2012年9月17日月曜日

道竹城(鳥取県岩美郡岩美町新井)

道竹城(どうちくじょう)

●所在地 鳥取県岩美郡岩美町新井
●築城期 天文年間(1532~55)末期
●築城者 三上兵庫頭
●高さ 標高149m(比高130m)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2012年5月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 道竹城は因幡国(鳥取県)の東方岩美町にあって、現在のJR山陰線岩美駅の西方に築かれた山城である。

 実は登城したのは今回で2回目である。以前使っていたデジカメで遺構の写真を撮影した後、PCに入れたつもりが、操作の手違いで消えてしまっていたた。未だにその理由が分からない。その後、いずれ機会があるだろうと思いながら、数年が経っていた。したがって、今回再びの登城となった。
【写真左】道竹城遠望
 南側の国道9号線から見たもの。
現在、駟馳山トンネルを中心とした国道9号線のパイパス工事が行われており、写真に見える橋はその道路。



 さて、道竹城については、以前二上山城(鳥取県岩美町岩常)その1でも少し紹介しているが、天文年間に但馬山名氏の一族である三上兵庫頭(ひょうごのかみ)が、二上山城からこの地に移して築城したといわれている。

兵庫頭は、前記したように但馬山名氏の一族としているが、後述するように最近の研究では、彼は同氏一族ではなかったという説がある。

【写真左】二上山城遠望
 道竹城から南に登った同町岩常にある標高346mの山城で、文和年間(1352~55)に山名時氏によって築城されたとされている。
 南北朝期の因幡国を代表する典型的な山城である。




山名氏

 南北朝期、山名時氏が因幡・伯耆の守護となって以来、東隣国但馬と併せこの地域は山名氏の支配が長らく続くことになる。室町期の一時期には明徳の乱によって、山名氏は所領を減ずることになるが、この3国だけは依然として領有していく。

 そして山名氏の最盛期といわれるのが、山名宗全(持豊)の時代である。嘉吉元年(1441)、室町幕府6代将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺される(嘉吉の変)と、満祐追討の総大将に任命されたのが山名宗全である。この戦によって大功をあげた宗全は、その論功によって、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨などの守護職も与えられた。

 宗全の嫡子・勝豊は、但馬から因幡に入って当国の守護職となった。そして文正元年(1466)、それまで居城としていた二上山城から鳥取市布施の天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)に新たに居城を築き移り住んだとされるが、勝豊は長禄3年(1459)に亡くなっているので、文正元年が史実とすれば、移り住んだのは勝豊でない可能性もある。
【写真左】天神山城遠望









三上兵庫頭豊範

 ところで、天神山城へ移ったのち、二上山城下では治安が乱れ始めた。このため、村人たちは、但馬山名氏に頼み、二上山城へ代わりの城主を戴くよう懇請した。
 その任を担ったのが、岩常の邑長小谷八郎といわれている。もともと山名氏が二上城にあったとき、家臣であったが、天神山城へ山名氏が移った後も、彼はそのまま二上山城の麓岩常村字小谷に住んでいたという。

 懇請した結果、二上山城にやってきたのは、同氏一族の一人とされる三上兵庫頭である。この話は、江戸時代から伝えられており、但馬山名系の山名東揚(東揚蔵王)が還俗して、三上兵庫豊範と名乗ったとされている。

 しかし、この三上兵庫豊範については、地元鳥取の歴史家・高橋正弘氏によると、山名一族ではなく、近江系三上氏の三上経実であるとしている。
【写真左】登城道・その1
 登城コースは今のところ2か所あり、一つは東麓の岩美中学校の北側から向かうコース。もう一つは同中学校の南側校庭の縁からたどるもの。

 前回と同じく、今回も北側から向かった。なお、この位置から登ると、左側の看板にもあるように、仙英禅師記念碑にもたどり着ける。



 さて、二上山城に入った兵庫頭豊範は、その後二上山城の険峻な構造は平時の活動では不便が多く、下流部の新井に道竹城を築いて居城としたという。その時期は、上述したように天文年間、すなわち1532~41年の間と思われる。

 但馬山名氏が因幡山名氏を滅ぼすのが、天文17年(1548)である。山名氏は宗全の死後急激に勢威が衰え、但馬においては、誠豊の時代、守護代であった垣屋氏や、太田垣氏などの傀儡と化し、因幡においては、豊時(宗全の孫)の孫・誠通が辛うじて同国を名目上支配していた。
【写真左】分岐点
 先ほどの位置から数10メートルあるくと、ご覧のピークに出る。
 左に向かうと、道竹城で右に向かうと、仙英碑に繋がる。
 先ず、右に向かった。





 しかし、享禄元年(1528)、但馬山名氏の誠豊が亡くなると、甥であった祐豊が跡を継ぎ、守護代であった垣屋・太田垣を制圧し、さらには因幡の誠通を討って、弟の豊定(兵庫頭)、棟豊を因幡守護として入封させた。

 祐豊はその後、伸長著しい毛利元就とも手を結び、戦国大名として山名氏を復活させることになる。しかし、それもつかの間で天神山城を本城としてた頃、支城の位置づけとされた久松山の鳥取城を城番としていた武田高信が離反、さらには道竹城に拠った三上豊範も高信と呼応した。
【写真左】仙英禅師之碑
 江戸幕末期、桜田門外の変で殺害された大老・井伊直助に開国の思想を説いた彦根市の清涼寺の仙英禅師は、この岩美町出身で、昭和33年この地に記念碑が建てられている。

 この場所は、北側の日本海がよく見える場所で、改変されているようだが、北の守りとしての出丸だったかもしれない。



 このため、永禄7年(1564)、当時の因幡守護だった豊定の嫡男・豊数は、道竹城を突然襲い、三上豊範は不意を突かれ同城から逃れ、二上山城に奔った。しかしその途中で討死したという。

ただ、下線を引いた箇所についても、疑問がもたれている。つまり永禄7年頃の豊数は、武田高信によって鹿野城に追いやられていることや、豊範が亡くなったのは、天文10年(1541)の道竹城合戦のときであるということなどである。
【写真左】再び南の尾根道を進む。
 先ほどの記念碑から南に細い尾根が続く。途中で小規模な郭段や、堀切らしき遺構が認められる。
【写真左】本丸北側の郭
 登城道は西側に設置されており、途中から左側に2段の郭が見える。
【写真左】本丸跡・その1
 本丸跡は予想以上に広いが、前回登城したときに比べ、下草が大分伸びており遺構の様子が分かりにくい。
 この写真は東側から西の方向を撮ったもので、写真右に見える山は、駟馳山。
【写真左】本丸跡・その2
 前回登城の時もそうだったが、南側に延びる三角形の郭付近はご覧の通り熊笹が繁茂している。
 かなりの広さがあるため、伐採・草刈りが完全にできないのだろう。
【写真左】本丸跡から北西方向に桐山城を遠望する。
 桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)でも紹介したように、桐山城は山中鹿助が拠った城であるが、道竹城とは但馬往来(国道178号線)を挟んで、わずか2.5キロと指呼の間になる。
【写真左】本丸から西に網代(あみしろ)港を見る。
 中央を流れる川は、蒲生川で道竹城の南麓を流れている。
【写真左】二上山城遠望
 道竹城が築城される前の二上山城は、道竹城の南方にあるが、おそらく写真で示した山が当城と思われる。
【写真左】北方に浦富の海岸を見る。
 近年この海岸部は、「山陰海岸ジオパーク」として脚光を浴びている。
【写真左】北側の郭
 登城途中に少し見えた箇所だが、本丸から滑るようにして降りたのがこの郭である。この郭と本丸との比高は約6,7m程度あり、中々の切崖構成である。

 郭は北側がメインとなっているが、東側にも回り込んでいるので、帯郭の形式だろう。
 
 なお、他の遺構部と思われる写真も何枚か撮っているが、どれも草と雑木で覆われたものだったので省略する。

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