2011年6月12日日曜日

備中・国吉城(岡山県高梁市川上町七地)

備中・国吉城(びっちゅう・くによしじょう)

●所在地 岡山県高梁市川上町七地
●別名 手の庄城
●築城期 元弘年間(1331~34)以前
●築城者 安藤太郎左衛門入道元理
●城主 三村政親等
●形式 連郭式山城
●遺構 本丸・土塁・脇郭
●規模 80m×210m
●高さ 標高420m
●指定 市指定史跡
●登城日 2009年6月2日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 前稿まで美作国の山城が続いたが、今稿では備中国の山城「国吉城」を取り上げる。
 なお、参考までに記すと、今稿の「国吉城」は、備中国のものだが、同名の城としては、若狭・国吉城(福井県三方郡美浜町佐柿)もあり、こちらは若狭国守護大名武田氏の家臣粟屋越中守勝久が築いたものである。
【写真左】国吉城遠望
 南側から撮ったもので、特にこの位置で見た当城の険峻な山容に少なからず感動を覚えた。




 さて、備中・国吉城の所在地は、高梁川の支流成羽川にそそぐ領家川から、さらに支流となって流れる西谷川の北方に聳える標高400m余りの山に築かれている。

 当城から直線10キロ西方は備後国に繋がり、西谷川・領家川を下ると成羽川に流れ、さらに本流高梁川に合流すると、備中松山城(岡山県高梁市内山下)へとつながる位置である。

 現地の説明板より

 町指定 国吉城址

 備中松山城(城主三村元親)の支城である国吉城(城主三村政親)は、毛利輝元の総大将小早川隆景の率いる2万の兵に、天正2年(1574)12月大晦日の夜、遂に攻略された備中兵乱の激戦を伝える中世の山城である。

 「備中府誌」によると、安藤太郎左衛門入道元理が、北条家からこの地を地頭職として宛がわれた。この城を創設した時期は、鎌倉期以前と思われる。

 兵乱後は、毛利から口羽中務大輔春吉が在城。また関ヶ原合戦後に毛利が萩に移封となってからは、糟谷内膳正武則、八兵衛安長など、慶長7年(1602)から同15年(1610)まで居城したが、翌16年(1611)に、徳川幕府直轄領となったのを機会に廃城となった。
【写真左】分岐点の看板
 左に向かうと「磐窟渓(いわやけい)」、右に行くと国吉城(城山公園)に向かう。

 なお、このあたりから先は道は狭く、切り立った断崖の上に道路が設置されているので、自動車の運転は気を使う。

 この城は、「く」の字状に屈曲した横矢斜の連郭式山城である。館跡と思われる地頭「堀ノ内」から北西約1.5キロ離れた標高419.6mで、谷田よりの比高約140m。付近の地名に陣山、逆茂木谷、札場、掛谷、水ヶ迫、的場ノ段、小城山、玄蕃ヶ鼻等がある。
 
 城の縄張は総延長180mの城郭で、南北に連なる8曲輪と、西側より南側へ回り込んでいる通称「馬場」と呼ばれている脇郭で構成されている。
 
 最北の郭を「一ノ壇」と仮称すると、この郭は長さ70m、幅15~18mで、その北端に長さ7mの小規模な土塁がある。
 「二ノ壇」は、「一ノ壇」より0.5m上にあり、郭面は東西15m、南北24mの規模で、ここが主郭である。その理由は、城郭全体のほぼ中央に位置すること、城内に入る道が「一ノ壇」の東辺に沿って「二ノ壇」に通じていることなどによる。

 脇郭の構造の特色は、郭面からかなり離れた低い位置にあり、また郭面からの距離は15~30m、比高は20m以上もあり、この施設が部分的、限定的なものでなく、峰続きの北側から連郭の西辺を直線的に走り、南西角に折れをもって、南辺まで伸びる大規模なものである。

 従って、城内の奥行を増し、攻勢、防御の両面の機能を一層高めている。

川上町”
【写真左】登城口付近
 車は城域の近くまで行くことができる。写真は駐車後歩いて向かう最初の地点で、両側に門柱のようなものがあり、しめ縄が飾ってあった。


安藤太郎左衛門入道元理

 築城者とされている安藤太郎左衛門入道元理(以下「安藤元理」とする)は、北条家からこの地を宛行われているので、その時期は、おそらく承久の乱(1221年)後と思われる。

 そして、弘安2年(1279)の頃まで、備中守護職が北条氏得宗の所管地であったことが知られており、この期間に安藤元理が当地に在住したと思われる。
【写真左】土塁跡
 国吉城は説明板にもあるように、シンプルな構成となっており、4郭と、西から南に回っている通称「馬場」と呼ばれた脇郭がおもなものである。

 この写真は、登城後最初に見えた土塁跡で、竹が生えているためはっきりしないが、最北端の郭(一の壇:下参照)に設置されている小規模なもの。

南北朝期

 元弘3年(1333)、船上山に拠った後醍醐天皇の下に馳せ参じた備中国の一族としては、新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄(荘)・真壁の諸氏が記録されている。
 このうち、国吉城の所在する川上町に最も近いところにいた一族は、上記の中では成合(成羽)氏、庄(荘)氏、及び三村氏である。
 
 『太平記』に上述した安藤(元理)氏の末裔の名が見えていないところを見ると、すでにこのころ、安藤氏は上記三氏のいずれかに属していたと思われる。
【写真左】北側の「一ノ壇」
 写真左側は一段低くなって南に繋がり、右側が「一ノ壇(仮称)」と呼ばれる郭。長さ75m×幅12~20m。
 なお、写真にみえる構造物は簡易水道のタンクのようなもの。

室町・戦国期

 室町期における備中国は、守護細川氏の領国となっていた。しかし、応仁の乱を終えたころから、いわゆる下剋上の機運が当地でもおこり、延徳3年(1491)には、守護代であった荘元資が反乱を起こし、守護細川勝久と対決、翌明応元年(1492)2月から3月にかけて、守護細川勝久は荘元資の蜂起を一応鎮圧した。

 しかし、すでに細川氏には当国を治める力はなくなり、備中守護としてその後受け継いだ細川之持・同政春らは名目的なもので、守護代の荘・石川両氏をはじめ、成羽の土豪三村氏、備北の新見・多治部氏らの急激な台頭が目立ってくる。
【写真左】「一ノ壇」から主郭へ
 「一ノ壇」から次第に登りこう配となって、主郭へ向かう。
 現在、主郭跡には小社が祀られている。


 特に、荘氏は元資の子為資の代になって、天文2年(1533)、それまで備中松山城の城主であった上野伊豆守を攻め落とし、元の本拠地であった南方の小田郡草壁荘の備中・猿掛城から、この松山城へ入り、備中における最大の土着国人勢力として覇を唱えた。

 しかし、以前にも述べたように天文年間(1530年代)より、山陰からは尼子氏、安芸・備後の西方からは毛利氏などの進出が始まり、備中国内は再び不安定な様相を呈してくる。
【写真左】主郭跡付近に建つ小祠
 主郭跡とされている郭は、東西14m×南北25mの規模を持ち、「二ノ壇」と仮称している。


 
 永禄2年(1559)5月、毛利元就の嫡子・隆元は、朝廷に対して「備中国平定」について奏上を行った。

 その3年後の8月、将軍義輝は隆元に対し、備中・備後両国の守護職を与えた。備作へ先んじて進攻してきた尼子氏は、永禄3年(1560)12月、晴久の急逝によって、嫡男義久が跡を受け継ぐも、最盛期の勢いは一挙に衰退し、代わって毛利氏の進出が顕著になっていた。
【写真左】主郭付近に立つ社
 現在写真にみえる建物が設置され、しめ縄が飾ってあることから、三村氏を祀ったものだろう。



三村家親・元親

 これによって備中国で最も早く毛利氏側に属したのは、成羽城主三村家親・元親父子である。

 三村氏は毛利方備中国の先鋒として、美作進出を担い、当時西美作の最強の豪族であった美作・高田城主・三浦貞盛を落とし、更に東進し、東美作の浦上氏と対峙するにいたった。

 このような状況下、その浦上氏の中にあって、家臣であった宇喜多直家の台頭が著しく、ついには浦上氏に代わって、備前・美作は宇喜多氏の扶植が進んでいった。
 
 永禄9年(1566)2月、宇喜多直家は、美作に陣していた三村家親を、興禅寺上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)参照)に暗殺せしめた。このため、元親は、父家親の仇を討たんとして、翌永禄10年春、石川・荘・植木ら備中の諸勢を率いて、備前に入り明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)付近において宇喜多直家と激戦に及んだ。戦いは三村氏の敗北となり、備中へ退いた。

 この戦いは後に明禅寺崩れと呼ばれ、この勝利によって、周辺の国人領主(岡山の金光宗高・御野郡船山の須々木豊前・上道郡中島の中島大炊助ら)は、宇喜多氏の麾下として服属していった。
【写真左】「三ノ壇」から「二ノ壇」を見る
 「二ノ壇(主郭)」から約3,4m程度下がった位置に「三ノ壇」が連続している。
 幅は上段の「二ノ壇」と同じく14,5mだが、長さは約60mもある。


 その後、しばらくは「毛利・三村」対「宇喜多」の構図が続くが、天正2年(1574)、状況が一変する。毛利に敵対していた宇喜多直家が、毛利氏と手を結んだのである。

 ここにおいて、三村氏は敵であった宇喜多氏が毛利に与したことにより、毛利氏と離反し、織田信長と手を組むこととなった。


毛利軍の国吉城攻め

 天正2年(1574)12月23日、毛利の大軍が国吉城下に陣を構えた。毛利軍の行軍案内役を務めたのは、三村家親の弟・親成(ちかしげ)であった。

 これは、上述したように宇喜多氏が毛利氏と和議した際、三村氏一族で意見が分かれ、家親の嫡男元親は織田方と手を結び、親成は「織田信長を信用できぬ」として、毛利方に残ったためである。
【写真左】「三ノ壇」
 現地には写真に見える建物(物見台か)が建つ。
 おそらくこの建物を竣工した時は、周囲の雑木は伐採され、眺望も効いたと思われるが、現在(2009年6月)はこのような状態なので、一部を除いて、眺望はほとんど期待できない。


 元親の決断は、三村氏の名誉と信義に基づくものであろうし、叔父・親成の判断は、現実を直視した結果であり、それぞれに理のあるものだろうが、結果として三村氏一族の分裂を惹起せしめることとなった。

 国吉城の守将は、元親の一族・三村政親が中心となり、舎弟三村大蔵・同七郎左衛門・宮ノ内蔵助大輔・丹下与兵衛ら名だたる部将が後陣を配した。
【写真左】「四ノ壇」
 最南端に設けられた郭で、「三ノ壇」から8m下がった低位に構築されている。幅は次第にこの辺りで絞られ、長さは20m余り。

 なお、この壇から更に20m程度降りた位置に、「脇郭(馬場)」があるが、現状は管理されておらず、踏査できない。
 

 このため、合戦は決着が容易としてつかず、毛利方の小早川隆景は、国吉城の四周の山々に大鉄砲を設置、旗指物がなびき、太鼓が打ち鳴らされ、鬨の声が上がった。
 激戦は連日続いたが、ついに大晦日の夜半、国吉城は毛利方の手により落城した。
【写真左】国吉城から北西方向の山並みを見る。
 国吉城周辺の山は、周囲の谷を隔てた位置に林立し、一部には写真に見えるように、こうした高所にも集落が残る。

 この写真の山も、天正年間、毛利方が攻囲し陣所としたものだったのだろう。

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