2011年9月19日月曜日

安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)

安芸・宍戸氏の墓(あき・ししどしのはか)

◆解説
今稿では、五龍城主であった宍戸氏の墓2か所を紹介したい。

(1)宍戸元源の墓
●所在地 広島県安芸高田市甲田町上甲立
●探訪日 2011年7月15日

 宍戸元源の墓は、前稿「五龍城」でも紹介した宍戸氏の初期の居城・柳ヶ城のあった菊山の東麓に建立されている。この場所には理窓院という寺院があり、当該境内隅に祀られている。

 理窓院の縁起は分からないが、柳ヶ城麓であることを考えると、何らかの関係があったものと思われる。
【写真左】理窓院
 国道54号線から北に枝分かれする狭い道を登っていくと周辺に墓地があり、その先に当院が建立されている。




現地の説明板より

宍戸元源の墓

 宍戸元家の長男、1504(永正元)年、五龍城主であった父元家が深瀬祝屋城に隠居した後、五龍城主となった。
 1507(永正4)年、大内義興が将軍足利義稙を奉じて上洛するに際して、これに随い、日置峠の戦いに戦功を立てた。
 西隣りの毛利氏と数度にわたって戦いを交えたが、最後の雌雄を決するには至らなかった。
【写真左】宍戸元源の墓
 当院の若い御住職がたまたまおられ、尋ねたところ、当該墓地まで御案内を戴き、さらには宍戸に関する話を聞かせていただいた。
 墓石は五輪塔形式のもので大きなものではないが、当院で今日まで管理されている。


 御住職によると、俳優の宍戸錠氏は、この安芸宍戸氏の本家、すなわち常陸(茨城県)宍戸氏の末裔とのことらしい。


 1533(天文2)年、毛利氏は宍戸氏と和睦し、翌1534(天文3)年正月18日、毛利元就自ら五龍城を訪れ、元就の長女五龍姫と孫の隆家との婚約を決めた。

 こうして、毛利氏は宍戸氏という強力な味方を得、宍戸氏は毛利氏一門としての待遇を受けることになる。
 1542(天文11)年没。
 甲田町教育委員会”
【写真左】元源の妻の墓
 元源の墓石の隣りにある小ぶりな五輪塔で、彼の妻の墓といわれている。






(2)宍戸隆家夫妻の墓

●所在地 広島県安芸高田市甲田町上甲立
●探訪日 2008年6月24日

隆家は五龍城主第8代で、妻は毛利元就の長女・五龍姫である。
【写真左】墓地入口
 本村川の支流余谷川を少し登った丘陵地に設置されている。








現地の説明板より

“ 宍戸隆家夫妻の墓

 宍戸隆家は、五龍城第8代城主。妻は毛利元就の長女五龍姫である。第1次尼子吉田郡山城攻めにおいては、深瀬犬飼平、江の川石見堂の渡しの合戦で、尼子勢を深瀬○○とともに敗退させた。その後大内、尼子、○○氏等その戦績は枚挙にいとまがない。1592(文禄元)年没(壽76歳)。


 向かって右は、隆家の墓で天叟覚隆(てんそうかくりゅう)大居士、左は後妻、小河内の石見繁継の姉、椿窓寿久禅定尼(ちんそうじゅきゅうぜんじょうに)である。
【写真左】石垣
 この墓地は元々天叟寺という寺院のあった場所であることから、周囲にはこうした寺坊跡らしき段が残っている。





 五龍姫は、1574(天正2)年に没した。法名は法光院殿栄室妙寿禅定尼、墓は天叟寺旧地にありと記録されているが、所在は明らかでない。

 また、この墓所向かい山の中腹に隆家火葬場跡と伝えられる灰塚と呼ぶ地がある。
甲田町教育委員会”
【写真左】隆家墓地手前付近
 廃寺となってから大分荒廃した場所となっていたのだろう、周囲には他の墓石の破片と思われるようなものが少し残っていたと記憶している。
【写真左】隆家の墓
 少しピンボケ気味に撮れてしまった。
【写真左】隆家妻の墓
 おそらくこの墓が妻のものだろう。
【写真左】墓地から下を見る
 左側には池が残っている。


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