2012年2月1日水曜日

満願寺城(島根県松江市西浜佐陀町)・その1

満願寺城(まんがんじじょう)その1

●所在地 島根県松江市西浜佐陀町
●築城期 大永元年(1521)又は大永7年(1527)
●築城者 湯原信綱
●高さ 28m
●形式 平山城
●遺構 郭・堀切・横堀
●登城日 2006年1月9日、及び2012年1月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 満願寺城については、前稿荒隅城などでも紹介しているが、宍道湖北岸の浜佐陀にある満願寺及びその背後の丘陵上に築かれた平山城である。
【写真左】満願寺城遠望・その1
 以前紹介した「真山城」本丸跡から見たもので、宍道湖北岸に築城された平山城(海城)である。





 満願寺城の手前に大きな池が見えるが、これは古代から中世にかけて宍道湖とつながっていた「佐陀水海」の残湖で、現在はこの池と、東方を南北に流れる佐陀川(海老山城(島根県松江市 上佐陀町~八束郡 鹿島町)参照)がその当時の地勢をわずかに残している。

 このため、戦国期は写真でも想像できるように、満願寺城は西方から伸びた丘陵上の東端、すなわち岬の先端部に築かれた海城形式の城砦だったと考えられる。
【写真左】満願寺城遠望・その2
 宍道湖を挟んで南(国道9号線)側から見たもの。
 後背は島根半島の山並み。





 現在も同名の寺院である満願寺があり、当院縁起の中にも当城について次のように記されている。

“高野山真言宗
 金亀山 満願寺
  • 出雲観音霊場第31番
  • 出雲国13仏霊場第4番
  • 古江六地蔵霊場第6番
縁起
 当山は53代淳和(じゅんな)天皇の天長元年(824)に弘法大師(空海上人)が、杵築(出雲)大社に参籠される際、日暮に及びこの地に立ち寄られ、実に四神相応の地と暫く逗留された。この間に大師は一刀三礼の元に御長二尺三寸(75cm)の聖観世音菩薩像を彫刻され、胎内に天長元年3月17日と記し加持開眼された所、竜神が感応し、湖水より数尋の竜神が顕れた。大師はすぐさま経文の四句の偈を授けられた。竜神は忽ち五色の大亀に変じ、金の釜を大師に捧げられた。大師は神国に来て不思議な縁に逢い、神のみ心に相応するこの地で祈願が通じ満足したとして、この寺を、金亀山(きんきざん)清浄院 満願寺と名付けられたのである。

 又、後伏見天皇の正安年中(1300年の初期)高野山の八傑である信日・信堅の両上人によって建立されたものであった。
 以前の本堂は、平成2年4月8日に本尊御開帳(33年に1度)と合わせ新築落慶されたものである。
御詠歌は 思い立ち満る願こそうれしけれ
  順礼道も三十一文字
【写真左】満願寺城遠望・その3
 北側の国道431号線側から見たもので、左側の丘先端部に満願寺本堂があり、その後ろ(右側)の頂部に主郭があったものと思われる。


 なお、そこからさらに鞍部があるが、現在ほとんど墓地となって、右側の頂部あたりまで伸びている。

満願寺城跡
 本堂裏山にあり、戦国時代、大永7年(1527)に造営され、毛利・尼子の合戦の時、毛利元就の陣となる。

玉椿
 永禄7年(1565)春、毛利元就公の御手植えと伝う

いちよう木
 樹高20m(平成6年夏旱魃の折上部伐採以前は33m)
 目通囲 5,2m、樹齢800年以上
【写真左】大銀杏
 入口付近に植えられているもので、先端部は切り落とされているが、それでも大木である。
 この大銀杏は、春になると遠く離れた宍道湖対岸の国道9号線からもよく見えたものだ。

満願寺年中行事
 (省略)

檀信徒の皆様の御参詣をお待ちいたしております。
       山主 合掌”
【写真左】満願寺城
 東方湖岸側から見たもので、写真中央の小山に主郭・堀切などがある。


 手前は現在堤防などが敷設されているが、当時は遠浅の入江だったと思われる。


築城者・湯原氏

 満願寺城の城主は、湯原氏である。
 「湯原系図」によると、湯原喜信は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の戦功によって、秋鹿(あいか)郡内の地を給され、その孫信綱は大永元年(1521)尼子経久に属して満願寺城を築き当地に拠ったとされている。ただ、現地の説明板では大永7年(1527)と記されている。

 もっともこれ以前の南北朝期、湯原嘉常の子・頼綱が、後醍醐天皇が船上山に拠った際、馳せ参じ功があり、出雲国秋鹿・島根、及び伯耆国相見を賜った、という記録もあり、出雲国における同氏の始祖ははっきりしない。
【写真左】満願寺の入口付近
 東側に駐車場が設置され、そこから階段やスロープを通って境内に入る。







京極持清の出雲国守護職補任

 嘉吉の乱(嘉吉の一揆)については、平田城・その1で少し述べているように、永享11年(1439)出雲守護職・京極持高が没し、叔父・高数が暫定的に引き継ぐも、嘉吉の乱後の嘉吉元年(1441)12月20日、幕府は改めて京極持清京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)参照)を出雲・隠岐・飛騨国の守護職に補任し、所領を安堵している(佐々木文書)。

 湯原氏が秋鹿の地を給されたのは、従って、この持清の守護職補任のときと思われる。ちなみに、この「嘉吉の乱」の論功行賞として給地を宛がわれ、築城したものとしては、中国地方では美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)などがある。
【写真左】本堂
  創建が正安年中(1299~1301)といわれているので、ちょうど杵築大社遷宮にむけて幕府が造営を急がせている時期である。


 「出雲大社文書」によれば、正安2年(1300)に、幕府が同社造営奉行に、佐々木貞清・朝山時綱・多禰頼茂を任命し、協力して造営にあたるよう大社官主に命じている。


 ところで、築城者であった信綱は、当初尼子経久に属し、嫡男・弥次郎宗綱には伯耆国にある「時山城」を譲り、その後宗綱は再び満願寺城に戻ったとされている。このことは、前述した南北朝期に同氏が「伯耆国相見」を賜った、という記録と符合する。
なお、相見は旧名の会見と思われ、現在の南部町付近と思われるが「時山城」の所在地については分からない。

 その後宗綱は、天文9年(1540)の尼子氏による安芸毛利氏攻めにおいて、山縣弥三郎によって討たれ、23歳という若さで亡くなる。

 さて、「白鹿城」「荒隅城」の稿でも既述したように、尼子氏本城の月山富田城が毛利氏によって落城したのは、永禄9年(1566)の11月である。その後、山中鹿助・尼子勝久らが忠山城(島根県松江市美保関町森山)に拠って、尼子再興の旗を挙げたのは、それから3年後の永禄12年(1569)6月のことである。
【写真左】満願寺城から荒隅城を見る。
 満願寺城から荒隅城までは約1.5キロの距離で、両城間の往来はほとんど水運が使われたのだろう。
 



湯原春綱、毛利氏に属す

 このころ満願寺城は、亡くなった宗綱の嫡子・右京進春綱が跡を継ぎ、元就が「荒隅城」に陣を構えた永禄5年(1562)の段階で、尼子氏から毛利氏に属している。
つまり満願寺城も毛利氏の支配下に入ったわけである。

 その後、前述した尼子再興軍の蜂起の際も、春綱はそのまま毛利氏に属し吉川元春の支配下にあった。
【写真左】満願寺城から北東に白鹿城・真山城を望む。
 冒頭で、真山城から満願寺城を俯瞰したものを紹介したが、この写真は逆に見たもの。


 撮影したこの日はあまり天気がよくなく、明瞭でないが、写真の中央やや左側に両山が見える。



湯原氏と米原氏

 ところで、この湯原氏の系譜には斐川の高瀬城主であった米原綱寛に繋がる。

 出典は不明だが、米原綱寛は湯原春綱の伯父とされている。「綱」の文字が両名に入っていることからも窺えるが、綱寛が春綱の伯父ということからすると、春綱の父・宗綱が綱寛の弟ではなかったかと推察される。あるいは、宗綱の妻が綱寛の妹という線も考えられる。

 そこで、ではなぜ湯原氏が米原氏との縁戚関係を持つに至ったのだろうか。このことについての証左史料は持ち合わせていないが、逆にこれが明らかになると、以前取り上げた斐川の「高瀬城」の城主・米原氏が、近江からやってきた時期、及びその背景が明らかになるかもしれない。

 どちらにしても、両氏(湯原氏・米原氏)を結びつけるものとしては、尼子氏はもちろんだが、それ以前の出雲国守護職であった京極氏が、限りなく関わっている可能性が極めて高いと考えられる。

春綱の起請文

 さて、永禄12年(1569)、斐川の高瀬城主・米原綱寛が、九州の立花山城で毛利方として随従し、大友宗麟と交戦しているとき、出雲国で山中鹿助らの尼子再興軍が蜂起した際、再び尼子方に寝返ったのは周知の通りである。

 当然ながら、春綱の伯父である綱寛が尼子方に寝返ったことは、春綱に対する毛利氏側の信頼は大きく低下した。このため、春綱は異心がないことを示すため、毛利氏に対し忠誠を誓約する起請文を提出することになる。

 次稿では、この後の湯原春綱の戦歴、並びに満願寺城の遺構について紹介したい。

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