2011年9月26日月曜日

稲岡城(島根県益田市下本郷稲岡)

稲岡城(いなおかじょう)

●所在地 島根県益田市下本郷稲岡
●築城期 鎌倉期(弘安年間:1278~87年か)
●別名 上の山城・城の辻
●高さ 標高30m
●遺構 郭
●遺跡の現状 消滅
●築城者 多根兼政
●登城日 2011年2月1日

◆解説(参考文献『益田市誌上巻』)

弘安の役

弘安4年(1281)5月、高麗の東路軍が、対馬・壱岐に襲来した。そして6月6日、東路軍が博多湾に現れた。閏7月暴風雨により敵船の多くが標没し、残った船は逃げ帰った。鎌倉中期、蒙古襲来ともいわれる弘安の役(1回目は1274年で、文永の役)である。
【写真左】稲岡城跡付近
 稲岡城跡は残念ながら遺構は殆ど消滅しており、跡地には「雪舟の郷記念館」「雪舟の墓」「大喜庵」及び、「小丸山古墳」などがある。
 この写真は「雪舟の郷記念館」側の駐車場付近。

多根兼政

これに対し、中国探題は、石見国においては同国最大の豪族・益田氏に対し、石見海岸全域にわたって防備に当たるよう指示を出した。時の益田氏の当主は兼時である。

兼時の弟である末元兵衛兼直は、浜田市の松原(当時の岩崎)を岡本常房と協力して当たった。常房の後室は兼直の女である。

そして兼直の弟は、東北両仙道地頭の多根兼政である。兼政は高津の鍋島(現在の長者原付近)を中心に防備に専念した。
この時築かれた砦は、後に「石見18砦」といわれ、益田氏が担当したのはこのうち6砦である。
【写真左】多根兼政公顕彰碑
 この場所は基本的に雪舟関係の施設と、小丸山古墳を主だった観光施設として打ち出
しているため、多根兼政に関するものはこの顕彰碑と、下の写真にある宝篋印塔のみである。
【写真左】移設された兼政の墓
 この脇には次のような説明板が掲示されている。


“公は益田兼季(益田城第5代当主)の五男で、北・東仙道、種(多根)の地頭職を努め後年、乙吉に上の山城を築いて、益田城外城としての大役を果たし、この地を拓いた功労者である。
 公墓は上の山、一升野にあったが、この地に移して復元した。”

さて、今稿で紹介する「稲岡城」は、この多根兼政の居城といわれている。上記したように彼は益田兼時の弟になるが、仙道地頭に封ぜられ、本拠を種(多根)村としたので、このときより益田姓を廃し、地名である多根をもって姓とした。

彼はその後、兄兼時の命によって大規模な益田川の開墾・土木工事に着手した。現在の益田市街を流れる益田川・高津川などは、兼時による新田・川違い工事などる箇所が多い。さらに、彼は大規模なため池も手がけている。

稲岡城

稲岡城が所在した当時の下本郷の稲干山(稲岡山)は、それまで益田本郷の屯倉(みやけ)に関係した稲の収蔵地であったが、大化の改新後荒廃していたという。兼政はこの地に稲岡城を築いた。
【写真左】稲岡城略図(『益田市誌上巻』より転載)
 城砦としての構成は極めて単純なもので、本丸・出丸ともほぼ同程度の規模という。周囲400mと記されているので、全体に小規模なものだったようだ。

築城期は従って、弘安年間(1278~87)ごろと思われる。当時の記録では東西にそれぞれ丘があり、東に本丸、西に出丸を設け、全周には幅4mの馬場を設け調練場とした。

兼政は晩年、当城の東南麓にある椎ヶ森に菩提寺・東光寺を建立し、信仰生活に入ったといわれるので出家したと思われる。稲岡城を築いて間もない弘安7年(1284)、この寺で逝去した。
法名 涼徳院殿前猷厳大居士
【写真左】旧東光寺(現大喜庵)
 兼政の菩提寺・東光寺があったところで、現在大喜庵となっている。
 室町期の画聖・雪舟が特にこの地域を気に入ったようで、この上に向かうと彼の墓地がある。

現地に設置された縁起は次の通り。


“大喜庵(東光寺)の由来
 大喜庵は元禄3年(1690)、都茂の僧・大喜松悦が建立した庵です。
 その前身は白水山東光寺(一名山寺)・後に妙喜山と呼ばれたこの地方きっての大伽藍でした。
 鎌倉の中期・益田氏の一族・多根兼政が菩提寺として建立、室町期には南宗士綱が再興し、以来石窓禅師・勝剛長柔・竹心周鼎が入山しました。


 文明年間に山口の雲谷庵より来住した雪舟等揚禅師は、付近の風景が中国の名勝瀟湘や洞庭の雰囲気によく似ていることからこの地を殊に愛し、「山寺図」をスケッチし、また「益田兼尭寿像図」「四季花鳥図屏風」を描く傍ら、医光寺・万福寺に心の庭を築きました。


 禅師が東光寺に生活の場を求めたのは、文亀2年(1502)、2度目の益田訪問の時です。まさにあこがれの舞台でしたので、日夜禅の道に精進しながら画業にも専念していましたが、永正3年(1506)87歳、終にこの地で永眠しました。


 東光寺は、その後天正年間に全焼し、仁保成隆が再建した小庵も、益田氏の須佐転封で廃頽するばかりでした。前述した大喜松祝の力によって、雪舟禅師の香りを現今にとどめることができました。


 裏山には雪舟禅師や、大喜松上座の墓があり、堂内にはただ一つ焼失をまぬがれた東光寺のご本尊観世音菩薩像があります。


正和56年9月
 雪舟顕彰会”
【写真左】雪舟の墓・その1
益田市指定文化財となっており、「石州山地雪舟廟」と銘記されている。
現地の説明板より


“益田市指定文化財
雪舟の墓
  昭和46年6月21日


 雪舟は応永27年(1420)に備中(岡山県)に生まれ、幼くして相国寺に入り、周文から画法を学び、応仁元年(1467)、明に渡り中国の画法も学んだ。


 また、益田氏の招聘によって、石見を二度も訪れ益田で死没したといわれる。
 雪舟の没年は、永正3年(1506)であるといわれており、終焉地については東光寺(現大喜庵)の他、山口雲谷庵、備中重源寺、同真福寺など諸説があるが、墓が存在するのは益田市のみである。
【写真左】雪舟の墓・その2
 上部に相輪が納めてあるようだ。


 雪舟の墓は東光寺の荒廃とともに寂れたが、江戸時代中ごろの宝暦年間に乙吉村の庄屋金山太右衛門が施主となり願主である佐州(佐渡島)の浄念とともに改築したものが現在の墓で、内部には旧墓の相輪が納められている。”
【写真左】小丸山古墳・その1
 雪舟の墓・多根兼政の墓を過ぎ、そのまま登っていくと、小丸山古墳がある。
 稲岡城と隣接した場所であるため、鎌倉期にこの古墳も城域の一部とした可能性もある。


 型式は前方後円墳で、古墳時代後期6世紀の初めごろ造られたと考えられ、当時この地方を治めていた首長の墓と考えられている。
 墳丘の全長は52mで、石見地方としては4番目の規模を持つものといわれている。
【写真左】小丸山古墳・その2
【写真左】小丸山古墳・その3
【写真左】小丸山古墳・その4
 後円部北端部最高所から北方を見たもので、稲岡城が使用されていた時は、この場所も物見櫓的な利用があったかもしれない。



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