2011年9月18日日曜日

五龍城(広島県安芸高田市甲田町上甲立)

五龍城(ごりゅうじょう)

●所在地 広島県安芸高田市甲田町上甲立)
●築城期 南北朝期
●築城者 宍戸朝家
●高さ 標高270m(比高90m)
●遺構 郭・空堀・土塁・石垣等
●指定 広島県指定史跡
●登城日 2007年7月16日及び2010年12月8日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 五龍城は、前稿まで取り上げた面山城・牛首城と同じく、現在の安芸高田市に所在しているが、牛首城から直線距離で南方10キロ離れた甲田町に築かれた山城である。
【写真左】五龍城遠望
 現地説明板に添付してあった写真の一部で、左に江の川、右に本村川という天然の濠を配し、細長く突き出した舌陵丘陵上に築城されている。
 なお、江の川をさらに遡って行くと、毛利氏の吉田郡山城につながる。


 現地には以前からあるものとは別に、最近(平成22年)に新しく設置された説明板がある。今稿ではその説明板より転載する。

県史跡 五龍城跡
   昭和46(1971)年4月30日指定


 本城跡は宍戸氏の本拠城である。宍戸氏は南北朝期にこの地に移り、当初本村川の対岸にある菊山の中腹に「柳ヶ城」を築き、これに拠ったが、やがて対岸の元木山に城を築き本拠とした。
 五龍城の名は「この山に城を移したが用水が足りず、五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに水が湧き出した」という伝承に由来したものという。
【写真上】縄張図
 
 尾根筋上及びその山腹部分約700m×150mの範囲に広がる遺構は、尾根を遮断する堀切と土塁によって三つの郭群に分けることができる。


 両側を堀切によって区切られる中央部郭群は、本城跡の中核をなす部分で、「本丸」「二の丸」「三の丸」などの郭名が残る。西側の堀切に面した本丸西端には、削り残した高さ5mの土塁があり、堀底からの高さは16mにも及ぶものである。


 西端の郭群には、「御笠丸」の名をもつ郭をはじめとして、長大な郭が多い。中央部郭群と同様「御笠丸」西端にも、高さ3mの土塁を置き、その外側は土橋を持つ堀切と竪堀を設けている。


 郭群東端にある司箭(しせん)神社は、幼少期より兵法剣術を好み、司箭流薙刀(なぎなた)・貫心流剣術を編み出した宍戸家俊(6代城主元家の三男)を祀ってある。家俊は広島県では唯一の武術の元祖として知られている。
  平成22年3月 安芸高田市教育委員会”
【写真左】尾崎丸・司箭神社
 登り口はこの尾崎丸から向かうが、北側及び南側の両方から登る道が設置されている。
 なお、すでにこの先端部から険峻な切崖となっている。


宍戸氏

 宍戸氏については、前稿「牛首城」や前々稿「面山城」でも取り上げてきているが、あらためて整理しておきたい。

 宍戸氏の本拠は、常陸国(現在の茨城県)宍戸にあって、南北朝期足利尊氏に従った宍戸朝家が六波羅を攻め、その功によって安芸守を任じられ、甲立荘(現在の甲立盆地)を領したことが始まりとされている。

 従って、入部したのは建武元年(1334)ごろとされているので、同じく尊氏に属し、同年(1334)5月、備後へ出兵を命じられ、翌2年備後国守護職となった神辺城主・朝山景連(「神辺城」2011年7月11日投稿参照)とほぼ同様の流れだったと思われる。

 宍戸氏が最初に築いたのが、本村川を挟んだ北方の菊山中腹の柳ヶ城である。現在菊山東麓には、宍戸氏の菩提寺といわれている「法源山 理窓院」があり、宍戸元源の墓が安置されている。
 菊山の柳ヶ城からすぐに南方の元木山へ移ったのは、恐らく北岸に本村川を、南岸に江の川(広島県では可愛川と呼称されている)という天然の濠を有する地の利を考えてのことだろう。
【写真左】一位の段
 上掲の「尾崎丸」「司箭神社」から登った所にある郭で、この間には連続する遺構が認められないことから、独立した城砦遺構として設計されてた痕跡がうかがえる。




 安芸宍戸氏は、初代朝家から始まり、以後下記のように続いた。

  • 2代 基家
  • 3代 家秀
  • 4代 持家
  • 5代 興家(常陸穴戸氏から分立、安芸宍戸氏とする)
  • 6代 元家(常陸穴戸氏から、迎えられる)
  • 7代 元源(もとよし)
  • 8代 隆家
  • 9代 元続
この中で4代・持家のあと、持朝という武将が実際には継承しているが、彼を5代とはせず、持朝の子・興家としている。このことは、以下に示す継嗣問題と絡んでくるのかもしれない。
【写真左】土塁
 一位の段から釣井の段の間に設けられた土塁。
 五龍城は写真にみえるような土塁が数多く見られる。何れも登城道に対して直角に遮るように直角に設けられたもので、良好に残っている。



 そしてこの5代・興家から、6代・元家に続く継嗣については、諸説があり確実なことは分からないが、次のような伝承が残っている。

 5代・興家は暗愚の人物で、領民は彼の悪政に苦しみ、そうしたころ、宍戸氏の本拠常陸の国から四郎元家が諸国修行のおり甲立に立ち寄り、元家の武将としての資質が優れていることを知った家臣たちは、興家を主君から降ろし、元家を6代安芸宍戸氏当主とした、という。

 宍戸氏の本国常陸の将が、この時期諸国修行ということで、たまたま訪れた安芸国でこのような運命に出くわすということ自体、いささか出来すぎた話ではある。

 現在では元家自身は安芸宍戸氏の庶流であって、むしろ安芸宍戸氏の惣領家から、庶流であった元家が半ば強引な形で継承したのではないかともいわれているが、定かでない。
【写真左】釣井の段
 この辺りから高低差が高くなっていく。











 元家はその後、近隣の諸豪族(深瀬の中村氏、秋町の辺見氏など)を配下として従え、江の川下流の三吉氏とも抗争を続けて行く。そして、永正元年(1504)に、長男・元源(もとよし)に家督を譲り、自らは二男・隆兼と深瀬の祝屋城に移った。

 安芸宍戸氏が隆盛を誇るのは元家から、7代元源にかけてからである。特に元源は永正4年(1507)から同13年の間、南方の吉田郡山城毛利興元と度重なる交戦を繰り広げ、「面山城」(2011年9月7日投稿)でも記したように、大永年中(1521~27)にかけては、北の高橋氏とも戦火を交えた。
 大永5年(1525)、原田猿掛城落城後、佐々部氏が宍戸氏に属していったのは既述の通りである。

 その後も元源は毛利氏との抗争を続けていたが、天文2年(1533)元源の孫・8代隆家と、元就の女との婚儀によって和睦を結び、元源亡きあとは次第に毛利氏の配下となっていく。
【写真左】矢倉の段
本丸まで204mと書かれている。
【写真左】三の丸
このあたりから左右の幅が広くなり、特に右側(北側)の郭が奥まで伸び、帯郭も兼ねた郭段の構成となっている。
【写真左】二の丸
【写真左】桜の段
【写真左】姫の丸
【写真左】姫の丸付近の土塁
【写真左】本丸・その1
 姫の丸を過ぎると本丸が控える。郭そのものの規模は大きくはないが、その後方には写真にみえる土塁が構築されている。
【写真左】本丸・その2
 南側から見たもので、土塁の基礎には石積みが施され、崩落を防いでいる。


【写真左】本丸・その3
 土塁の頂部に当たる箇所で、幅1m前後、長さは14,5m程度か。この写真の左側には険峻な切崖と堀切がある(下の写真参照)。
【写真左】本丸土塁下の切崖
 当城の中では最も規模の大きな切崖で、下段の堀切底面から15mもあるという。
 残念ながら、この箇所から奥には向かっていない。


 この位置までの規模と同程度の遺構がさらに先に構築され、「御風呂の段」「御釜ノ段」「御倉ノ段」「厠ノ段」「御笠丸」と続き、その後南北に長大な堀切があって、更に「足軽ノ段」「井戸」などの遺構があるという。
 この箇所については、『城郭放浪記』さんが詳細な写真を紹介しているので、是非ご覧いただきたい。 
【写真左】石垣跡








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