」が配置されている。
そして、平山城であったこともあり、特に南東側については一段と高い土塁を築き、ほぼ全周囲にわたって防御状の遺構が認められる。
【写真左】三の丸から御殿屋敷跡付近
登城する1年前の他のサイトの写真ではきれいに除草してあったのだが、御覧の通りの状況。
写真の小屋が建つ付近が三の丸もしくは御殿屋敷といわれた郭群の位置になる。
二の丸から三の丸にかけては1m程度の高低差があり、三の丸から御殿屋敷の段差はさらに高くとってある。
光明寺
佐々部氏の菩提寺といわれ、牛首城から東北1キロの地点にあったといわる。すでに廃寺となっており、管理人は未だ訪れていないが、寺跡には一本の大木が残り、傍らには苔むした五輪塔があるという。
白衣の騎士:牛首城物語り
龍尾高之助と佐々部若狭守
ところで、前稿「面山城」で、戦国期佐々部氏の系譜を紹介したが、この中で承世(つぐよ)は、播磨守及び若狭守を官位されている。
『芸藩通志』によれば、
「牛首城主佐々部若狭は、家人信木に殺さる、今信木という処に墓あり」
と記されている。
おそらく、この佐々部若狭とは、承世のことと思われるが、彼は家臣であった信木に殺されたという。
【写真左】本丸跡
本丸跡の規模はさほど大きくはないが、この付近はさらに高くなっている。
この小社は恐らく佐々部氏を祀ったものだろう。
この事件は、後に佐々部氏にまつわる伝説「白衣の騎士:牛首城物語り」として語り継がれているが、この経緯を史実とすると、下段の大要にもあるように、牛首城の最初の城主は、佐々部氏ではなく、龍尾氏(高之助)という武将ということになるが、確証はない。
大要は以下の通り。
“面山城に当初独身だった若狭守(承世)が在城し、牛首城には老練な城主・龍尾高之助がいた。若狭守はしばしば牛首城に出かけて、牛首城主の話を聞くのを楽しみにしていた。牛首城には、城主の娘・玉手姫(たまてひめ)という美しい姫がいた。
若狭守と玉手姫が目出度く結ばれることになったが、牛首城主高之助が病気のため急死した。急遽若狭守は玉手姫と結婚し、牛首城主となることを家来たちに報告した。
そして、牛首城主(高之助)の一番の家来だった但馬守を、北方の江の川沿いにある信木の土地と城(信木城)を分け与えた。しかし、この但馬守はもともと玉手姫に恋慕して、あわよくば姫を妻にして自らが牛首城の城主となりたいと思っていた。
【写真左】二の丸から本丸にかけての淵から下方を見る。
本丸の真下との高低差はかなりあり、険峻な切崖を構成している。
若狭守が玉手姫を娶ってから2年後、備南(福山方面)に戦に出かけることになり、その戦で若狭守は手柄を立て、牛首城で祝杯があげられた。信木城の城主但馬守は、その戦勝祝いを当城でも開きたいとして、若狭守を信木城に招いた。
信木城で宴がおこなわれ、酔いが回った若狭守に対し、突然但馬守らが切りつけ、殺害した。そのあと、但馬守らは牛首城をも包囲し、玉手姫を拉致しようとした。
その知らせを聞いた玉手姫は、
「憎い但馬守、私が男なら但馬守の首をたたき落として、わが殿の恨みを晴らそうものを。おなごであることが口惜しい」
と叫びながら、機織についている糸巻棒を持って、城の崖をかけ下り、生田川の淵に身を投じた。
その後、姫が身を投じた生田川の淵のことを「ちきり淵」というようになったという。また、信木街道辺りでは、霧が立ち込める日には、白い着物をまとった若いお殿様が白馬に乗って通り過ぎていくのを見かけるようになり、無念のうちに但馬守に殺害され、信木城から牛首城へと帰ろうとする若狭守の亡霊だといわれるようになった。
ところで、若狭守を殺害した但馬守は、その後面山城の家来たちによって捕えられ、誅殺されたという。”
【写真左】東端部にある土塁
生田川と境を接する箇所で、高さ2m近い土塁もあり、ほぼ全周囲を取り巻く。
中の方は削平地となっており、川に近いこともあり馬場跡とも考えられる。
信木城
上記した伝説の中に出てくる「信木城」は、高宮町信木というところに所在し、現在の江の川南岸に築城された。この付近の地勢は両岸とも険峻な場所が多く、信木城の北麓を江の川と並行してJR三江線(三次江津線)が走っている。
東麓には「垣の内」という地名が残り、井戸跡があるという。また、城砦遺構として記録に残るのは、本丸・二の丸・三の丸及び、三の丸の南に平壇(郭)があるという。本丸南には土塁も残っていると記されている。いつ頃の調査か分からないが、焼米も出土したという。
2,3年前に登城を試みたが、周囲は人家も少なく、ほとんど野放図状態で登城口も分からず断念した。
【写真左】牛首城入口付近
写真右側に登城口がある。写真中央に見える山は、山城ではない「面山」で、面山城は残念ながらこの写真には映っていない。
また。中央の道路をまっすぐ向かうと、尼子の出城(一時期、和智氏の陣所)であったという「仁後城」がある。
旧佐々部村の山城
参考までに旧佐々部村に残る山城を挙げておく。
- 面山城
- 牛首城
- 狐城
- 信木城
- 玖須屋城
【写真左】本丸側から二の丸・三の丸を見る
写真右側には土塁状の高まりが残っている。
前稿でも少し述べたが、備前国赤磐の茶臼山城の城主笹部(佐々部)氏は、安芸国からやってきた一族である。
当城の築城年が天文初年(1532)ごろといわれているので、中国地方では大内氏や尼子氏の二大勢力が拮抗している時である。佐々部氏が備前にやってきて、すぐに茶臼山城を築くことはできないと思われるので、同氏が備前に入国した時期は、築城期である天文初年より大分前と考えられる。
そのきっかけは、やはりそれまで属していた高橋氏の滅亡によるものだろう。つまり大永5年(1525)のことである。このとき、安芸国にあった佐々部氏の中で、当地に残って近隣の宍戸氏や毛利氏などと手を結ぶことを選ぶ者と、意見の一致を見ず安芸国を去っていった者とに分かれたのではないだろうか。
【写真左】石積み
土塁ヶ所にみえたもので、大分崩落しているが、長さはかなりある。
映画監督・佐々部清氏
ところで、話題が変わるが、拙ブログのリンクの一つ、「sasabe.net」の映画監督・佐々部清氏は、山口県下関市出身だが、同氏の先祖はおそらく今稿で取り上げた安芸国面山城及び牛首城の城主・佐々部氏と思われる。
後に佐々部氏は毛利氏の三奉行の一人となって活躍していくが、慶長年間関ヶ原の戦いののち、毛利氏ほか主だった他の家臣と同じく、長門国などへ移ることになる。そして、今日にまで同氏の末裔が当地(山口県)を中心に住んでおられるようだ。
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